黒々とした巨大なアメリカの蒸気軍艦が1853年に 浦賀に来航した。日本は黒船の大砲の轟きにより 泰平の眠りから覚め,海軍設立に向けて動き出し た。250年に及ぶ友好国オランダは海軍派遣隊を送 り,1855年より長崎で海軍伝習が始まった。第二次 海軍派遣隊長のカッテンディーケは日本の軍医派遣 の要請に応えて信頼する誠実な人柄の海軍二等軍医 ポンペを選んだ。
ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes
Lydius Catharinus Pompe van Meerdervoort)は1829年5月 5日に,現在ベルギーのブルージュで由緒正しい 貴族の家に生まれた。1818年祖父(Johan Petrus Pompe van Meerdervoort)は,ウイレム一世よりJonkheerと いう貴族の称号を得て,ライデンの近郊の町フォー ルショーテン(Voorschoten)の町長をしていた。陸軍 士官の父ヨハン・アントニー(Johan Antonie)と母ヨ ハンナ(Johanna Wilhelmina Hendrika de Moulin)の三男と して生まれた。兄二人,弟二人,妹二人がいる。
ポンペは,1845年ユトレヒト陸軍軍医学校に入学,
1849年に卒業した。1856年に2等海軍軍医となった。
28歳のオランダ海軍軍医ポンペは,1857年ヤパン
(Japan)号(到着後咸臨丸と改名)に乗って長崎に赴任し た。彼は第二次海軍伝習の教官であり,日本がオラ ンダ政府に軍医派遣を求めたのは当然医学校を開設 することだと考え,意気込んで日本にやってきた。
はじめに,幕府が派遣した将軍御目見医師松本良順
(まつもとりょうじゅん)に医学の全課程を規則正しい方 法で教えるが,広範囲にわたるので長い年月を要す ることを説明した。
松本良順は,長崎奉行や目付と力を合わせ,ポン ペが医学教育を遂行するためにはあらゆる点で思う ままにふるまうことを許すべきだと考え,当局もそ れに協力を惜しまないように取り計らった。良順と いう良きパートナーを得て,ポンペは1857年11月12 日西役所の一室で,良順とその弟子たち計12名(14
名との説もある)に講義を開始した。この日に医学校 を開いたと,ポンペは著書に明記している。この日 は長崎大学医学部の創立記念日であり,近代西洋医 学教育発祥の日でもある。
第4節 近代医学の誕生
ポンペ・ファン・メールデルフォールト
近代西洋医学教育の父,長崎大学医学部の創立者。
(長崎歴史文化博物館蔵 長崎赴任前の写真を石版印刷)
ポンペ・ファン・メールデルフォールト
(長崎大学附属図書館蔵)
無類の誠実さで医学全教科を教える
ポンペは,医学全般をひとりで教える文字通りワ ンマンスクール(one man school)の校長として,長崎 で5年間全身全霊をそそぎこんで苦闘した。科学の 基礎知識のない学生に,わかりやすくして言葉の壁 を乗りこえて,根気よく化学といった基礎から教え ねばならなかった。蘭学の深い素養をもった松本良 順と司馬凌海(しばりょうかい)は,昼にあったポンペ の講義を,夜もういちど復講して学生の理解をは かった。ポンペによれば,医学の全科目について講 義ノートを用意して,毎回それを読みあげ,説明を 加えて理解させた。通訳はそれを書き取って訳し,
学生は通訳の日本語を書き取ってノートを作る。そ のノートに口頭でなされたポンペの説明を書きこん でいったのである。
「朋百(ポンペ)先生口授,松本良順筆記」で始ま る多くの和文のポンペ講義録がある。養生所で学ん だ学生が写して持ち帰り全国に流布していったと思 われる。筆者はライデン大学のハルメン・ボイケル ス教授とともに,松江日本赤十字病院にあるポンペ のオランダ語講義録を調査した。ポンペの自筆では なく弟子がポンペの化学,生理学,病理学総論と眼 科学の講義ノートを出島で写したものであった。一 方佐倉市(国立歴史民族博物館に委託)には佐藤尚中が筆 写した内科学,病理学総論,外科学のオランダ語講 義ノートがあった。順天堂大学と慶応大学に解剖学 のオランダ語講義ノートがあった。写した日付はそ の科目の講義終了のころを意味すると思われる。ポ ンペの報告とこの新たな情報を入れてポンペのカ リキュラムの進行を図にしてみた(次ページの図参照)。
ノートはオランダの教科書からの抜粋であり,弟子 たちはこのノートを写して日本語に翻訳したのであ ろう。学生の強く希望するポンペの薬学のオランダ 語手引書を,『薬学指南』として出島の出版所で出 版したが,1年を要し,費用が高く,手間がかかる のでそれきりとなった。
ポンペはまず物理学,化学,採鉱学,包帯学を教 え,解剖学,生理学,病理学,衛生学へと進んだ。
薬理学の講義には新たな学生が加わり,実地医家が 多かった。薬理学の講義が終わるやいなや臨時の聴 講生たちは姿を消した。病理学各論(内科学)になる とまた聴講生が急に増えたが,理解できずに又欠席 しだした。内科学,外科学,眼科学を養生所の開院
(1961年9月20日)の前後に終了した。養生所では患者 のベッドサイドで指導する傍ら臨床講義を教え,法 医学,医事法制,産科学も教えた。ポンペの臨床講 義録を調べると,化学分析と顕微鏡検査による体液
松本良順 (長崎大学附属図書館蔵)
原病総論:ポンペ・ファン・メールデルフォールトの講義録
(松江日本赤十字病院蔵 島根県立図書館寄託)
松本良順がポンペのオランダ語講義ノートを筆写したもの。
ポンペのオランダ語講義ノート(多くが松本良順の筆写)と 出島出版の薬学指南(まん中の3冊)。
(松江日本赤十字病院蔵 島根県立図書館寄託)
の近代臨床検査学も教えられていた。自分の学んだ ユトレヒト陸軍軍医学校のカリキュラムと同様に全 科を教えたのであるから,その無類の誠実さに驚嘆 するとともに感謝の思いで一杯になる。
解剖学は最初キュンストレーキという精巧な人体 解剖紙製模型を用いて教えられたが,ポンペは囚人 の人体解剖実習を長崎奉行に願い出,多くの困難を
乗り越え実現させた。1859年9月9日,ポンペは市 民の反感の中,約150名の警備に守られて身の危険 を省みず日本初の人体解剖実習をおこなった。45名 の医学生と女医(シーボルトの娘楠本イネ)の面前で執刀 し,朝早くから夕闇迫るまで丸二日を要した。頭部 を用いて眼耳の解剖も行われた。さらに第二,第三 の解剖もおこなった。
ポンペの医学教育カリキュラム 解剖学及び組織学 物理学
化学 生理学
病理学総論
包帯学 外科学
眼科学
臨床講義 法医学、産科学
臨床検査学 外科手術学 養生所開院
(9.20)
病理学各論(内科学)
薬理学
1858 1859 1860 1861 1862
被爆したポンペのキュンストレーキ(人体解剖紙製模型)
ポンペが解剖学の講義に使用していたキュンストレーキは原爆落 下の際奇跡的に焼失を免れた。(長崎大学附属図書館医学分館蔵)
同型のキュンストレーキ
ブールハーベ博物館(ライデン)パンフレットp70より。
コレラ流行時の治療の違いによる生存率
■1858年
治療法 死亡数 生存数
旧 法 546 436
ポンペの治療 221 380
■1859年
治療法 死亡数 生存数
旧法 11 17
ポンペの治療 59 282
ポンペの医務報告書より
ポンペの医学教育
伝染病治療と養生所・医学所の設立
牛痘を広めたオットー・モーニッケの後に赴任し た商館医ファン・デン・ブルックは,牛痘苗を取り 寄せず,次第に牛痘苗は絶えていった。1854年と翌 年には天然痘の大流行があり,長崎も例外ではな かった。しかしポンペが1857年に来日してからは,
1858年には218名の小児に,1859年には約1300人に 種痘し,各地にできるだけ多くの痘苗が送られた。
彼の努力によって種痘は本格的に,ふたたび全国に 流布した。1999年夏,出島の菜園の一角で仔牛5頭 の丸ごとの骨が発掘された。ポンペはバタビヤから 新しい痘苗を取り寄せるまでのあいだ,わずかな痘 苗を牛に接種して再帰牛痘苗を大量に作成した。彼 の著書に牛痘苗作成のために,長崎奉行から数頭の 牛を贈られたと書かれている。見つかった牛骨は仔 牛ばかりで,ばらばらではなく丸ごと埋葬されたか のようである。明治時代再帰牛痘苗の作成に仔牛を 使用していたことを考えると,ポンペの使用した牛 が埋葬されたものと思われる。
コレラがアメリカ軍艦ミシシッピー号入港後,長 崎市中に蔓延したのは1858年である。ポンペはその 治療と予防に努力した。激しい下痢を伴うコレラに 吐剤や瀉血をおこなう従来の方法と,解熱剤のキ ニーネや腸運動を抑制するモルヒネを使用した彼の 治療法とでは生存率が著しく異なり,2回目の流行 時には患者の大部分がポンペの治療を受けている
(前ページの表参照)。流行時,彼は病気で倒れてしま うほど獅子奮迅の活躍をした。コレラ治療と予防へ の感謝の証しに将軍より日本刀が下賜された。諸大 名からも高価な贈答品を頂戴した。
1万4530人もの患者を5年間に治療し,外国人に よるコレラや天然痘の上陸を阻止するための努力に よって,長崎の町の人々はポンペに次第に信頼と尊 敬を寄せるようになった。ポンペの悲願とした西洋 式病院の建設もポンペの誠実さが浸みわたって初め て実現に向けて動き出したのである。待ちに待った 養生所が,長崎港を見おろす小島郷の丘(現在の佐古
小学校敷地)に完成した。
1861年9月20日,養生所二棟の屋根に日本国旗と 並んで三色のオランダ国旗がひるがえったとき,ポ ンペは医学教育への情熱をふたたび燃えあがらせた に違いない。養生所は医学校(医学所)に付置された 日本で最初の124ベッドを持った近代西洋医学教育 病院である。養生所は旧来の様式ではなく,全ての 病床がベッドであり,ヨーロッパ人にも解放されパ ン食もあった。良順が頭取,ポンペは教頭であった。
ポンペは多くの日本人医学生に対して養生所におい
て,患者のベッドサイドで医のアートを教えた。
「医師は自分自身のものでなく,病める人のもので ある」
オランダ王国は,1848年に国王の権限を大幅に制 限した民主主義に基づく憲法を制定し,国王は象徴 的存在になった。民主主義がまさに成立する時代に 育ったポンペは,日本ではじめて民主主義に立脚し た医療を実践した人である。オランダ政府派遣の身 分と松本良順や奉行の協力がそれを可能にした。ポ ンペは貧乏人を無料で診察し,侍や町人,日本人や 西洋人の区別はいっさいしなかった。封建社会に 育った門人たちに,医師にとってはなんら階級の差 別などないこと,貧富・上下の差別はなく,ただ病 人があるだけだということを,養生所で身をもって 実践し教えていた。
弟子たちは,診療では容赦なく厳しく,患者を差 別しようとする奉行所の役人と敢然と戦っても,仕 事を離れれば親しい友として分け隔てなくつきあう ポンペを心から敬愛するようになった。患者中心の 医療が,ポンペとの人間的交流のなかで伝習生たち に根づきはじめ,毎日聞くこと見ること,ことごと くが徐々に彼らのものの見方を変えさせていき,完 全に生まれ変わっていったのである。
ポンペのつぎのような医戒を,長崎大学医学部の 校是にしている。
「医師は自らの天職をよく承知していなければなら ぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上,もはや医師は 自分自身のものではなく,病める人のものである。
もしそれを好まぬなら,他の職業を選ぶがよい」。
長崎大学医学部の基礎本館入口の壁には,ポンペ 顕彰記念会から贈られたポンペのレリーフが飾られ ており,その下にこのポンペの言葉を刻み込んだ青 銅板がある。創立者の教えは行き交う医学を志す学 生の心を引き締めずにはおかない。
養生所 ポンペ著『日本における五年間』口絵
(長崎大学附属図書館経済分館蔵)