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4.へールツ

ドキュメント内 創立150周年記念誌 (ページ 56-59)

 へールツ(Anton

Johannes Cornelis Geerts 1843〜1883) はユトレヒト大学 で薬学を学び,ユ トレヒト陸軍軍医 学 校 の 化 学 教 師 で あ っ た 。 1 8 6 9 年,長与専斎が学 頭を務める長崎府 医 学 校 に 赴 任 し た。専斎とマンス フェルトは医学校

の学制を改革して予科を設けた。専斎が長崎府判事 井上聞多(のちに馨と改名)に予科のためのオランダ人 教師招聘を頼み実現したのである。彼は予科の究 理(物理),舎蜜(化学),算学(数学)の教科を担当した。

1873年,彼は長崎税関の依頼で輸入薬品キニーネの 検査を行った。その際,粗悪薬品や贋薬品が市場に 出回らないように市場の薬品を検査し,輸入薬品の 試験をおこなう機関設立を建議した。同年司薬場設 立の上申書が井上大蔵大輔からだされた。1974年東 京司薬場が設立され,へールツは東京に招聘された が,病気で上京が遅れた。永松東海が場長を務める 司薬場監督はドイツ人マルチン(G. Martin)が監督と なった。東京医学校の製薬学科本科が設立されると マルチンがその教師に任命された。へールツは1875 年京都司薬場が開設されるとその試験監督となっ た。1877年から横浜司薬場監督を務めた。このよう に輸入薬品検査と薬品の質向上の基盤作りはへール ツによってなされている。しかし日本の薬学教育は ドイツを選んだ。日本全国の温泉の成分分析を調べ た著書がある。母国のオランダ薬局方Pharmacopia Neerlandica Altera(1871)を参考として日本薬局方 の草案を1877年に脱稿した。1880年日本薬局方編纂 委員会の一員として各国の薬局方を調査した。1883 年薬局方成立前に横浜で没した。日本薬局方を完 成させたエイキマン(J. F. Eijkman)は長崎病院に努め,

長崎司薬場の監督をしていたオランダ人教師である。

へールツの妻は長崎生まれの山口きわであり,六人 の娘がいた。孫娘にヨーロッパで活躍したオペラ歌 手の喜波貞子(きわていこ)がいる。

マンスフェルト

(長崎大学附属図書館蔵)

ヘールツ (ライデン大学)

5.衛生行政の創始者長与専斎

 長与専斎(号松香,1838〜1902)ほど良き師に恵まれ 幸運な人はいない。祖父長与俊達に育まれ,緒方洪 庵の元で修行し,ポンペ,ボードイン,マンスフェ ルトに学び,岩倉具視遣欧使節団の一員となり欧米 医学教育調査に出向し,帰国後衛生行政を創始した。

 長与専斎の祖父長与俊達は大村藩の藩医であり,

人痘種痘の腕種法の改良を行った。俊達は人痘の痘 痂(かさぶた)を粉末にして鼻より吸い込ませる鼻種 を痘痂の粉末を溶かしてランセットで腕を切開して 傷口に塗る腕種に改良した。人痘の鼻種では100人 に2〜3人の死亡があったが,腕種に改変したとこ ろ,症状が軽く3年に1人の死亡程度に改善した。

大村藩は西彼杵半島を始め大陸に面する海岸線を領 していて,中国・朝鮮からの漂着民や長崎から度重 なる天然痘の侵入を経験しており,厳しい隔離政策 がとられ,治療法の輸入も速やかに行われた。大村 には痘瘡墓のある山がいくつもある。大村では種痘 を行うときも,種痘山(俊達の山は古田山)に子供を一 時隔離していた。俊達は城下付近の村々が輪番で未 痘児を出し腕から腕へ接種する種痘の種継ぎ法を確 立した。1849年夏牛痘苗が長崎に届いた時,俊達は 専斎の妹等未痘児を尾本凉海と共に長崎に送り種痘 を受けさせ,いちはやくモーニッケ痘苗を大村にも たらした。大村藩中大部分の人が安全な牛痘接種を 受けるようになり,廃藩置県の年まで藩内に天然痘 による死亡はなかった。モーニッケの後に来たファ ン・デン・ブルックは種痘に冷淡であり,新たな痘 苗はバタビアからくることはなく次第にモーニッケ の痘苗は種継が絶えていった。目下の普及にのみ,

せわしく痘苗を永続すべき用意が広く普及していな かったのである。例外は大村藩であった。この痘苗 は俊達が定着させた種継ぎ法によって持続し,痘苗 の途絶えた諸藩から痘苗の依頼が続いた。

 長与専斎は四歳の時父中庵を失い俊達の薫陶を受 けて育った。1854年専斎は緒方洪庵の適塾に入門,

四年後塾頭となった。適塾で祖父俊達の逝去の報に 接し放心状態になり学問に手がつかなかったという。

俊達は彼にとって父親代わりの祖父であリ,学問の 師でもあるかけがえのない存在であった。1861年,

洪庵の勧めにより長崎でポンペの教えを受けた。そ の時の感激を,長い間の疑義難題が物に就き図に示 し一目瞭然掌(たなごころ)を指すごとく理解できたと 専斎は『松香私志』に書いている。1864年大村藩侍 医となった専斎は,藩公が小鳥狩で腕に銃創を受け た時,ポンペの後任ボードインの指示に従い治療し て快癒せしめた。藩命により再度精得館(養生所改め) でボードインとマンスフェルトに学んだ。専斎は俊

長与專斎肖像 松香遺稿より

牛痘詠 松香

痘種本従牛 神方度各州 黄岐曽未識 占拿此開幽 更怪三針血 能除百歳憂 偉哉撫育徳 功化与天侔

牛痘種という神方が全国に普及した。岐伯・黄帝の流れはこの 方を識らず,その功業を危ぶんだが,能く百歳の憂いを除いた。

牛痘撫育の徳は偉大である。その功化は天にかなう。

(長崎大学附属図書館医学分館蔵)

達,洪庵,ポンペ,ボードイン,マンスフェルトと 当時最高の師に学び,長崎の地で西洋医学教育の揺 籃期を体験し,天然痘やコレラの防疫を体得した事 が後年の数々の功業に大きく貢献している。

 1868年,維新動乱の最中,投票により病院長に当 選,精得館頭取となってマンスフェルトとともに教 養部にあたる予科を設けるなど学制を改革した。予 科の理化学教師としてへールツを招聘した。このよ うに本格的な医学校となった精得館は長崎医学校と 名前を変えている。1871年長崎府医学校学頭であっ た専斎は文部省に出仕を命ぜられた。同年伊藤博文 に頼み込み岩倉具視遣欧使節団の一員となり欧米医 学教育調査に出向した。この使節団には大久保利通 や木戸孝允がいて,専斎は彼らに重用されている。

1873年帰国するや,専斎は文部省医務局長となり,

翌年東京医学校長を兼務した。オランダのハーグで 手に入れた器具により専斎は牛に牛痘を戻し量産す る再帰牛痘苗作成に成功した。牛痘苗は幕末から明 治にかけてオランダに依存していたが,1874年,牛 痘種継所の設立により痘苗輸入の必要は無くなり種 痘は日本にしっかりと定着して,度重なる天然痘の 流行にも迅速に牛痘ワクチンを量産して対応できる ようになった。專斎は種痘法を制定し,乳幼児の定 期種痘を定めて予防に努めた。さらに私立衛生会を 設立して痘苗事業を行なわせた。明治初期天然痘の 流行はおさまったが,中期にまた流行し,その後も 小規模ながら日本で流行を繰り返した。昭和31年以 降日本で天然痘は見られなくなった。多くの人々の 努力により1980年にWHOによって地球上の天然痘 の絶滅宣言がなされたことは医学の感染症との戦い の歴史の中で不滅の金字塔である。

 輸入薬品検査の為に司薬場を設け,長崎医学校理 化学教師へールツを参加させて薬品改良を行いつい に日本薬局方を制定した。1875年,現在の医師国家 試験に相当する医術開業試験を実施したが,各地で ばらつきがあり,不完全であった。1879年医師試験 規則を経て,1883年に医師免許規則と医師開業試験 規則が制定され,従来の漢方医の開業は許しても,

その子弟の開業は事実上規制して,西洋式医学校の 卒業生のみが医師国家試験で医師免許を得ていくよ うになった。専斎は執拗な漢方医の巻き返しに対し 敢然と戦いぬいた。また東京医学校長として加賀藩 邸跡に東京大学医学部を発足させている。初代の東

京大学医学部総理はベルリン大学で学んで帰国した 池田謙斎に譲った。謙斎は江戸医学所で緒方洪庵に,

ついで長崎でボードインに学び,精得館頭取を務め ている。大学東校で少助教となり,海外留学生に選 ばれベルリン大学で七年研鑽を積んだ。使節団の一 員としてベルリンを訪れた専斎は留学中の謙斎に 会っている。

 人材の登用で示した彼の眼力は敬服に値する。愛 知病院長であった後藤新平の一提案を読んで,その 能力を高く評価して彼を抜擢し要職につけている。

専斎を慕って衛生局に入った北里柴三郎をコッホ研 究室に派遣,彼がそこでの研究継続を望んだとき,

宮内庁に働きかけ,皇室からの御下賜金を実現させ ている。柴三郎はおかげで破傷風菌の抗血清療法発 明という不滅の業績をあげることができた。破傷風 と同じ原理をジフテリアに応用したコッホ研究室の ベーリングは第一回ノーベル賞を受賞したが,欧米 人ではない柴三郎は授賞されなかった。皇室へ深い 恩義を感じていた柴三郎はケンブリッジ大学からの 細菌学研究所所長としての招聘を断り,日本に帰っ た。帰国後東京大学医学部といさかいの絶えなかっ た彼のために適塾の先輩である福沢諭吉を紹介して いる。諭吉は北里のかけがえのないパトロンとなり,

伝染病研究所を設立して所長として柴三郎を迎えた。

後に柴三郎は諭吉が創立した慶応義塾大学に医学部 が設立されたとき初代医学部長となった。

 1877年コレラ流行に際し,コレラ予防心得を全国 に達し,二年後にはコレラ予防規則を制定,海港検 疫,避病院設置に力を注いだ。1892年コレラ再流行 の際私立衛生会に恩賜の基金を賜り,伝染病研究所 をその所管とした,英国人バルトンに委託して水道 を東京に完成させ,上水下水の改良に努めた。元老 院議官,貴族院議員,宮中顧問官に任ぜられたあと,

1902年65歳で逝去した。

 1875年衛生行政が文部省から内務省に移管され専 斎は初代衛生局長となった。この時から文部省は 医学教育,内務省(昭和13年より内務省衛生局は厚生省とな )は衛生行政と分割管理されるようになった。欧 米視察後専斎は医学教育にとどまらず衛生行政の確 立こそ自分の仕事と決意し,衛生行政のほとんどの 医制の立案施行を行った。専斎が成し遂げた種痘と 衛生の普及により,維新後急速に人口が増加した。

ドキュメント内 創立150周年記念誌 (ページ 56-59)