昭和20年7月以降しばしば米軍爆撃機による空襲 があり,8月1日,附属医院にも6個の250キロ爆 弾が投下され,学生3名が爆死した。屋上に赤十字 標識が描かれ病院であることを示していたが,効果 はなかった。その後重症や隔離の患者を除いて退院 が勧められ,軽症患者のほとんどが退院した。8月 6日には爆死した3名の医学生の告別式が営まれた。
上京中の角尾医科大学長は長崎へ帰る途中,広島を トラックや徒歩で通過,8月6日に投下された新型 爆弾による広島の被災の惨状を目の当たりにされた。
学長は8月8日の大詔幸戴日の訓示で広島新爆弾の 投下の惨状について詳細に話された。8日午後の緊 急教授会で10日に休講にすることが決まった。よも や翌日に原爆が投下されるとは思いもしなかったの であろう。
昭和20年8月9日11時2分,晴れ渡った空に突然 B29が飛来し,原子爆弾が投下され,目の眩むよう な閃光が走り大きなきのこ雲が発生した。そのきの こ雲の下で浦上の丘に建ち並ぶ長崎医科大学附属医 院のビル,緑の木々に囲まれた基礎医学教室の棟々 そして赤煉瓦の浦上天主堂は一瞬にして壊滅し焼け 野が原と瓦礫の山に化した。
その時の地獄図絵のような惨状は『長崎医科大学 原爆記録集』につぶさに書き残されている。
基礎医学キャンパス
基礎キャンパスの大学本部と基礎医学棟はほと んどが木造であり,原爆の異常な爆風と熱エネル ギーで倒壊炎上した。500名余の教職員学生が犠牲 となった。医科大学と附属医学専門部の学生が木造 の五つの講堂にいた。医学部一年生は生理学講堂で 清原寛一教授(生理),医学部二年生は病理学講堂で 梅田 薫教授(病理),医学専門部一年生第一小隊は 解剖学講堂で小野直治教授(医専解剖),医学専門部 第二小隊は生化学講堂で斉藤圭一教授(医専生化学)
の授業を受けていた。教授は講義をしながら教壇に いて即死した。医学専門部二年生は衛生学講堂で授 業を受けるために待機していた。受講学生の大半が 講堂の中で座ったままの位置で教授と相対するよう に整然と並んで即死した。焼け跡に黒骨で見つかっ た御遺骨は,倒壊炎上する講堂からはいだし九死に 一生を得た学生が同級生の御遺族に座席が決まって いたのをてがかりに,そこにある御遺骨を手渡した。
生き延びた学生たちは爆心地から約550メートルと いう至近距離で被爆,急性原爆症のため次々と倒れ
一月以内に全員が死亡した。
薬学専門部には一,二年生の多くは熊本や山口へ の学徒動員で不在。参加しなかった一,二年生が登 校していた。三年生は清木美徳,杉浦 孝両教授の 引率で防空壕掘りの最中に被爆し,外にでていたも のは即死,壕内で直接被爆をまぬがれたものが生き 延びた。地下の薬品庫で薬品の整理をしていた少数 も生き残ることができた。清木教授は壕内で生き延 び,来客があり壕を離れた杉浦教授は温室で亡く なった。基礎キャンパスの生存者は合わせて12名に すぎない。
附属医院
附属医院では卒業試験の為に医科大学四年生と附 属医学専門部三年生の大部分が出席していた。医学 部三年生の多くはポリクリで外来にいた。医学専門 部二年生の一部が南講堂にいた。医学生だけでな く,厚生女学部(看護婦養成所を改称)の生徒も臨床 各科に配属されていた。附属医院は堅固なコンク リートの建物であったので,被爆した場所により生 死を分けることになった。南向きに建てられた三階 建のコンクリートビルの北側に面した窓は爆心に向 かって窓が開いていた。北側にいた人々の多くが放 射線を直接浴びて即死し,南側にいた人々は厚いコ ンクリート壁に遮られて直接被爆をまぬがれ,原爆 症に苦しみながら生き延びた人も多かった。当日登 院していて助かった北村包彦教授(皮膚科泌尿器科),
調 来助教授(外科),長谷川高敏教授(耳鼻咽喉科),
古屋野宏平教授 (外科),永井 隆助教授(理療科)は 皆外来棟南側にいた。一方角尾 晋学長(内科),石 崎 戌助教授(外科),大和田野浩一講師(外科)らは 北側の部屋にいて放射線による傷害で斃れられた。
コンクリートであっても崩壊した箇所が多くやがて 建物全体が火に包まれた。爆心地から附属病院は約 700メートルであったけれども,約半数が生き残っ た。
看護婦養成所は昭和20年4月厚生女学部となり,
学生は附属医院の各科に配属されていた。看護婦長 6名,看護婦45名,学生58名が犠牲となった。看護 宿舎は木造であり,倒壊炎上した。
在学生の被爆状況
長崎医科大学職員並びに学生原爆被爆犠牲者数
職員数 学生数
長崎医科大学
学長 1 仮卒業 7
教授 11 4年生 36
助教授・講師 10 3年生 15
助手・副手 17 2年生 63
1年生 73
小計 39 194
附属医学専門部
教授 3 仮卒業 5
3年生 24(1)
2年生 110(2)
1年生 168
小計 3 307
附属薬学専門部
教授 2 3年生 23
2年生 9
1年生 5
小計 2 37
看護婦 看護婦養成所
婦長 6 助産婦生徒 1
産婆主任 1 2年生 24
看護婦 44 1年生 33
小計 51 58
事務官 1
事務員 男子 95,女子111
小計 207
総計 898
基礎キャンパス
被爆場所 出席者 被爆死亡者 死亡率(%)
医科大学2年生 病理学講堂 63 63 100
1年生 生理学講堂 73 73 100
附属医学専門部
2年生 衛生学講堂 108-X 108-X 100
1年生 解剖,生化学講堂 167 167 100
附属薬学専門部
3年生 壕内,薬品庫,薬草園 34 23 68
2,1年生 不明 14
臨床キャンパス
被爆場所 出席者 被爆死亡者 死亡率(%)
医科大学4年生 臨床各科 約70 36 51
3年生 臨床各科 不明 15
附属医学専門部
3年生 臨床各科 不明 23
2年生 南講堂,病室 4+X X
(10〜20)
看護婦養成所
2年生 臨床各科 不明 24
1年生 臨床各科 不明 33
(平成20年8月調査結果。カッコ書きの8月1日250キロ爆弾犠牲者3名を含む)
昭和20年7月1日入学の附属医学専門部1年生原爆犠牲者数は当初より不明で,長崎新聞に掲載された入学 者名簿にあることを確かめて加えていき,増加した。
入院患者
原爆投下に先立つ8月1日,附属医院に250キロ 爆弾が投下され3名の学生が犠牲となった。この後 入院患者の退院帰宅が勧められ,重症者を残して軽 症患者のほとんどは原爆投下日までに退院していた。
原爆投下時には入院患者107名と付添人20名がいた。
外来患者の被爆状況は全てのカルテと書類が焼失し,
全くわからない。原爆被災復興日誌の中で調教授は
「患者数は外来を含めて約三百」と書かれている。
庶務課の原子爆弾統計表と原子爆弾当時人員一覧表 によれば,入院患者数はともに107名,死亡者数は それぞれ53名と54名で一名の違いがある。付添人は 20名中19名死亡と一致した記載である。元気な者が 亡くなり,地下室で動けなかった重症患者が助かっ た。
医科大学グラウンドそばの丘に建つ浦上天主堂 ドームは崩れ跡形もなく,瓦礫の中に焼けただれた 十二使徒の像が残った。近くにある山里国民学校も 犠牲となった。病院,医学校,天主堂と小学校,ま さに無辜の市民を犠牲にするホロコーストであった。
臨床科 入院患者 付添人
生存 死亡 生存 死亡 角尾内科 15 6 0 2
内科病棟 6 2 高南病棟 9 3 高北病棟 0 1
影浦内科 4 5 0 2
古屋野外科 14 12 0 3
調外科 9 5 0 1
産婦人科 0 2 0 3
小児科(育児) 0 3 0 0
皮膚科 1 3 0 0
眼科 1 2 0 0
耳鼻科 0 1 0 1
精神科 10 14 1 7
計 54 53 1 19
救護活動
炎上する医院を逃れて多くの大学職員学生と患者 は近くの穴弘法山に一時的に退避した。調理所裏の 横穴防空壕に角尾学長,高木純五郎,山根 浩両教 授と石崎 戌助教授が収容された。重症の角尾学長 は最古参の古屋野教授に学長代理を依頼し,後事を 託された。黒こげの変わり果てた附属医院の一角に ある調外科のレントゲン室に仮の本部が置かれ,医 療救護の第一歩が古屋野宏平学長代理を中心に始 まった。数日後には調 来助教授が組織する滑石救 護班と永井 隆助教授率いる三山救護班が整い,医 療救護活動に大きく貢献した。古屋野教授は奥様を,
調教授は二人のご子息を,永井助教授は奥様を原爆 で失われたにもかかわらず,救護活動を優先された。
滑石の大神宮と岩屋クラブが滑石救護所となり,角 尾学長らはここに移された。
8月15日古屋野学長代理が終戦の御詔勅を奉読さ れた。
8月22日,滑石大神宮拝殿で角尾学長が逝去され た。8月中に古屋野教授は学長事務取扱,調 来助 教授が附属医院長となった。
8月24日ごろ大学本部を商工会議所に置き,新興 善国民学校校舎を仮収容所として患者診療が始まっ た。
復興
9月4日,天皇陛下よりご差遣の久松侍従を焼け 野が原の附属医院跡地で迎えた古屋野学長は,万難 を排して大学の復興に努力するようにとのお言葉を いただいた。このお言葉を心の支えとして古屋野学 長を中心として大学復興の第一歩が始まった。
9月,一,二年生は九州大学に委託して授業を受 けるようになった。
白方元次事務官が着任,9月下旬,長崎経済専門 学校校舎内に大学本部,附属医院の事務部がおかれ た。
大村海軍病院の院長泰山弘道少将は本学出身(大 正6年)であった。8月9日,この病院に758名もの 原爆被爆者が収容されている。泰山院長は,長崎医 科大学の大村海軍病院への移管に熱心であった。新 興善小学校の患者が大村に移送され,9月27日には 古屋野学長事務取扱が到着,前日到着した調,北村 両教授が迎えた。9月28日マッカーサー司令部より 原子研究総本部長オーターソン軍医大佐が大村に到 着,翌日長崎の原爆跡も視察した。その時の会議で 大佐のあいさつを聞き,誰もが大村海軍病院が長崎 大学に移管されると思った。10月9日大村海軍病院 での講義が始まった。しかし大村海軍病院の大学移 管には抵抗が強く,泰山院長が佐世保鎮守府の命令 により予備役になった。その後海軍病院は陸海軍省 医務局から厚生省援護局に管轄が変わった。米軍司 令部は大村海軍病院の大学移管に好意的であり,長 崎医科大学のスタッフにより患者治療がおこなわれ,
大村教室があったが,長い顛末の末実現しなかった。
そして元諫早海軍病院への移転に至る。
10月23日に大村より新興善小学校へ大学本部は移 され,新興善病院は附属医院に移管された。調院長 はその激務のかたわら原子爆弾災害調査団長として 活躍した。