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2.牛痘種痘の父モーニッケ

ドキュメント内 創立150周年記念誌 (ページ 38-41)

国際感染症と長崎

 島国日本には本来無い病気が,肥前や筑前の海岸 に漂流した人々や,海外貿易に関わる人々から感染 し日本中に伝播することがある。江戸時代,日本全 国の漂流民は海外貿易の窓口である長崎に集められ た。出島に東南アジア人やアメリカ人が,唐人屋敷 に中国人がそれぞれ預けられ,オランダ船や唐船で 送り返されていた。従って江戸時代天然痘(てんねん とう),悪性の風邪,コレラなどのような地球規模 で流行する国際感染症の多くは長崎から広がって いった。

国際感染症の治療法や予防法も長崎から

 一方国際感染症の治療法や予防法も長崎から導入 された。日本に蔓延していた梅毒に対する治療法は ツュンベリーによってもたらされ,塩化第二水銀を 用いたスウィーテン水による治療で多くの患者の病 状が劇的に改善した。さらにモーニッケは日本人を 脅かし続けた天然痘をワクチンによって予防すると いう近代西洋医学の最大の贈り物をもたらした。

 天然痘は日本には本来無い病気である。天然痘に 乳児が感染すると,咽頭,食道に水疱を生じ,授乳 が困難となり,死亡率5割を超えた。化膿してかさ ぶたを作り,剥がれた跡はあばたとなって容貌を変 えるので女性に恐れられた。江戸時代の人口が増加

しなかった要因の一つは乳児死亡率の高い天然痘が しばしば流行したからである。天然痘の唯一の救い は一度罹ると二度罹らないことである。人痘で免疫 する法は死亡する危険があるけれども古来よりおこ なわれてきた。人にとっては弱毒の牛痘で人痘に対 する免疫を獲得するジェンナーが発明した牛痘法は 死亡することはなく安全である。

 1823年シーボルトの前任者チューリンフが最初に 牛痘の接種を試みた。シーボルトも同年8月痘苗を 持って来日した。ジェンナーの牛痘発見後27年のこ とである。ブロムホフ商館長の日記に接種後3日目 に「ドクトル シーボルトが私に予防接種は全てよ い結果の出る徴候を示したと知らせた」とある。し かし植え継ぎは失敗したようである(当時牛痘の長期保 存は困難で,子供の腕から腕へ植え継ぐしかなかった)。吉雄 圭斎(1822-1894)はシーボルトの弟子吉雄幸載の次男 である。1823年1歳のときシーボルトに牛痘を植え てもらった。1859年再度来日したシーボルトは吉雄 圭斎が天然痘に罹患していないのを確かめ,彼の腕 にかさぶたを形成した跡があり,牛痘は確かに生着 していたと思った。

 大通詞楢林鎮山の孫栄哲には長男栄建,次男宗建 があり,共にシーボルトに教えを受けている。1829 年,楢林宗建(1803-1852)は肥前藩御番方医師となっ た。1847年,出島の医師でもあった宗建は藩公鍋島 直正の内意を受けてバタヴィヤから牛痘の取り寄せ を商館長レフィゾーンに依頼した。

エドワード・ジェンナー 牛痘法の発明者 1796年エドワード・ジェンナーの発明した牛痘 法は人には軽い症状しか起こさない牛痘を人に 感染させて天然痘を予防するもので決して死亡 することのない画期的な方法であった。

(リトグラフ)

牛痘に感染したサラ・ネルムスの手 (ジェンナーの著作より)。

ジェンナーは牛痘に感染した乳搾りの女性は天然痘に罹らない ことに着目した。乳搾りの女性サラ・ネルムスの牛痘の漿をラ ンセットで子供の腕に浅い切開を施し塗りこんだ。一月半後,

その子供に人痘を接種してもつかなかった。感染症をワクチン によって免疫する予防法がこのとき確立した。Vaccineの語源と なったVaccaは雌牛を意味している。

牛乳房の牛痘

(The Treatise on vaccination by Luigi Sacco, Milan, 1809より)

牛痘種痘の父 モーニッケ

 モーニッケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike, 1814-1887)は 1814年ドイツのストラールズントで高位の聖職者 Gottlieb Christian Friedrich MohnikeとKaroline の 一人息子として1814年7月14日に生まれた。姉妹は 6人いた。

 モーニッケは1833年,地元のグライフスバルト大 学に入り,フンボルトの理念で建てられた新設のボ ン大学に移り,次いで同じフンボルト大学であるブ レスロー,ベルリンの各大学で医学を学んだ。人の 性本能を他の動物と比較したThesis論文De instinctu sexuali eiusque natura atque causisをベルリンで発表 した。このことから博物学に興味があったことがわ かる。モーニッケは1844年ジャワでオランダ領東イ ンド軍の軍医になった。1848年から3年間出島に商 館医として滞在し,1851年秋ジャワに戻り,東南ア ジアの各地で活躍した。彼は動物や鳥を飼い,昆虫 の標本箱に囲まれた生活を送っている。その後一等 陸軍軍医を統括する立場まで登りつめ1869年に退官 した。モーニッケは日本に聴診器や産科機械をもた らし,気候観測を出島で行った。長崎大学医学部に はモーニッケがもたらした日本最古の聴診器(聴胸 )がある。吉雄圭齋が寄贈したものであり,レン ネックが初期に作った筒型の聴診器である。

 モーニッケは1848年夏に牛痘苗をもって赴任し た。この痘苗は長い航海中に失活し,植え継ぎは失 敗した。楢林宗建は人痘の接種に用いる痘痂(かさぶ

)は数ヶ月たっても効能があるので痘漿でなく痘 痂をバタヴィアから運ぶように提案した。バタヴィ アの医事局長ボッシュは数種類の方法で痘苗を送 り,1849年8月出島に到着した。効能があったのは ボッシュが自分の子供に接種して採取した痘痂であ り,宗建の子健三郎に植えたものがみごとな水疱と なった。モーニッケはこの痘漿を植え継ぎ長崎の種 痘所で多くの子供達の腕に種痘を施し,痘苗を維持 して接種法を広めた。宗建の種痘成功の報告を受け て,佐賀藩鍋島直正公は世継ぎの淳一郎に種痘させ たので,まず佐賀藩で広く接種された。1849年秋 参勤交代の折佐賀から江戸に運ばれた痘苗はシー ボルトの弟子伊東玄朴により直正公の娘貢姫(みつひ

)に接種され,その後関東,東北に広められた。

1858年に玄朴らにより設立された神田お玉が池の種 痘所は東京大学の前身である。京都に運ばれた痘苗 はシーボルトの弟子の日野鼎哉や楢林栄建により関 西に,笠原良策により北陸に広められた。半年の間 にモーニッケ痘苗が子供の腕から腕へと日本全国に 広がったのは驚くべきことである。宗建は『牛痘小 考』を著し牛痘の接種法を世に知らしめた。牛痘の 普及には全国至る処にいたシーボルトの弟子達が大 きな貢献をしている。

 宗建はモーニッケとの対話を記録した『磨尼缺對 談録』を残している。1848年の牛痘の失敗と新しい 薬物や症例について書かれている内容の中で特筆す べきは,1847年に始まったクロロホルム吸入麻酔

オットー G. J. モーニッケの肖像

(中外医事新報より)

日本最古の聴診器

モーニッケが吉雄圭斎に与えた,レンネッ クの初期の型式の聴診器である。日本で作 成されたのではないかと考えられていた が,日本の胡桃ではなく西洋のペルシャぐ るみの木から作られたものであることを原 爆で逝去された角尾晋長崎医科大学長が調 べて報告している。

(長崎大学附属図書館医学分館蔵)

楢林宗建肖像 (長崎歴史文化博物館蔵)

麻酔という言葉は使われていない)の紹介である。その文 章を引用する。

《コロロフヲルム

 此薬は千八百四十七年の頃ドイツ国に於てアンデ ルセンと云()る者発明し,人をして麻痱せしめ以 て手術を施す一奇薬とす。其法ブリキ盤を以て製し たる鑵状の器械に之を滴入し其器械を口に接し呼吸 に随()て薬気を吸入せしむるときは其人漸く麻痱 を軀の然れども人事不省には至る事なし。之を度と して手術を施すときは患者は豪も痛みを知ることな し。もし手術を施したる後,麻痱復せざる者はコー ヒー湯あるいは薬湯を服せしむるべし。

 此薬はchlorを−−−の−−−に合製したる者な り。用法は大人に三,四滴,より六,七滴まで一片 の海綿に點滴し,之を器械の内に入れ,其薬気を吸 引せしむ。小児には用ゆる勿れ。》,

 このほかにストリキニーネやモルヒネの効用も紹 介されている。卵巣水腫の患者の腹水穿刺に圧迫帯 を使用することや,下肢切断法を教えている。

博物学者モーニッケ

 モーニッケは博物学,中でも東南アジアの動物学 の研究に一生を捧げた。日本で見出した新種のタ ツノオトシゴには東南アジアの魚類の大家ブリー カーがモーニッケに種名を献名してHippocampus

mohnikei Blkr.と名付けられた。東南アジアが彼の

活躍の舞台であり,『オランダ領マレー諸島の植物 と動物』という大著をはじめ多くの業績をあげてい る。昆虫には彼の名付けたものが多数あり,花にも ぐりこみ蜜や花粉を手に入れるハナムグリでは多く の新種を見つけている。カブトムシの図鑑に出てい るオオサイカブトムシOryctes gnu Mohnikeやモー ニッケイノコギリクワガタProsopocoilus mohnikei Mohnikeiは彼が命名したものである。ウオレス線 や進化論で有名なウォレスがハナムグリの分類の競 争相手であった。ウォレスが進化論を纏めたのは 1858年東南アジアにいた時であった。その著『マ レー諸島』の中で1857年モルッカ諸島のアンボイナ にいたモーニッケを訪ねた時の事を記述していて,

彼の人柄の良さと甲虫や日本のオサムシ等の彼のコ レクションの素晴らしさにふれている。モーニッケ には人類学の分野でも『日本人』,『猿と原人』等 の優れた著作がある。博物学に関する多くの本は軍 を退官してボンに帰ってから出版されている。ジャ ワ,スマトラ,出島,ボルネオ,アンボイナの各地 で調査した膨大な結果を纏めたものであって一生た ゆまなく博物学の研究に没頭した事がうかがえる。

 モーニッケはシーボルトが失敗した牛痘普及を成 功させ,シーボルトと同様に博物学で業績を残した 素晴らしい国際医療人であった。

『牛痘小考』

楢林宗建が牛痘法を普及するために著し た。モーニッケの教えた内容と牛痘接種 後の症状を書いている。

(長崎大学附属図書館医学分館蔵)

タツノオトシゴ Hippocampus mohnikei Blkr.

(ブリーカーの著作より)

『牛痘小考』の挿絵

ドキュメント内 創立150周年記念誌 (ページ 38-41)