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ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報11 (ページ 56-60)

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阿 硼 図 20  二 の 丸 北 側 の 堀 の 復 元

Fig。20 A reconstruction plan of a moat on the north side of♂V力

η ο

α 協

本 体 部 調 査 区 f/弐 o       20rn …

(排

水管埋設)に伴 う調査の際 に検 出されている(年報

7)。

この調査 区の北端か ら約

8mの

所で、北側へ大 き く 落 ち込む部分が検出されている。付帯施設 に伴 う調査のため、底 までは調査 していないが、少な くとも

lm以

上 の深 さがあることが判明 している。位置か ら見て、 この大 きな落ち込みが、二の丸北側の堀の南岸であると考 え られ る。

今回の調査区の

50mほ

ど西側 は、大 きな段差で高 くなっている。段差 自身は、近代以降に整 えられた と思われ るが、 もともと、 この付近か ら急 に標高が高 くなってい くことは間違いない と考 えられる。そのため、堀の西端 が、 そ こまで延 びることは考 え難 い。一方、堀 の東端の、沢 との境 に設 けられた土橋 は、昭和

3年

図 まで同 じ位 置 に存在 した と考 えられ、それが現在川内南地 区を南北 に走 る道路が、北地 区に通 じる所 に相当すると考 えられ る。 ここは現在、両側が沢状 となってお り、その沢 を跨 ぐ土橋状 となっている所である。 このように考 えると、

堀 の東西両端がほぼ確定す ることになる。 これを基準 に、絵図に描かれた細部の位置関係 を勘案 して、図20のよ うな復元図を作成 した。 この復元では、第

8地

点の少 し東側が、堀 の幅が狭 くなる所 にあたる。 この第

8地

点付 近の、堀が最 も広 くなっているところでは、その推定幅 は約

53mと

なる。

幕末頃 と推定 され る

Ib期

の堀では、底 に堰状施設が造 られていた。遺構の検討の最後 に、 この堰状遺構の構 築手順 を整理す るとともに、堰状遺構 の性格 について検討 してみたい。

堰状遺構 の構築手順 を、あ らためて まとめたのが図21である。

まず、堀 の底 の地山を、堰の形 に削 り出す ように掘 り残 している。今回の調査では、

 Ib期

の堀 に先行すると 考 えられ る堀 は検 出されず、岸の上面付近 を除 くと、全て地山を掘 り込 んでいた。 これは、従来の堀 を更 に掘 り 下 げ、全体 として拡大する方向で、

 Ib期

の堀 を整備 したため と考 えられ る。江戸時代の絵図に見 える堀が、全 体 に広 げる形で変化 していることと、それに伴い堰 と思われ る施設が増加 していることは、時期が下 るとともに、

堀の機能 を強化す る方向で改修 されていった ことを示す と考 えられ る。大雨等の際に被害 を被 り、 より強化する 必要が生 じた可能性が考 えられるであろう。

次の段階以降の構築手順 は、上面の平坦面 と東西の斜面 との間では、厳密な前後関係 は判 らないが、説明の便 宜のため、図21の②〜④ の

3段

階 を設定 したが、 ここでは平坦面 と斜面 に分 けて記述する。

上面の平坦面の両端 には、丸太 を置 き、下流側 の東側 にだけ、杭 を打 って丸太 を止めている。次に、 この丸太 の間に整地 を施す。最後 に、整地層の上面 に、扁平 な石 を敷 き詰めている。

東西の斜面 には、丸太 に平行 して、 まず溝 を掘 っている。次 に、 この溝 の中に、石 を詰 めた蛇籠 を据 え付 けて いる。但 し、蛇籠の設置方法 には、次の

2通

りが想定で きる。一つは、蛇籠 に事前 に石 を詰 めてか ら、 この溝の 中に据 える方法である。 もう一つは、溝 の中に上が閉 じられていない籠だ けを置 き、 この場所で石 を詰 めて、 し かる後 に籠 を編 んで、開いた上側 を塞 ぐ方法である。今回の調査では、蛇籠の上の部分が、全て腐 って壊れてし

まっていたため、 この どち らであるか は不明である。

このように、入念 な工事 を施 しているのは、水流で堰状遺構が壊 されないための工夫であると考 えるのが妥当 であろう。現代で も蛇籠工法 は、水 によって土砂が流出す る危険のある場所 には、有効 な工法であるとされてい る。調査地点の西側 は、

50m程

の所か ら、急 に標高が高 くな り、丘陵へ と移行する。地形か ら考 えると、江戸時 代の二の丸北側の堀 は、本来 あった沢 を拡張する形で造 られた もの と推定 され る。そのため、 この堀 には、西方 の丘陵か らの水が流れ込 んでいた と考 えらる。西側の丘陵が急 に高 くなるため、そこか ら流れる水 は、大雨など の出水時 には、かな り急な流れ となった可能性がある。正保二・ 三図

(図 19‑1)と

寛文四年図

(図 19‑2)に

描かれた堀 は、西端 か ら東端 まで特別 の施設が無い。出水時 には、西側か ら流れ込んだ水が、直接東端の上橋 に 至 ることとなる。元禄 四・ 五年図

(図 19‑3)と

天明六〜寛政元年図

(図 19‑4)で

は、堀 の西半部が北側 に拡 張 され、その部分 に、南岸か ら堀 の中程 まで延びる堰状 の施設が見 られ る。 この構造であると、西側か ら流れ込 んだ水 は、南岸か ら延 びる堰 に遮 られ、拡張 された北側へ と、一旦誘導 されることとなる。 しかる後 に、堀の東

半部へ水が流れ込 む こととな り、 この過程で水流 を弱め、土橋 に急激 な流れが直接当た らない よう にす るのが、 目的であった と考 えられ る。安政三

〜六年図

(図 19‑5)で

は、更 に西側 に、堀 を横 断す る堰状 の施設が出現 し、 これが

Ib期

の堰状 施設 に相当す る。前段階の堀の構造 を考 えると、

さらに水流 を弱めるための工夫 と見 るのが 自然で あろう。すなわち、西側 の丘陵か ら流れ出た水 は、

まず堀 を横断す る堰でその勢いを弱 め られた後、

もう一つの堰で遮 られ北側へ誘導 され、 さらに勢 いを弱め られた上で、東半部へ と流れ込 む、

2段

階で水流 を弱 める工夫 と考 えて良いだろう。

検出 された堰状遺構 の上面 は、堀 の岸 より

2.4m

下 に位置す る。 そのため、出水時 にはこの堰状遺 構 は水中に没す る構造であった と思われ る。 また 通常時 に、堰 を乗 り越 える形で水 を流 していたの か、あるいは堰の途中に水 を流す施設が造 られて いたかは、今回の調査では明 らかにで きなかった。

いずれにせ よ、水流 を意識 した、江戸時代 の特殊 な工事 を示す遺構 として評価す ることがで きるで あろう。

←西 (上 流

)

東 (下 流 )→

②平坦面の両端に丸太を置き、下流狽

1に

杭を打って止める。

③東西の斜面に溝を掘る。

平坦面の丸太の間に整地をする。

④東西の斜面の溝 に石 を詰 めた蛇籠 を据 える。

平坦面に石 を敷 く。

21 

堰状遺構の構築方法復元図

Fig.21 A reconstruction of the process building a dam at NW112

山序

①堀の底の地山を堰の形に掘り残す。

4.出

土 遺 物

今回の調査で は、

H期

とした基本層7層以上の層位で出上 した遺物が圧倒的多数 を占め、I期の

8層

以下の層 位で出上 した遺物 は、極 めて少ない。 そのため、近代の遺物 は膨大 な量が出土 しているが、近世 の遺物 は微々た る量である。膨大 な近代 の遺物 を、限 られた時間の中で整理 し資料呈示するためには、独 自に方法 を検討するこ とが必要であった。 したがって、おのずか ら近世の遺物 と近代の遺物では、異なった方針で対処す ることとなっ た。以下の遺物の報告で も、近世 の遺物 と近代 の遺物 とに大別 して、記述することとする。

(1)近

世の遺物

 

陶磁器・ 土器

(図 22・ 23・ 24、

図版9。

10・

11、 表6・ 7・ 8)

江戸時代の陶磁器・土器 は、8層、10層、■層 と、7層より上の明治以降の堆積層か ら出土 している

(表 2〜 4)。

江戸時代 の遺物 の出土量が少ないため、明治以降の堆積層 に混入 していた資料 について も、今回は可能な限 り資 料化 に努 めた。

11層と10層か ら出上 した陶磁器 は、10層か ら19世紀の堤焼 の軟質施釉土器の細片が

2点

混入 している点 を除 け ば、おおよそ17世紀代 におさまる。11層・12層出土の陶器 には、仙台城か ら数多 く出土す る大堀相馬焼 は1点も 含 まれていない。大堀相馬焼 の創業年代 は元禄年間前半 と推定 され(年報

7・ 10)、

大堀相馬焼 を含 まない ことが、

■層・12層出上の陶磁器の年代 を17世紀代 とす ることの傍証 になる。

8層

お よび7層直下出上 の陶磁器 は、18世 紀代 の ものが多い。

8層

以下の堆積層か ら出土 した陶磁器 について産地別 に見た場合、磁器 は瀬戸産の ものを合 まず、陶器 は、

10。

11層では肥前、瀬戸・ 美濃、岸窯が、

8層

には京 。信楽 と小野相馬焼が認 め られ る

(表 5)。

岸窯製品 は、10層か ら香炉 と播鉢が各1点ずつ出上 している。

7層より上層の明治以降の堆積層や遺構 に混入 していた陶磁器で は、本地点の南側 に隣接する仙台城二の丸地 区におけるこれ までの調査でほ とん ど認 め られなかった瀬戸産 の陶器 の瓶掛、徳不U、 火入が出土 しているので、

それ らについて若干触れ る。111は、「呂朱瓶掛」 と呼 ばれ るもので、瀬戸市西茨町勇右衛門窯や岩右衛門窯 に類 例が認 め られる。 また、伝世品には文化12年 (1815年

)の

紀年銘資料があ り(藤沢

1998)、

19世紀前葉 に位置づ け

られる。115の「貧乏徳利」 は、肩部 に釘書 きを有す る。■6の「尾 呂徳不U」 は形態的特徴か ら判断 して、瀬戸の 藤沢編年の第

6小

期 に位置づ けられ よう。119の縦筋文 を有す る火入 は、瀬戸村産 と考 えられ、天明

3年

(1783年)

の浅間山噴火 に伴 う降灰・泥流層 によ り封印された、群馬県渋川市中村遺跡出土資料のなかに類例が認められる。

27の磁器丸鉢 は切込産である。 これに類似す る資料 は、宮城県加美郡宮崎町宮崎字切込の中山窯跡窯下平場貯水 池埋没直前の遺物投棄層か ら出上 してお り、切込焼編年のⅢ期(1860〜 70年代)に年代比定 されている

(佐

1990)。

上器 については、陶磁器 と異 な り、上層 に混入 した江戸時代 の遺物 を全て認識で きるわ けではない。細片が多 く、図化で きたのは、瓦質の括鉢、蚊遣 り

?各

1点のみである。瓦質の播鉢

(図 24‑1)は

、仙台城二の丸跡

6・

9号

土墳出土資料

(仙

台市教育委員会

1985)に

類例が認 め られ ることか ら、17世紀初頭〜前葉 に位置づ けられ よ う。蚊遣 り?と した もの

(図 24‑2)は

、仙台城二の丸跡第

9地

点出上の蚊遣 り

(年

8・

9)に

比べ小型で、

内面 にタール状 の付着物 も認 め られない ことか ら、別の用途 を考 える必要があるか もしれない。年代的には、18 世紀末〜19世紀中葉の可能性が高い。

 

その他の遺物

(図 25、

図版11、4・ 9)

その他 とした遺物 には、土製品、瓦、漆椀、下駄、箸がある

(表 4)。

上製品は全て明治時代以降の堆積層中か ら出上 してお り、近代 に属す る可能性 もある。いずれ も細片のため図 化 した ものはない。

瓦 については、明治時代以降の堆積層 に江戸時代 の瓦が混入 していた場合、近代の瓦 と識別す ることが困難 な 場合 も多いため、 ここでは、

8層

以下の層序か ら出上 した もののみを江戸時代の瓦 としている。瓦の種類 として

38

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報11 (ページ 56-60)