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3.フォン・シーボルトの医学と博物学

ドキュメント内 創立150周年記念誌 (ページ 34-37)

シーボルト肖像 (長崎歴史文化博物館蔵)

 フォン・シーボルト(Philipp Franz B. von Siebold, 1796-1866)はドイツのビュルツブルグに生まれ,ビュル ツブルグ大学に学んだ。祖父のカール・カスパル,

父クリストフと叔父2人がこの大学で教授を務めて いた時期がある。シーボルトは2歳の時に父を失い,

母アポロニアとともに母の兄ロッツ司祭のもとで暮 らした。ビュルツブルグの郊外にあるハイディング スフェルトの町の司祭館でロッツ司祭の教えを受け ながら成長した。大学時代,父の友人デリンジャー 教授の元に寄寓して解剖学や博物学の薫陶を受け た。出身地の卒業生と在校生の親睦団体メナニア会 に所属し学生団長を務めた。今も講堂,ビアホール,

フェンシング道場を備えたメナニア会専用の家屋が ある。他の会の会員とサーベルで決闘を30回以上経 験して,顔に疵があり,日本の武士を畏怖させる風 貌を備えていた。1820年優秀な成績で大学を卒業し た。その後2年間ハイデングスフェルトで開業した。

 ジャワで疫病が蔓延したのでオランダ軍軍医総監 ハルバウアーは,1821年母校のビュルツブルグ大学 医学部にオランダ領東インドへの医師派遣を要請し た。1822年,祖父カール・カスパルの弟子であった 総督は,参加を決意したシーボルトを大抜擢する。

シーボルトは大学卒業後2年の経験にもかかわらず オランダ領東インド陸軍少佐として採用され,バタ ビアに派遣された。蘭領東インド総督カペレンは,

バタビアの高地にある植物園を併設したバイテンゾ ルフの別荘にシーボルトを招いた。そのとき彼を日

本に派遣すれば第二のケンペル,ツュンベリーにな る人だと確信した。バイテンゾルフの気候は日本に 近く,この地の植物園でシーボルトの採取した植物 は育てられた。

メナニア会団長シーボルト

(右から二人目青い服の学生がシーボルト)

 1823年27歳のシーボルトは広範な日本研究の使命 を帯びて新商館長と共に出島に赴任した。商館長ブ ロムホフは帰国する前に蘭方医たちをシーボルトに 引き合わせた。彼は美馬順三(みまじゅんぞう),湊長 安(みなとちょうあん),岡研介(おかけんかい),吉雄幸 載(よしおこうさい)らがオランダ語とオランダ医学に 熟達しているのに驚いた。彼の研究を育む肥沃な土 壌が長崎にあったのである。彼はドイツの教授の手 法で弟子達に種々のリサーチのテーマを与えオラン ダ語で論文を書かせただけでなく,学術書を蘭訳さ せ,資料を収集させて,帰国後それらを集大成し

『日本』,『日本植物誌』,『日本動物誌』の三つ の大著を編纂した。

 シーボルトは,通詞の吉雄宅と楢林宅を訪問し講 義と診療をおこなった。内科の多くの疾病を治療し ただけでなく,多くの手術器具を使って外科手術を 実践して見せた。白内障手術は日本では水晶体を墜 下しただけで,眼内に残されていたが,彼は散瞳薬 を用い水晶体を摘出した。土生玄碩(はぶげんせき)は 瞳孔が閉じて盲目となった患者に針で穴を開けてい たが,彼は光学的に虹彩を切除した。叔父のアダ ム・エリアス・シーボルトはベルリン大学の初代産 科学の教授であり,産科鉗子を改良している。しか しシーボルトがもたらした鉄製の鉗子は日本では普 及していない。水原義博が1832年に鯨のヒゲから探 領器を作成し,それを使い,ひもを胎児に回して娩 出する方法を開発して,広く使われるようになった からである。シーボルトは腹水穿刺をおこない,舌 の腫瘍の切除や乳房切除術もおこなった。失敗もあ り,少年の右目の上にあった脂肪腫を切除したが死

亡した。1804年,麻沸散による全身麻酔で乳癌摘出 術をおこなった華岡青州の弟子本間玄調は,シーボ ルトにも学んだが,青州のほうが外科手術は優れて いると思った。江戸参府の道中,水銀剤の用法を 誤って梅毒を治すよりも悪化させているのを指摘し,

正しい方法を教え,痔瘻の手術や陰嚢ヘルニアの整 復をおこなった。江戸ではベラドンナで瞳孔を開い てみせ,兎唇の手術をおこない,種痘の術式を実演 してみせた。土生玄碩には請われて散瞳薬を与えて いる。玄碩は将軍拝領の葵の紋服を返礼に送り,こ のためシーボルト事件に連座し,座敷牢に蟄居する ことになった。

 彼の名声が高まり門下生が増えると,彼らを鳴滝 の別荘に住わせるようになった。美馬順三,岡研介 や高 良斎(こうりょうさい)が指導し,シーボルトが講義 に訪れる鳴滝塾には全国から多くの俊秀が集まった。

 シーボルトによってオランダ医学はただ書物から 学ぶものではなく,鳴滝塾で診断治療の実際を目の 当たりにして学ぶものになり,西洋医学の診断治療 が日本の伝統的医学を上回るものであることが認識 されるようになった。門弟達の語学力もさらに向上 し,高 良斎や高野長英ら弟子達はこれまで以上に オランダの医学の教科書を次々に和訳した。翻訳さ れた教科書にはシーボルトが贈ったり,紹介したも のもある。

 1828年江戸で天文方高橋景保(たかはしかげやす)が 国禁の日本地図を彼に渡した罪で逮捕され,世に有 名なシーボルト事件が起こった。弟子や友人が刑に 処せられ,シーボルトは1829年末国外に追放された。

その後19年間も出島の商館医は不在となり,日本は その後急激に進歩した西洋科学の受入の窓口を失っ た。

 シーボルトが蒐集した日本の植物はバタビヤとオ ランダの植物園で馴化され,ヨーロッパの園芸用の 植物として定着していった。彼は伊藤圭介にツュン ベリーの書を,宇田川榕庵(うだがわようあん)にスプ レンゲルの『植物学入門』を与えた。彼らはこれら を元に近代植物学を紹介する書を著して本草学から 脱皮した日本の植物学が始まった。日本の植物の学 名を調べるとシーボルトによる命名が多いのに驚か される。シーボルトはパトロンのパウロニアオラ ンダ国王妃(ロシア皇帝の娘)にキリ属にPauwloniaと いう属名を献じている。日本名を種名とした植物 としてハマボウ Hibiscus hamabo Sieb. et Zucc. ウ

ガクアジサイHydrangea azisai Sieb.

学名はHydrangea macrophylla Ser.f. normalis

『日本植物誌』(シーボルトとツッカリーニ 共著,長崎大学附属図書館医学分館蔵)より。

楠本たき

シーボルト『日本』

(長崎大学附属図書館医学分館蔵)

アジサイHydrangea otaksa Sieb. et Zucc.

現在の学名はHydrangea macrophylla Ser.f.

macrophylla

『日本植物誌』(シーボルトとツッカリーニ 共著,長崎大学附属図書館医学分館蔵)より。

鳴滝塾舎之図 (長崎大学附属図書館経済学部分館蔵)

長崎の画家成瀬石痴によって描かれた水彩画。

メPrunus mume Sieb. et Zucc. がある。アジサイは 長崎でオタキサン花と呼ばれ,市花となっている。

シーボルトは愛するお滝さんに捧げて美しいアジサ イをHydrangea otaksaと命名,地味なガクアジサイ をHydrangea azisaiと命名した。しかしアジサイの 現在の学名にはお滝さんの名は無い。

再度の渡来と娘イネ

 1859年シーボルトは,長男のアレキサンダーを連 れて長崎の港にふたたび到着した。前回のきびしい 入国手続きとはちがい,簡単に出島に上陸できたば かりか,彼は本蓮寺(筑後町)の境内にある住宅に住 み,その後鳴滝の別荘に引越すこともできた。

 娘のイネは二宮敬作や石井宗謙のもとで医学の修 行をしたあと,父シーボルト再来日直前に長崎に 帰って,ポンペのいる養生所で近代西洋医学を学ん でいた。ポンペのはじめての解剖学実習は,1859年 9月9日西坂の刑場でおこなわれた。ポンペによれ ば45名の医師と1名の女医が参加したと記録してい る。その女医とはシーボルトの娘イネであった。西 洋医学の日本最初の女医イネは産婦人科を専門とし た。イネは,1870年東京で開業し,1873年宮内省か ら招かれて明治天皇の権内侍葉室光子の出産に立ち 会った。しかし惜しくも死産であった。

 1861年シーボルトは江戸に移り,幕府に多くの助 言をした。しかしオランダ総領事が,ロシア贔屓

びいき)の彼の活動を嫌ったので,幕府は彼を江戸 から退去させた。長崎に帰ったシーボルトは蘭領イ ンド総督からのジャワへの帰還命令により,1862年 に長崎を去った。

 帰国したシーボルトは,1864年から生まれ故郷の ビュルツブルグに住むようになった。1866年彼の コレクションがバイエルン政府によって購入され,

ミュンヘンの博物館で展示された。彼は陳列室で仕

事をしていて風邪を引いた。1866年10月21日,いま はの際に《余は美しき国,平和の国へ行かん》とい う言葉を残して逝去した。彼のあこがれた日本,緑 あふれる自然があり,自然と調和して人といがみあ わずに平和に暮らす和と礼節の社会は現在見る影も ない。

 彼の墓所はミュンヘンにある。シーボルトのレ リーフのある墓石には《強(なる)哉矯(たり)》とい う『中庸』からの言葉が刻まれている。孔子が子路 から「強」について質問され,勇猛果敢な子路をい さめるかのように中庸の道をしっかりと強く保持す ることを説いた言葉の一節である。強烈な個性の持 ち主シーボルトのたゆまず日本研究に没頭した人生 を評してこの言葉を選んだのは日本語に造詣の深か かった息子のアレキサンダーであろうか。

シーボルト瀉血図 (長崎歴史文化博物館蔵)

川原慶賀がフランスの医学書の絵を参考として書いたもの。

瀉血は長らく西洋医学の治療法として用いられてきたが,

シーボルトの時代も行われていたと思われる。

長崎大学医学部発祥150周年記念ロゴマーク

医学部のロゴマークにはシーボルトノキが用いられている。牧 野富太郎は鳴滝塾にあったクロウメモドキ属の新種(和名シーボ ルトノキ)にRhamnus sieboldii Makinoと命名した。後年中国の Rhamnus utilis Decne.と同種である事が判明した。シーボルトが 中国から取り寄せたのであろう。鳴滝の原木は枯れ,その一部 が医学分館にある。

ドキュメント内 創立150周年記念誌 (ページ 34-37)