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2 . 台湾問題をめぐる米中関係のギクシャク

ドキュメント内 WICCD no.5色付き_1 (ページ 147-151)

 これだけ見れば、米中間戦略的提携関係はますます緊密化するように思 われたが、米中間には台湾問題という対立の種も残されており、それが徐々 に顕在化していくことになる。

 台湾問題は米中国交樹立交渉においても最大の難題であった。国交樹立 後まもなく、1979年3月に米国が台湾関係法を成立させ、中国はこれを

「受け入れ難い」と抗議したが、米国政府はとりあわなかった。翌1980年、

米大統領選挙の選挙期間中、共和党候補者のレーガン(Ronald Wilson

Reagan)はしばしば「台湾との公式関係復活」を口にして北京の神経を 苛立たせた。9月22日、米下院は台湾に対する戦艦5隻の譲渡案を可決 して北京の憤慨をさらにあおった34。10月2日、米国と台湾の非公式代表 機関である米国台湾協会と北米事務調整委員会との間に合意が成立し、こ れによって双方の駐在員はともに外交官特権と免責権を認められることに なった。中国外交部は直ちに米国政府に対して抗議し、「中国人民は絶対 にこれを受け入れるわけにはいかない」と批判した35。このようにして、

1980年秋から台湾問題、特に対台湾武器売却問題をめぐって米中関係が 暗転していく。

 1981年は激しい外交の攻防戦が展開される年となった。6月ヘイグ

(Alexander Meigs Haig, Jr.)国務長官訪中の際、ヘイグの回想によれば、

鄧小平はカーター政権時代の約束不履行(20億ドルの借款提供と技術移 転)を非難し、黄華外相は台湾への武器売却を批判した。鄧小平は、「も し米国がやりすぎると、米中関係が足踏みをするどころか、後退する可能 性もあると語った」36。その後、中国は参謀部長補佐劉華清の訪米の延期、

訪米団長として派遣する人材の格下げ、さらに第三国を通じて米国指導者 に不満を伝えるなど、問題の深刻さを強調することに必死であった。同年 9月には、米国が年末あるいは1982年初頭に台湾に対して次期主力戦闘 機(FX)を輸出するとの情報が中国側に入った。

 1981年10月、メキシコのカンクンで開催された南北問題会議の際、黄 華外相がヘイグを通じて、中国総理が掲げる米国の対台湾武器売却に関す る二原則をレーガン大統領に伝えた。その一つは、対台湾売却武器の性能 と数量をカーター政権期の水準以下に抑えること、いま一つは、期限を規 定し、その期限内に武器売却を徐々に減少させ、最終的には完全に停止す る、という内容であった37。10月末に、黄華外相が訪米し、ヘイグ国務 長官との間で本格的交渉を行った。中国側は武器供与の停止を要求し、し かも打ち切り期限を明示するよう要求した。ヘイグはこのときの様子を、

「これは最後通牒だ。私は思わず自分の耳を疑った」と回想している38。 黄華外相はレーガン大統領に、性能・数量問わず、武器を売却する場合に は、たとえそれがカーター政権期の水準以下であったとしても、中国側は 強い反応を示せざるを得ないし、両国関係が停滞ないし後退されるのは避 けられないと述べ、これを第三の原則として示した39。武器売却停止期限

の設定が中心的な議題になった。この問題をめぐって、両者の主張は平行 線を辿ったが、12月に次官級交渉を行うことだけは約束された。12月4日、

章文晋外務次官と米国駐中国大使が交渉に臨むことになった。

 1982年1月、極東および太平洋事務担当の国務長官補佐ホルドリジ

(John Holdridge)が訪中し、米中間で協議してコミュニケを出すことを 提案した。それ以降、コミュニケの内容を中心に協議は継続した。1982 年5月、ブッシュ副大統領訪中の際には、中国側は、これまでカンクンと ワシントンの会議で示してきた「決められた期限内の武器売却停止」とい う主張を一部譲歩し、「一定の期限内」に売却停止をするよう求めたが、

米国の主張とは依然として隔たりがあった。最終的に、米中両国は1982 年8月17日に「米中共同コミュニケ(米国の対台湾武器売却問題につい て)」(以下、八・一七コミュニケ)を発表し、米国側は「台湾への武器売 却を長期的政策として実施するつもりはないこと、台湾に対する武器売却 は質的にも量的にも米中外交関係樹立以降の数年に供与されたもののレベ ルを越えないこと、及び台湾に対する武器売却を次第に減らしていき一定 期間のうちに最終的解決に導くつもりであること」を表明した。これによっ て米国の対台湾武器売却問題には、一定の進展がみられた。

 台湾への武器売却問題を米国と交渉する過程で、中国は戦略的な調整に 着手した。このとき辿りついた結論が、第12回党大会で表明された「独 立自主政策」であり、これによって中国は米国との戦略的提携関係を解消 していくことになった。なぜ台湾問題をめぐる対立によって、中国指導部 は米国との戦略的関係を見直さねばならなくなったのだろうか。

 まず、中国が米国による台湾への武器売却を中国の主権侵害にあたると 認識していたことが挙げられる。例えば、『人民日報』は「中国は外国に よる台湾への武器売却に断固反対する」と題する社説のなかで、「こうし た状況の下で、米国が引き続き台湾に武器を売却し、中国の主権を犯すこ とは、中国の平和統一を妨げるものである」と痛烈に批判した40。  さらに重要な理由として挙げられるのは、米国に二重のカードとして扱 われることへの懸念が中国側にあったことである。一つは、武器禁輸緩和 カードであり、いま一つはソ連カードである。武器禁輸緩和カードとは、

米国が、米国兵器と高度技術を欲する中国の心理を逆手にとって、中国に 対する兵器と高度技術の輸出制限を緩和することによって、台湾への武器 売却に対する中国の了解をとりつけようとするものである。実際、1981

年5月にヘイグが訪中した際、彼は殺傷性兵器もケース・バイ・ケースで

輸出を認め、高度技術の輸出制限をさらに緩和することによって、対台湾 武器売却に対する中国の了解を取り付けることを図った41。言い換えれば、

中国は高度技術などで米国に多くを依存するがゆえに、その代価として台 湾問題での譲歩を迫られたことになる。このとき中国はこのように認識し、

猛烈に反発した42

 ソ連カードとは、米国が中国の反ソ心理を逆手にとって、対ソ戦略の協 力を承諾することにより、中国に対して米国優位の外交を展開しようとす ることを意味する。実際、1981年6月、ヘイグは米国が断固としてソ連 に反対し、中国との戦略的共通利益を守るという立場を強調した。また、

1982年5月5日にブッシュ副大統領は、訪問先の杭州の空港で行った書 面講話の中では、中国側と議論すべき問題は米中間に存在する問題ではな く、双方が直面する様々な問題であると述べ、その双方が直面する問題と して、アフガニスタン、ポーランド、カンボジア、世界経済危機などを強 調した。これに対して、中国側は、米国が米中間の問題、とりわけ台湾問 題を意図的に隠しながら、米中共同で国際戦略を立てようと表面的に取り 繕ったに過ぎないと、認識していた43。5月8日、ブッシュ・鄧小平会談 の中で、ブッシュはレーガン大統領がカーター前大統領と違い、ソ連を抑 制するための決意と能力を兼ね備えていると強調したのに対して、鄧小平 の主張は主に台湾問題に向けられていた44。鄧小平と趙紫陽はブッシュと それぞれ会談したが、米中両者の主張は依然平行線を辿るのみであった。

北京は最終的に対外戦略転換を決意していたのであろう。

 中国は対ソ戦略上、対米依存せざるを得ないために、その代価として、

台湾問題での譲歩を強要されたという認識をいだいていた。これがソ連 カードに関わる問題であり、中国にとっては特に容認できないものであっ た45。このことに関して『世界知識』の記事は、次のように指摘する。「米 国の首脳部のなかには、ある錯覚を持っているものがいる。つまり、中国 は反覇権闘争のため、また四つの近代化を進める上で米国の経済・技術協 力を必要としているために、対米二国間関係、とりわけ台湾問題をめぐっ て国交樹立時に交わした約束に反する行動すら受け入れると考えるものが いるのである」。「この疑念や錯覚が、中国との戦略的協力関係の発展を 妨げ、[米中が]共同してソ連に対抗しようとする際、不利にはたらくこ とは明らかであろう」と46。中国が米国に依存する以上、苦い薬も呑み下

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