アントニウス・ボードイン
(長崎大学附属図書館ボードインコレクション)
15年の教育歴をもつ練達の教官
養生所を設立したポンペが住んでいた出島には,
オランダ貿易会社駐日筆頭代理人アルベルト・ボー ドイン(Albertus Johannes Bauduin)が住んでいた。ポン ペが養生所設立一年後に最初の卒業生を送り出して 離任するとき,ポンペは最初彼の後任としてバタビ アにいるマンスフェルト(C. G. van Mansvelt)を推薦し たが,バタビアの総督府は拒否した。このようなと きにアルベルト・ボードインは兄のユトレヒト陸軍 軍医学校教官アントニウス・ボードイン(Anthonius Franciscus Bauduin, 1820-1885, 在日期間1862-1866, 1867, 1869-1870)に養生所教頭として赴任するように説得した。
彼はポンペが学んだユトレヒト陸軍軍医学校の一等 陸軍軍医の教官であり,ドンデルスとともに生理 学教科書[F. C. Donders en A. F. Bauduin, Handleiding tot de Natuurkunde van den gezonden mensch, 1851(1巻), 1853(2 巻)]を執筆し,イスナルド著『外科手術学必携』(J.
A. Isnard, Zakboek der operatieve chiruurgie, 1852)やリーブ ライヒ著『検眼鏡による眼検査の手引』[R. Liebreich, Handleiding tot het onderzoek van het oog met den oogspiegel, 1859]を蘭訳し,15年の教育歴の練達の教官であっ た。彼は最新の医学を長崎だけでなく,大坂や東京 でも教授した。
一等陸軍軍医ボードインは1862年11月に出島に着 任した。封建的な士農工商の身分制度で育った松本 良順は,高名な軍医で教官でもあるアントニウスの 弟アルベルトが商人であることに驚愕して,商人を 辞めさせるべきだといったという。民主主義国家オ ランダでは軍医と商人の身分に上下があるはずがな い。二人は,祖父は医師,父は商人という家庭で 育っている。アントニウスは1820年6月20日に,ア ルベルトは1829年にドルドレヒト(Dordrecht)で生 まれた。1827年生まれのドミニスクス(Dominisucus Fransciscus Anthonius)は日本の兄と弟に会いに来てい るが,後年ロッテルダムの銀行総裁になった。
ボードインはユトレヒト陸軍軍医学校を1843年に 卒業し,同校に1847年から勤め,グローニンゲン大 学で学位を得た。後年ユトレヒト大学の眼科教授と なった高名なドンデルス(F. C. Donders)がユトレヒト 陸軍軍医学校に同僚として勤務していた。ポンペは 医学生時代,ドンデルスに生理学を教えてもらっ た。ポンペのオランダ語生理学講義録の主な原典は ドンデルスとボードインが著した軍医学校専用の 生理学教科書(上述)である。しかしこの生理学教科 書は未完であり,神経生理学と生殖を含んでいな い。ポンペのオランダ語生理学講義録には生殖の章 があり,それはブートケの生理学教科書[Jul. Budge,
Kort begrip der bijzondere natuurkunde van den mensch, L. Ali Cohen蘭訳,1850]に基づいている。しかし彼は神経 生理学は教えなかった。それを補うようにポンペの 神経解剖学は内容が充実しており,病理学総論には
『生理学に基づく病理学総論』[Jul. Budge, Algemeene pathologie, gegrond op physiologie, A. G. van der Hout en J. J.
Souter蘭訳, 1846]に基づいて教え,その中で反射など の基礎的な神経学にふれている。
最新医学を教えたボードイン
個々の脳・脊髄神経や自律神経の電気刺激により その機能が明らかになり,神経生理学が急速に発展 したのは1850年代である。ボードインは最新の神経 生理学を初めて系統的に日本で教えた人である。
ボードインの生理学の講義録(長崎時代のもの)を読 むと最新の情報を含み,臨床的知識を織り込みなが ら生理学全般にわたった素晴らしい内容である。神 経生理学では,交感神経と蔓延(迷走)神経が心臓を 拮抗的に二重支配しており,蔓延神経を電気によっ て刺激すると心臓は止まり,切断すると交感神経が 優位となり心拍数が増加すると教えている。心拍数 における交感神経と迷走神経の拮抗性は19世紀中頃 に明らかになった重要な新知見であり,後に交感神 経と副交感神経の相反的,拮抗的,緊張性の臓器支 配という概念へと発展する。さらに聴覚,話声のメ カニズムも教えている。
彼は外科手術学の教科書や検眼鏡の使用法を蘭訳 本にするほど臨床的知識が豊富で医学全般を教授で きた。長崎大学医学部には生理学以外に,内科,外 科,眼科のボードインの講義録がある。外科の講義 録『瘍科各論』には麻酔薬エーテルとクロロホルム の使用方法や軍陣外科の実際が記載されている。眼 科の講義録は,検眼鏡が使用されるようになり,網 膜についての知識が増大しつつあった最新の知識と 治療や手術法を網羅しており,眼病に悩む人の多 かった当時の日本でボードインが眼科治療で名声を 博したのは当然と思わせる内容である。アルベルト の手紙に,赴任する前のボードインが検眼鏡を長崎 に送ったことが記載されている。1861年7月,検眼 鏡は出島に到着した。日本に検眼鏡を最初にもたら したのはボードインである。到着した検眼鏡はポン ペに引き取られたと思われる。
1805年生まれのマヌエル・ガルシアは喉頭鏡を 1854年に発明した。1904年,マヌエル・ガルシア氏 喉頭鏡発明五十年・生誕百歳祝賀会で松本良順の弟 子石黒忠悳(ただのり)が慶応2年,江戸医学所でえ ごま油のランプの下で長崎のボードインよりゆづり
うけたツェルマック改良の喉頭鏡を使用したことを 披露している。ボードインは検眼鏡と喉頭鏡を日本 に初めて導入し,それらによって明らかになった網 膜疾患や話声の生理学を教えた。
江戸に医学校と理学校を設立する夢,大政奉還で水 泡に帰す
ボードインは物理学,化学等の基礎自然科学を充 実させる為に精得館(養生所を改名)に分析窮理所を建 設し,その教師として1866年ハラタマの招聘に成功 した。1866年8月,ボードインは幕府に医学校と理 化学校設立を提案し,後者の教師としてハラタマを 推薦している。ボードインは1867年1月離任しバタ ビアに帰ったが,海軍病院と海軍医学校を江戸に設 立する意向が幕府にあるのを知り,3月にすぐ来日,
その設立に関わる意思のあることをポルスブルック 公使を介して表明した。ボードインは教え子緒方惟 準(これよし,緒方洪庵次男)と松本銈太郎(けいたろう,松 本良順の長男)を伴って帰国した。1867年6月,幕府 はポルスブルック公使にボードインを雇い入れて海 軍附属とする書簡を送った。幕府はハラタマを江戸 の開成所に招聘したが,理化学校を設ける計画はこ の年の幕府の大政奉還で水泡に帰した。ボードイン がもう一度渡来したのは江戸に海軍医学校を建設す るという夢の実現の為であったが,1868年に発足し た明治新政府はボードインとハラタマを大坂に招聘 し,そこに医学校と理化学校を建設しようとした。
同年ハラタマは大坂舎密(せいみ)局の建設に着手し た。ハラタマが診療していた大福寺の仮病院にボー ドインが遅れて1869年3月に着任した。ボードイン の弟子相良知安と岩佐 純は新政府の医学校取調御 用掛に任命された。彼らの働きで新政府の方針は東 京の医学校ではオランダ医学からドイツ医学へ転換 することに決した。彼らには任命時,新政府の方針
変更をボードインに説得する義務も課せられていた。
1869年4月オランダから帰朝した緒方惟準を院長 として正式に大坂府仮病院(大阪大学医学部の前身)が発 足し,大坂医学校で教頭ボードインの講義が始まっ た。後に『日講記聞』として刊行された講義録か ら,彼が最新の腎泌尿器病態生理学を教えたことが わかる。緒方は最近の顕微鏡,化学検査,反照窺器
(おそらく初期の尿道膀胱鏡)と病理解剖で得られた知見 を盛り込んだ講義であったとまえがきに書いている。
現在とほとんど変わらぬ糸球体や尿細管の顕微鏡図 が示されている。
同年11月ボードインは刺客に襲われた維新政府の 兵部大輔大村益次郎を治療し,右大腿部切断術を 行った。緒方洪庵の適塾塾頭であった大村はボード インの治療を受けて陸軍病院の必要性を痛感,その 設立を提言した後に逝去した。緒方惟準は大坂陸軍 病院の初代院長となっている。
オランダ医学の没落に涙す
1870年帰国前にボードインは東京大学医学部の前 身である大学東校でも2ヶ月間講義した。ときの大 学東校の主宰者は佐藤尚中(たかなか)であった。後 に東京大学初代生理学教授となった大沢謙二の『燈 影蟲語』によれば,司馬凌海が彼の講義を通訳した。
新興の神経生理学と飲食消化の講義は充実した内容 であった。大学東校の島村鼎甫はボードインの講義 内容をまとめて『日講紀聞』を出版した。このとき 新興の神経生理学が全国的に紹介されたことになる。
その題言で大学が招いたミュルレル,ホフマンのプ ロシアからの来日が遅れ,代わりの講義をボードイ ンに依頼したところ,「老翁(ボードイン)涙を垂れて 固辞」したと書いている。オランダ医学は見捨てら れ,ドイツ医学の始まる空白を埋めよというのであ るから,その心中察するに余りある。温厚篤実な
養生所・医学所(のち精得館)と分析窮理所
ポンペが創立した日本最初の近代的西洋式病院を付設した医学校養生所・医学所。
分析窮理所(左 ボードインによって設立),医学所(中央)と養生所(右)。
(長崎大学附属図書館ボードインコレクション)