〜“死の谷間”原爆症を体験して〜
長崎記念病院理事長
(当時:長崎医科大学 附属医学専門部2年)
福井 順
私は,1926年生まれ現在71歳です。1945年8月9 日,爆心地より700mの近距離で原爆に被爆した時 は,まだ若い19歳の医学生でした。
その日,私は,長崎医科大学付属病院の南講堂に いました。講堂の外郭は,鉄筋コンクリート構造,
内部は木造の階段教室でした。
当日に出席していた同級生は約130名,その内,
生存者は私を含め僅かに4名でした。
内1名は,3年前に,呼吸不全のために死亡,も う1名は今年の春に胃癌で死亡いたしました。
従って現在,原爆当日に出席していた同級生で,
生存しているのは,この私と,現在東京に在住して いる1名の,2名だけです。
亡くなられた方は,もうこの世には帰って参りま せん。何も話して下さいません。こちらから問いか けても,何も答えません。
言いたいこと,話したいこと,その苦しみを証言 したいこと,生きていて経験したかったことが,山 ほどあったに相違ありません。さぞ無念であったろ うと思います。
そして今,あの日,同じように死ぬべき運命に あった私は,52年間も生存し続け,現在ここにいま す。
私は今,皆様に何を話すべきか?それを2つに絞 りました。
1つは,この世にあってはならない凄惨な原爆地 獄の光景とその体験です。
しかし,あの恐ろしい真実を,言葉や文章で表現 することは,とても不可能です。その100分の1も お伝えできないと思います。
原爆が爆発した火の玉の中心温度は推定で摂氏30 万度,爆心地より500mで5千℃と言われています。
あの火の玉のほぼ真下の状況が一体どうだったのか,
皆様の想像を加えて私の話を聞いて下さい。
そしてもう1つは,その約1ケ月後に私を襲った
恐ろしい放射線障害,医学的にも実証されている原 爆の恐怖です。死の約束であった「原爆症」の体験 を話します。
どちらにせよ,確実に死ぬべき運命にあった私が,
ほんの紙一重の差で生きたのは,ただ神の恵みとし か思えない幸運の積み重ねと,限りない母の愛情の お陰でした。
その運命の日,午前10時,南講堂での「外科総 論」の講義が終わりました。約1時間後,この世に ある筈もない凄惨な地獄の世界が眼の前に迫ってい ることも,今がこの友人たちと永遠の別れになるこ となども露知らず,同級生は椅子から一斉に立ち上 がり移動を開始しました。
私は25名程の友人と病院に残り,他は全て基礎医 学教室の方に移動しました。
運命を分けた選択でした。病院に残った中から4 名の生存者があり,他はすべて死亡しました。
午前11時近く,私は病院実習から南講堂に戻って いました。講堂内にはそのような学生が十数人居た と思います。
丁度その時です。遠くから航空機の爆音が聞こえ てまいりました。
誰かが「B29のようだな」と呟きました。講堂の 西側にいたK君(即死)が「どれひとつ見てやる か」と窓を開け上空を見て「オヤ,落下傘だぞ」と 言いました。
その一瞬,私は「広島に投下された新型爆弾」だ と直感しました。私は夢中で鉄兜を被り,矢のよう に階段教室を教壇の方に走り下りました。その途中 で何か「シャーッ」というような鋭い音を聞き,飛 び降りるように教壇の下の板張りの床に身を伏せま した。
原子爆弾のことを通称「ピカドン」と言いますが,
あとからいくら考えても,ピカッと光ったことも爆 風の衝撃も思い出せません。ただ眼と耳を押さえて 伏せようとしたことだけは記憶にあります。もの凄 いショックによる一時的な記憶喪失だと思います。
皆様ご存じの通り,文献によると,長崎に投下さ れた原子爆弾の種類は,プルトニューム爆弾で通称 は「ファットマン」,その威力は一発で「TNT火 薬・2万2千トン」に匹敵するという大変な代物で した。
昭和25年の長崎市の発表によると,たった一発の ピカドンで,死亡者は約7万4千名,重軽傷者は約 7万5千名でした。
その原子爆弾の威力は,爆心地700mで,瞬間最 大風速は約200m,瞬間熱線エネルギーは約2千℃
に達したと推定され,発生したガンマー線及び中性 子による放射線障害は,大多数の近距離被爆者の死 因に繋がりました。
恐らく強烈な爆風で講堂の木材部門は空中に浮き 上がり,吹き飛ばされ,千切れた木片と粉砕された 無数のガラスの破片は宙を飛んでいたに違いありま せん。
意識が戻ったのは暗黒の中で真っ暗闇の世界でし た。「見えない,何も見えない。真暗だ,眼がやら れたんだ」と思わず眼を押さえました。その時,突 然に周囲が赤く見えました。瞬間的に「火事だ!」
と思いましたが,それは忽ちのうちに濃いオレンジ 色に変わり,魔法のように普通の色の世界に戻りま した。
これは原子爆弾の凄まじい閃光による一時的な
「原爆性黒内障」だそうです。
濛々たる土煙り,身体の下は千々に散乱した木材 と木片,周囲は狭い四角の分厚いコンクリートの壁 でした。「ここは何処なんだ」喉はカラカラでした。
天井の方からは間断なくコンクリートの破片がバラ バラと降ってきます。
私は南講堂の入り口付近,廊下側の教室の土台で あったコンクリートの桝の中にいたのでした。
南講堂は一瞬の間にその外郭と土台である枡型の コンクリートだけが残ったのでした。私は自分が伏 せたと思った場所よりもかなり離れた場所の枡型の 中に居たことになります。コンクリートの土台に手 をかけ,夢中でもがき上がった私は,急いで出口を 探しましたが,濛々たる暗闇の中の土煙りで,方角 が全く判らず,変り果てた周囲の状況に混乱して暫 く動くこともできませんでした。
やがて薄明るく見える長方形の出口らしいものが 見えて,その方向へ20cm幅程度のコンクリートの 縁を辿り歩き,漸く講堂の外に脱出することができ ました。
講堂の中に死骸の様なものを見たようにも思いま すが無我夢中ではっきりしません。口の中は泥や砂 の様なものが一杯で,吐こうにも唾液も出ませんで した。幸い講堂の出口近くの道端に剥き出しの水道 管を見つけ,水で口を嗽ごうとしました。
しかし,手にかけたカランは火のように熱く,ま た熱湯が蛇口から出たので驚いて,高い丘の方に逃 げました。
周囲は薄暗くまるで夕闇。道の傍らに次々に行き 倒れた瀕死の人々や負傷者が多く,血と泥にまみれ て幽鬼のような凄惨な姿がうごめいていました。顔 面が黒く爛れて髪を振り乱した女性と思われる人が,
手を差し伸べて「学生さん,助けてー」と私のズボ ンを掴みました。
私は黒の学生服の上下に白のワイシャツ,それに ゲートルを巻き革靴を履いていたのですが,爆風で 鉄兜と上着は千切れ飛び,白いワイシャツは何故か 縦の短冊型にビラビラと破れて殆ど裸か,ズボンも 数カ所縦に裂けて,左胸と右肩それに右臀部が外傷 で血に染まっていました。
坂道を更に登って病院を見下ろせる所まで来たと き,はじめて周囲を見廻しました。あの美しい青々 とした夏の緑に被われた病院の丘は一変し,この世 のものとは思えぬ光景がそこにありました。
山の木々は一瞬の爆風で枯れ木となり,全て同じ 方向に倒れ伏し,深々とした緑の葉は影もなく,と ころどころが燻って煙を出していました。
一面の芋畑は赤土色を剥き出した山肌と変化し,
正午近くだというのに辺りは夕闇のよう,浦上の空 には異様な煙と火焔が吹き上がり,天も暗く,地も いよいよ暗く其処ら此処らに蠢く幽鬼のような人影,
まさに地獄,この世にあってはならぬ凄惨な光景で した。
「原子爆弾が落ちると,昼が夜になり,人は皆,
お化けになる」小学校3年生の女児が詠んだ詩の一 節です。
ベットリとして重油のように薄汚れた雨が降り出 したのは,その後でした。私の上半身は裸でしたの で,すっかり濡れてしまいました。それは,俗にい う黒い雨,放射能雨でした。
最初の被爆,そしてこの「黒い放射能雨」,既に 私の身体には,確実に放射能障害による「死の宣 告」が下されていた訳です。勿論,被爆当時は何も 知りませんでした。
左胸と右肩,左脚に負傷していましたが,やっと の思いで10㎞離れた我が家に帰りついたのは夕刻の 6時過ぎでした。「奇跡の生還」だったと思います。
疲れ切っていた私は,広い横穴式の防空壕に入り,
横になったことまでは記憶があります。その後,母 の話では上腹部の痛みを訴え,嘔吐を繰り返し昏々 と眠っていたそうです。
原爆直下,あの阿鼻叫喚の地獄からやっと生還し た心身ともに消耗し尽くした人間,口もきけず,た だ横たわるだけの人間でした。その後「日本はもう 負けだ」と口走っていた私は,終戦のラジオ放送を 比較的に静かに受け入れた1人でした。
それから約2週間後,9月になり,何となく身体 がだるく眩暈を感じ,すぐ横になる日が続きました。
9月5日の朝,洗面所で歯を磨いていると,どう