吉田健康
長崎医学校の廃止
1872年,学制の改革により,長崎医学校は第六大 学区長崎毉学校と改称,さらに1873年には第五大学 区毉学校と改称された。まさに朝令暮改である。長 崎医学校の廃止という悲劇もその一つかもしれない。
加えて長崎で学んだ相良知安と長与専斎を巻き込ん だ藩閥の争いと台湾の役という戦争が絡んでいる。
長崎府医学校学頭であった長与専斎は1871年文部 省に出仕を命ぜられ,岩倉具視遣欧使節団の一員と なり欧米医学教育調査に出向した。この使節団には 大久保利通や木戸孝允がいて,専斎は彼らに重用さ れた。一方土佐藩や薩摩藩に逆らってドイツ医学を 導入した相良知安は獄につながれた。1872年,無 実が証明され,知安は第一大学区医学校(のちの東京
医学校)の校長に就任,翌年文部省初代の医務局長と なった。遣欧使節団が帰朝すると,知安は医務局長 と東京医学校長の職を解かれ,専斎がその跡を引き 継いだ。
東京医学校で相良知安の片腕として辣腕を振るっ ていた長谷川泰は,知安失脚と時を同じくして1874 年8月長崎医学校長に左遷された。阪井直常が長与 專斎の後を継ぎ校長を務めていたが,専務に格下げ となった。長谷川が長崎に着任2週間後に,台湾の 役に当たって長崎医学校を廃止し東京医学校に併合,
長崎病院を兵員病院とする達しがあり,さらに1週 後出仕を免ぜられ,位記も返上させられた。憤懣や るかたない長谷川は医学校存続で動くこともなく,
長崎医学校の書籍と教育器材を東京医学校へ移管し
た。学生は東京医学校に転学した。ボードインの創 立した大坂医学校が1872年末に廃止されたことを思 えば,オランダ医学の牙城である二つの医学校を廃 してその勢力を削いだことになる。ドイツ医学で統 一したいためか,朝令暮改の故か定かでない。
1875(明治8)年,台湾の役は短期間で収束した。
戦死者は十数名にすぎないが,弛張熱・間歇熱や腸 チフスなどの感染症で戦病死したものは500名を超 えた。兵員病院として蕃地事務支局に引き渡された 長崎病院は番地事務支局病院と名前を変更,軍医正 阪井直常が実質上の責任者であった。
長崎医学校の再興
長崎医学校の再興は速やかに吉田健康によって達 成された。彼は松平春嶽公の越前藩に生まれ,福井 医学所で6年学んだ後,藩命により1867年精得館に 入学してマンスフェルト,レウエン,へールツに学 んだ。1871年文部少助教となり,後文部中助教に 進んだ。1875(明治8)年に台湾の役が終結,長崎病 院は長崎県の所轄となった。病院長に就任した彼 は,まずオランダ人教師レウエン(W.K.M.van Leeuwen van Duivenbode,在日期間1870-1879)と医学校教師として 残る契約を結んだ。レウエンの蘭訳書にAdolf Bardeleben著『Handboek der Heelkunde』1868が あるので,外科を得意としたのであろう。長崎県は 医学校設立のために厳原を除く全県下各区による支 援体制を作って資金を調達,医学生を各区毎に2名 選択徴集した。1876(明治9)年には長崎病院医学場 の開場式を挙行し,吉田医学場長が自費生と選択生 の入学を許可した。30歳の若さの吉田健康は医学校 完成に向けて精力的に奔走しながら,レウエンの授 業の通訳もおこなった。
1877(明治10)年,西南戦争が勃発,長崎に軍隊と 警官隊が派遣された。久留米に軍団病院が設置され,
病院長は軍医監林 紀,副院長は軍医監緒方惟準で あった。緒方は長崎に軍団病院を急設した。長崎病 院は最初警視病院としてのちに軍団病院として活躍 した。大音寺などに分派病院が置かれた。同年,戦 争が終結した9月と翌月は月に100名前後の戦傷死,
戦病死者が長崎病院だけであった。吉田は西南戦争 後のコレラ流行に対処するために,1880(明治13)年,
長崎県に新設された衛生課の課長を兼務している。
甲種長崎医学校
1878(明治11)年長崎毉学校と改称,翌年長崎病院 は梅香崎大徳寺跡に新築された。順調に医学校は進 化し,1882(明治15)年卒業生を送り出し,同年九州
で最初の甲種医学校となった。1884(明治16)甲種医 学校としての最初の卒業生を出している。甲種長崎 医学校開始時の一等教諭は,校長の吉田健康(内科外
科の臨床講義,衛生学),東京大学医学部を卒業した田 代 正(外科),山根正次(内科,婦人病学,病理学)であり,
少し遅れて栗本東明(眼科,産科,薬物学,裁判医学)が 加わった。オランダ人教師のフォック(C.H.M.Fock 1879-1883)がレウエンの後任として在籍していたが急 死し,ブッケマ(S,W.Beukema 1883-1887)が後任となっ た。彼はユトレヒト陸軍軍医学校の卒業生でグロニ ンゲン大学で医学博士を取得,1871年大坂陸軍病院 の教頭,1872年東京陸軍病院の教頭を務め,赴任時 日本中央衛生会委員であった。田代は後年初代の長 崎医学専門学校長となり,山根は日本医科大学の前 身,私立日本医学校を設立し,初代校長を務めてい る。優れた教育者をそろえてのスタートであった。
1885年(明治18)コレラが大流行し,竹之久保に長 崎伝染病院が設立された。翌年コレラだけでなく天 然痘も猛威をふるった。吉田,山根,栗本が活躍し た。
第五高等中学校医学部から第五高等学校医学部へ 1887(明治20)年文部省(文部大臣森有礼)は第五区(九
州)に中学校を設置するにあたって,第五高等中学 校を熊本に,医学部のみ長崎に設置することにした。
1888(明治21)年,長崎県立医学校を廃止し第五高等 中学校医学部を設立するに当たり,吉田健康は医学 部長に就任した。同年,ブッケマに代わり英医アー ノルド(C.A.Arnold)が着任したが1889(明治22)年退職 した。スイス仏領生まれのアムアット(C.E.Amuat)が 同年赴任した。ベルン大学を卒業したあと独仏米で 活躍し,英国領事の保証つきであった。1892(明治
25)年病没した。二人の墓は坂本町外人墓地にある。
1889(明治22)年末,第五高等中学校医学部第一回 卒業生が巣立った。この時の陣容は,学校長嘉納治
五郎,医学部主事吉田健康,教授は医学博士大谷 周庵,医学士の田代 正,栗本東明,高畑挺三,高 山尚平,牧田安蔵,久保成治と小山龍徳であった。
1890(明治23)年薬学科を併設した。浦上山里村に 敷地を求め,1891(明治24)年同地に新校舎が落成し た。本校を浦上に,在来の医学校は分教場となった。
1892(明治25)年7月,長崎の医学を支える学会研瑤 会が発足,研瑤会雑誌が発刊された。
1894(明治27)年,第五高等中学校医学部から第五 高等学校医学部へ改称され,吉田の身分も医学部主 事から医学部長へと変わった。翌年医学部卒業生は 得業士と称されるようになった。
同年,日清戦争が勃発し,吉田は召集され,陸軍 二等軍医正に任ぜられ姫路病院長を務めた。その間 大谷が主事代理を務めた。
1897(明治30)年,第五高等学校医学部主事であっ た吉田健康は病をおして職務に精励,51歳で逝去し た。再興の祖吉田健康の恩に報いるべく卒業生より 多額の寄付が集まり,吉田健康奨学金が発足,なが らく医学教育に貢献した。
1898(明治31)年,ドイツ留学から帰朝した大谷が 主事を務めた。大谷は肺ジストマ虫症の病理で有名 であり,のちに宮内省より皇太后陛下附侍医を拝命 している。
高等中学校の制度に対応すべく,学生は制服着用 が義務付けられ,学科に兵式体操が取り入れられた。
本校は浦上,病院は小島と分離し,まだ電車も通わ ず不便であった。2学年までは浦上の寄宿舎(習学
寮)で寮生活をした。3年までは浦上にあるベッド 数が少ない施療病室(学用患者)で実習し,4年生か ら古い医学校で臨床講義を受け,長崎病院で臨床 実習をしていた。1898(明治31)年以降長崎病院の浦 上移転が始まり,1902(明治35)年にようやく完成し,
浦上の新病院の開院式が挙行された。
第 3 章
長崎医科大学と原爆被災
米軍によるカラー撮影,被爆直後(9月)の医科大学附属医院
長崎大学医歯薬学総合研究科名誉教授 相川忠臣