1)医学部の組織再編
平成12年(2000)医学研究科に新興感染症病態制御 学系専攻(独立専攻)が設置された。
平成13年(2001)医学部に保健学科が設置された。
医学部医学科の31小講座,1大講座の6大講座に 改組した。
平成14年(2002)大学院医歯薬学総合研究科が設置 された。医学部医学科の6大講座を4大学科目に改 組した。
平成15年(2003)大学院医歯薬学総合研究科に附属 原爆後障害医療研究施設および附属薬用植物園が設 置された。
同年 先導生命科学研究支援センターが設置され た。(アイソトープ総合センター,遺伝子実験施設 および医学部附属動物実験施設の廃止)
同年 医学部・歯学部附属病院が設置された。
(医学部附属病院と歯学部附属病院の統合)
2)大学の法人化とその後
平成16年(2004)国立大学法人法により,国立大学 法人長崎大学が長崎大学を設置し,大学の経営なら びに運営方針が大きく変わった。
同年5月1日 寄附講座「離島医療学講座」が大 学院医歯薬学総合研究科に設置された。これは長崎 県および下五島の一市五町の寄付(平成16〜20年度 の5年間で2億5百万円)により運営される。五島 中央病院に離島医療研究所を置いて研究拠点とする とともに,医学部学生の離島医療実習の教育にも携 わることとなった。
平成17年(2005)8月9日 被爆後60周年記念原爆 犠牲者慰霊祭が文部科学省関係者の列席を得て,執 り行われた。
平成18年(2006)4月 医歯薬学総合研究科に保健 学専攻が設置された。
同年 医学部医学科に先端医育支援センターを設 置した。
3)医学部創立150周年
平成19年(2007)創立150周年記念式典が,西洋医 学教育発祥150年記念式典と合同で医学部記念講堂 において開催された。Stanley B. Prusiner氏(1997 年度ノーベル賞受賞者)と小和田恒氏(国際司法裁 判所判事,ライデン大学教授)の特別講演が行われ た。なお,これらは西洋医学教育発祥150年記念国 際医学史科学史会議の形式をとり,11月9,10日の
両日に開催された。また,翌10日には平成19年度日 本医史学会秋季大会,平成19年度日本薬史学会年会,
2007年度洋学史学会秋季大会合同大会が開催されて いる。
その他の主な創立150周年記念事業としては,次 のものがある。
生涯学習国際センター「良順会館」新築(建て替 え),門扉の改装(戦前の門扉を再現),国際医療倫 理シンポジウム(市民開放),市民公開健康講座「医 学部に来てみませんか:ヘルストーク&クエスチョ ン」,医学部学生主催「医学展」(市民開放),シュ ヴァイツァー博士の核実験禁止アピール50周年記念
コンサート,150周年記念展覧会「勝海舟と幕末長 崎」,長崎大学医学部150周年記念誌等の出版,ポ ンペ記念レリーフ製作,ポンペ国際基金の設置等の 多彩な事業が展開された。
同年12月 旧同窓会館跡地に建設された良順会館 が竣工した。なお,この良順会館は長崎医学同窓会 からの寄付を中心とした基金により建設されたもの である。
平成20年(2008)5月17日医学部・歯学部附属病院 の新築開院式が行われた。なお,旧病棟・外来棟は 今後改修し,外来や医局などとして使用される予定 である。
医学部基礎キャンパスの現在(平成20年8月)
昭和58年の中央の基礎3棟が8階だての高層研究棟に一新された。新しくなった原研棟がその左横。右側の緑に囲まれた熱帯医学研究所。
こんもり繁った森はグビロが丘である。上端の浦上天主堂は再建され,赤レンガの美しい姿にもどっている。
第 5 章
医学部の発展を築いた偉人
ほとんど木造建築であった旧医科大学基礎キャンパス。この中で多くの教職員,学生が原爆によって亡くなった。
茂吉は父守屋伝右衛門母いくの第3男として山形 にて出生しました。菩提寺である宝泉寺の住職佐原 窿応に習字や漢文を習い,養父斎藤紀一の父である 斎藤三郎右衛門に凧絵の指導を受けています。この 頃茂吉は小学校の帰りに春も追々深くなっていく林 に寝ころんで,ひとつ絵描きの修行にでも出かけよ うか,それとも宝泉寺の徒弟になってしまおうか,
あるいは百姓をしながら山蚕でも飼おうか。そんな ことを思って時を過ごすことが多かったと述懐して います。
親戚である斎藤紀一は東京で開業しており,病院 及び斎藤家の将来を考えて養子にふさわしい少年を 求めていました。そのため菩提寺である宝泉寺の住 職佐原窿応に依頼し和尚の仲立ちで茂吉の斎藤家へ の上京が決定しました。しかし紀一のもとに引き取 られた茂吉は,学校の出来が良かったら養子にして も良い,という紀一の思惑で身分的には不確かな地 位に置かれていました。斎藤紀一は精神病者監護法 の成立と時期を同じくして精神科の病院を設立して います。紀一は自らの病院を帝国脳病院と命名して おり,北杜夫の小説「楡家の人々」にも紀一がモデ ルの登場人物が出てきますが,一風変わった人物で あったようです。茂吉とは完全に相容れぬ性格で,
茂吉は紀一(養父)のやることなすことに嫌悪と言っ ていい感情を持っていましたが仕方なしに苦笑しな がらついていったと斎藤茂太は述べています。茂吉 は友達にあてた手紙に,『元来小生は医者で一生を 終わらねばならぬ身。』とか,『かんとかなんとか いっても金でもできるだけもうけ父母を安心させ,
今の病院をうけつげば目が回るほど多忙にならむ,
小生は骨を砕き精を灑いで,俗の俗人とあいなりて 終わる考えにてまた是非なき運命にござ候。』と書 いており,俗中の俗とならんとする茂吉には運命観 による処世態度が感知できますが,やはり養父をた て医学のさらに精神医学の道を歩む事になります。
養父紀一はその後も要所要所で茂吉に影響を及ぼし ます。茂吉に対して医学はすぐ古くなるが歌は永遠
だ,などと表面的には理解を示していたものの,医 学論文を一つも書かない医学者としての茂吉には不 満を持っていたようです。石田教授留学のため後任 として呉秀三教授から交渉があった時,茂吉には未 知のものにふれることによって歌作に新しい境地が 開けるのではないかという期待や,留学のためには 教授の地位が有利であるという思いがあり,また紀 一も後継者のために教授の箔がつくことを思って賛 成したようで,二人の利害は一致していました。こ うして,長崎医学専門学校教授に任ぜられ,さらに 県立長崎病院精神科部長嘱託となったわけです。茂 吉は1921年までの3年と3ヶ月をここ長崎にて過ご すことになります。長崎時代の後半にはスペイン風 邪や喀血と体調を崩すことが多かったのですが茂吉 としては,医学上のことはとうとうできずに死んだ と言われることは,男として,専門家として残念で ならぬ,そしてそのためには留学をせねばならない と常々もらしていました。そのため1921年に長崎を 去り,ヨーロッパに留学することになりました。茂 吉が担当した講座は4年生の精神病学と法医学でし た。『講義などはいやでならないが,何とかごまか していきたい』と知人にぼやいていました。赴任後 間もない時に前任者の石田 昇教授から譲り受けた 講義ノートを忘れて,立ち往生してしまい,学生の 前に頭を下げて謝ったという失敗談も語られていま す。医専の運動会では職員リレーでアンカーをつと め,飛ぶような格好でゴールに突貫したとか,医専 の野球部長もしていたようで試合で負けた日は唯一 の医局員であった杠葉氏に散々当たり散らした,と か茂吉の人柄をしのばせるエピソードは長崎時代に おいてもやはり豊富です。
精神医学的業績は医学論文としては全部で6編で す。30歳前後は精力的に抄録を翻訳されています。
最初の論文は日本語で1921年の「緊張病ノえるごぐ らむニ就キテ」と同年の「二タビ緊張病ノえるごぐ らむ二就キテ」です。1890年にモッソーによって生 理学誌に発表されたもので中指を一定のリズムに合