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3.近代科学技術の導入に尽力した   ファン・デン・ブルック

ドキュメント内 創立150周年記念誌 (ページ 41-44)

物理,化学の得意な市井の医師

 第一次海軍伝習では出島商館医ファン・デン・ブ ルック(Jan Karel van den Broek,在日期間1853-1857)が活 躍した。

 彼はもともと軍医ではなく,市井の医師であっ た。1814年4月4日にオランダのヘルワイネン

Herwijnen)に生まれた。父 Jan van den Broekは牧 師であった。科学に多大の関心を抱いていた父親に 導かれて息子も科学に興味を抱いた。ロッテルダム 医学校に1829年に入学,1833年に卒業した。1837年 アーネム(Arnhem)で開業している。1840年に友達の 妹と結婚,1842年に長女,1843年に次女が生まれた。

1844年妻と次女が亡くなった。

 アーネムの物理学協会のメンバーとして,市民に 講義をしたり,実験を供覧したりしていた。アー ネム物理学協会の機関誌の編集もしていた。多く の論文をこの雑誌に発表している。いくつかの物 理学協会の名誉会員でもあった。特に電気に強 く,物理学と化学にきわめて堪能な人であった。医 学においても耳鼻科の領域でOntleedkundige en physiologische beschrijving van het werking des gehoors(1852)「聴覚の働きについての解剖学的生

理学的記述」という論文を書き,高い評価を受けて いる。100個ほどの中耳の標本をグローニンゲン大 学に贈り,同大学より名誉博士号をもらっている。

 オランダ東インド陸軍で6名軍医が足りないとい うことで募集があり,軍医ではない市井の医師の ファン・デン・ブルックが応募して採用され,1852 年ジャワに向かった。赴任したジャワ島のチェリボ ンは衛生状態が悪く食料も不十分な場所であった。

民主主義国家オランダに育ち,正義感の強い彼は

「現地人の人権擁護者」として活動した。翌年1853 年出島に最後の商館医として赴任した。

出島赴任のとき実験でおどろかす

 1853年はペリーとプチャーチン来航の年で,奇し くも同じ年の8月1日にファン・デン・ブルックを 乗せたヘンドリカ号が長崎湾口の高鉾島横に到着し た。周囲に台場がいくつもあり,遮蔽壁なしに大砲 のありかを示すかのような幔幕の影に大砲が据え付 けられていた。彼は長崎湾防衛の強化が必要だと感 じた。8月2日出島に上陸,商館長のドンケル・ク ルチウスと会って,非常に魅力的で並み外れた学術 愛好家であり,東インドで稀有の人材との印象を 持った。広い知識を求めて多いときは一日に20人も の日本人が押し寄せ,質問を浴びせられたが,日本 人は聡明で朗らかな民族であると好意を抱いた。

 赴任時,彼は電磁気回転機,電磁気誘導機や地雷 用流電点火装置を持ってきた。早速肥前藩の注目す るところとなり亜硝酸塩の製造法,石炭,コークス,

鋳鉄製造について肥前藩士に説明した。

 1853年10月,ロシア使節プチャーチンはパルラダ 号上で通詞たちに汽車と鉄道の模型を見せた。1954 年再度来日したアメリカ使節ペリーも汽車や電磁電 信機を供覧した。しかしファン・デン・ブルックは 彼らにさきがけて電磁電信機や写真機を操作して供 覧している。彼は出島到着直後より手動電信機で電 信術を教えていた。

 プチャーチン来航の折,露使応接掛として赴任し た川路 聖謨(としあきら)は1854年2月の彼の日記に 電磁電信機,写真機,銀メッキの実演に大いに驚い たと書いている。出島を訪れた鍋島公もファン・デ ン・ブルックの実験の供覧を非常に喜んだとドンケ ル・クルチウスはオランダ東インド総督宛ての手紙 に書いている。彼はオランダ国王贈呈の電磁電信機 が故障していたのを修理し,実演し見せることがで きた。この電磁電信機は江戸に運ばれ彼が操作法を 教えた人々により実演された。ファビウスやドンケ ル・クルチウスは彼を高く評価し,学術の教示で

ファン・デン・ブルック肖像

J.P.C.van Tricht, Dr. J.K. van den Broek herdacht in het Natuurkundig Genootschap Tot nut en vergenoegen op 1 augustus 1865 (Arnhem 1865). Gemeente-archief Arnhem より。

ファン・デン・ブルックはオランダ国王より樫葉冠 章勲爵士(Knight of the Order of the Eikenkroon)を授与さ れた。

 彼は鋳鉄,蒸気船など軍事科学技術の導入に必死 であった日本人にとって絶好の教師であった。

軍事から写真まで近代科学技術を教える

 第一次海軍伝習が始まると出島と長崎市内の往来 が緩和され,格段と交流が深まった。

 ファン・デン・ブルックのもとを訪れる日本人は 1854年14名(医学伝習5名)にすぎなかったが,1855年 には80名(医学伝習8名)と増加し,1856年には150名

医学伝習9名)もが訪れ,彼の伝習を受けたと彼自身 が報告している。1855年末,長崎奉行の命で品川藤 兵衛,本木昌造,吉雄圭斎ら通詞6名に分離,究理,

測量,算術,石炭坑,鉄製造方を教え始めた。彼は 蒸気機関,城塞建築,石版印刷,ダゲレオタイプ写 真機,溶鉱炉等の広範な近代科学技術の伝習に関 わっている。

 ファン・デン・ブルックの報告によれば,既に反 射炉を建設し大砲を鋳造していた肥前藩の家臣は蒸 気機関学,造船術,製鋼技術,鋳鉄技術,鋳銅技術,

圧延技術,タール,樹脂,テレビン油などの製造法 について詳しく尋ねたと書かれている。このような 専門外の軍事技術に関する高度の質問に答えること ができたとは驚くべきことである。彼自身大工を 使って木製の溶鉱炉模型と反射炉模型を作って肥後 と肥前の藩主に進呈した。彼は肥前藩の精錬所発展,

筑前藩の精錬所建設や島津藩の外輪蒸気船建設など を指導し,肥前藩,筑前藩,島津藩,肥後藩,伊予 藩と幕府以外の人々に多くの軍事科学技術を教えた。

 第二次海軍伝習の指揮官カッテンディーケが咸臨 丸で薩摩を訪れた時,高炉のある溶鉱炉,これに連 結する鋳造工場があった。広大な鉄工所,磁器や陶 器のための工場,大砲や銃器を製造する為の特別な 部門,大砲鋳造所,鉄板製造場がフルに稼動してい た。桜島には造船所とドックがあり,小型の外輪付 き蒸気船(雲行丸)が建造されていた。同行したポン ペはこのような成果は大部分ファン・デン・ブルッ クによるものであるといっている。

権威との衝突はさけられず出島追放へ

 科学の真理追究を身上とする彼は研究を妨げる規 則や権威をどうしても許せなかった。外様の藩士が 出島で彼の伝習を受ける際上役人,目付,通詞と3 人を必ず付ける事に成っており,その人数が揃わな いためにしばしば訪問が延期される事が彼の不満で

あった。自分自身が藩屋敷を訪れて指導すれば簡単 と藩士に提案したが,勿論実現するはずもない。彼 は科学者として優秀でも日本の封建社会の機微は理 解できなかったのではないだろうか。外様大名への 軍事科学技術の無差別な伝習は幕府にとり認め難い ことであろうから幕府と日々交渉するドンケル・ク ルチウスに迷惑な事態も多かったに違いない。軍医 ではなく自由な考えの市井の医師であった彼にとっ てがんじがらめの出島は住みにくい場所であった。

次第にドンケル・クルチウスとの折り合いが悪くな り二人は言葉を交わすこともなくなり同じ出島に住 みながら文書でやりとりするような状態になった。

 ファン・デン・ブルックは屡々本国や東インド会 社にドンケル・クルチウスを弾劾する発信源であっ たようで,ドンケル・クルチウスの偉大な功績に傷 がつかないかとペルス・ライケンやファビウスが心 配する事態にまで発展した。

 1856年ファビウスがメデュサ号で3回目の長崎を 訪問したとき,ファン・デン・ブルックとあと二人 が領事官の反対派を結成していると書いている。つ いに1857年ファン・デン・ブルックは出島から追放 され,1859年解雇された。日蘭辞書の編纂に努力し たが,1865年に亡くなり,未完のままであった。

 彼の跡を継いだポンペは1854年と1855年の天然痘 流行には医師としてのファン・デン・ブルックの怠 慢もあると示唆している。しかし日本の多様な要望 に応えて多彩な人材を揃えた第二次海軍伝習とは違 い,第一次海軍伝習では彼の双肩に医学以外の多く の要請が集中した。彼は超多忙となり医療への時間 は奪われ,種痘などの医師としての貢献はできるは ずもなかった。日本の対外危機と国防意識のすさま じい時代の渦潮が物理学,化学と科学実験に堪能な 市井のオランダ人医師を巻き込み,日本の近代軍事 科学技術の導入にきわめて大きな役割を果たさせた のである。

 オランダを含む各国との和親条約が締結され,出 島の出入りが自由になったのはファン・デン・ブ ルックの帰国後のことである。彼の後に来たポンペ のように日本人との人間的な交流は不可能で,彼の 民主的な考えや科学思想を日本人に伝えることはで きなかった。

ドキュメント内 創立150周年記念誌 (ページ 41-44)