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中国との折衝——アジアの国としての顔

ドキュメント内 WICCD no.5色付き_1 (ページ 38-43)

―20世紀初頭の国際関係と「満蒙」―

2. 中国との折衝——アジアの国としての顔

 六国借款団交渉の後に内田外相が駐華公使へ宛てた訓令には、東部内モ ンゴルには「未タ事実上ニ我権利ノ樹立セラレタルモノナク且奥地ニ通ス ル鉄道ト外国通商ノ為開放セラレタル市邑トヲ欠キ」、「成ルヘク速ニ機 ヲ見テ左ノ措置ヲ執ルコトヲ必要ト認ム」とあった46。これ以降、鉄道借 款による東部内モンゴル方面への勢力伸張が図られ、1913年10月には日 中間でいわゆる満蒙五鉄道借款協定が結ばれた47。こうした満蒙の鉄道利 権に関する、いわば「点と線」をめぐる交渉が、「面」を分ける交渉に発 展したのが、1915年の対華二十一箇条要求の第二号要求「南満東蒙条約」

の交渉である48

 (1)交渉の進展と東部内モンゴルの差別化

 最初の第二号要求(甲案)では、「南満洲」と「東部内蒙古」を同列に扱い、

両地域の権益に差がなかった。しかし中国側の対案には「東部内蒙古」の 語はなく、「東三省南部」の問題に限定しており49、満蒙を分けて、日本 勢力の「蒙」への拡大を阻止しようとした。ところが日本は、「蒙」にお いて「満」と同等の権益を得ることに拘った。それは、強硬な内容を持つ 第五号要求に中国側が難色を示すのを見て、加藤高明外相が第五号で譲歩 する代わりに、「第二号第二条及第三条内蒙古問題等」で日本の要求を貫 徹させよと命じた50ことからも明らかである。

 1915年4月15日の第23回談判では東部内モンゴル問題が協議され、

中国の陸徴祥外交総長は東部内モンゴルを満洲と同様の地位には置けな いと主張し、「日本国カ歴史上政治上南満洲ニ対シ或ハ特殊ノ地位ヲ占メ ルトスルハ認ムルモ東部内蒙古ニ付テハ何等斯ノ如キ特殊ノ理由存在セサ ル」と日本の要求を拒絶した51。ここで日置益駐華公使が第五号要求との 交換を提案すると、陸外交総長は一旦、この条件を考慮すると述べるが、

第24回談判で発言を翻し、「該地域ハ支那ノ首都タル北京ノ藩屏ヲナス」

ことを理由に、外国勢力の侵入を危険視して、「商埠地ヲ添設」すべきこ と以外は「東部内蒙古ニ関シテハ何等ノ約束ヲモ為スヲ得サル」と語っ た52。これを受けて日本は、次の修正案(4月26日)で、第二号の中に「東 部内蒙古ニ関スル事項」という項目を別に立て、東部内モンゴルへの要求 を大幅に見直した53。ここにはじめて「南満洲」と「東部内蒙古」に権益 上の差が生まれ、それを基に最終決着まで修正が続けられた。

 その後の交渉では、権益に差ができることを前提にして、東部内モンゴ ルの範囲問題が焦点の一つとなった。第25回談判では、陸外交総長は「東 部内蒙古」の区域について、中国政府は「南満洲接壌地域ヲ以テ東部内蒙 古ト看做シ北満洲及直隷省ニ接近スル地域」をそれと見なさないとして、

日本の東部内モンゴルに対する認識を質した。日置の照会に答えた加藤高 明外相は、これは「第三回日露協約ノ関係モアリ「デリケート」ナル問題」

とした上で、「南満洲ト云フモ東部内蒙古ト云フモ共ニ素ト漠然タル地理 的名称ナルカ我方ノ所謂東部内蒙古ハ長城以北ニシテ南満洲ニ接壌セル地 域ヲ指シ普通ニ所謂内蒙古東四盟ノ大部ヲ包括シ西方多倫諾爾辺迄ヲ含ム 地方ヲ謂フモノ」と説明するよう指示した。ただし加藤は、直隷省内の長 城以北を含むことへの中国側の反発を予想し、日本の言う「東部内蒙古」

内にあっても、中国側の事情により「勢力範囲内ニ入」れることが困難な ら、特別の取り決めをしても構わないと伝えた54

 これに対する中国の最終修正案(5月1日)には、第二号に「東部内蒙 古ニ関スル交換公文案」が付いている。「東部内蒙古」は「南満洲及熱河 道所轄ノ東部内蒙古」と地域を限定した形で表現された。当時、日本で「東 部内蒙古」といえば、多くの場合「東四盟」—ジリム盟、ジョスト盟、ジョー オダ盟、シリンゴル盟—とチャハル部の一部を指した55。中国側の修正案 は、ここからシリンゴル盟とチャハル部を外したものであった。しかし、

皮肉なことに、加藤はこの修正案に「熱河道所轄ノ東部内蒙古」とあるの

を見て、直隷省内の長城以北を「東部内蒙古」とすることに中国側が反対

するという予想は「杞憂ニ属シタル」と満足し、日置に対して「東部内蒙 古範囲ニ関スル件ハ此際我方ヨリ進デ支那側ニ言明スル必要モナク又右ノ 範囲ハ漠然ト致シ置ク方可然ト思考スルニ付若シ未ダ貴官ヨリ支那側ニ言 明シ居ラレサル次第ナルニ於テハ右ノ言明方見合セ置カレ度シ」と伝えた

56。日本は東部内モンゴルの範囲を十分に定義していなかったが、中国の 最終修正案が、加藤らが危惧した点で予想以上の回答を示したため、その 後は戦略的に「東部内蒙古」の範囲を曖昧にして、徐々にその拡大を図る やり方へと方針を転換したと考えられる。

表1−1 「南満東蒙条約」に見える権益の差

南満洲 東部内モンゴル

土地商租権 各種商工業上の建物を建設するため または農業を経営するため必要な土 地を商租できる(第二条)

実業の権利 自由に去来し各種の商工業その他の

業務に従事できる(第三条) 中国国民との合弁により農業及附随 工業の経営をしようという時は中国 政府はこれを承認するべき(第四条)

出典:1915年5月25日調印「南満洲及東部内蒙古に関する条約」『日外主』上、406-407頁。

 (2)周辺の周辺と化す「満蒙」

 南満東蒙条約の締結によって、上の表に示した通り、二つの地域には権 益上の差ができた。日本人は東部内モンゴルでの商租権を認められず、実 業を行う際も合弁を条件とし、中国政府の承認が必要であるという制限が あった。そのため、中国側は南満洲を小さく、東部内モンゴルを大きくし て権利の損失を最小限にとどめようとした57。条約締結後の善後会議では 境界が議論され、歴史的経緯に鑑みて南部は遼河を北部は柳条辺墻を境界 として、県治地域を含むその西側を東部内モンゴルとすることが妥当性の ある一案とされた58。反対に日本は、東部内モンゴルを狭く見積もろうと して59、両国間の交渉でその境界が定まることはなかった。

 「満蒙」を一括りの空間と見る時、南満東蒙条約を、権益の大幅な拡大 をはかった日本の侵略的態度として理解できる。ただし、満蒙を「満」と「蒙」

の複合地域と考えれば、日中の交渉を「満」と「蒙」を分ける交渉とも見 なせる。この時の中国側の東部内モンゴル認識は、上述の23回談判での 陸外交総長の発言にうかがえる。陸は「同地方ノ文化ノ幼稚ナルコト民智

未タ開カサルコト及交通不完全ナルコト等ヲ列挙シ」て、日本に南満洲と 同等の利権を認めなかった。そこを文化レベル・民度の低い地域として表 象し、南満洲と区別することで日本の勢力拡大を阻止しようとした。一方 で、この機に東部内モンゴルを拓こうという考えも見られる。それは、同 条約第四条の文言に根拠がある。日本語版では、「日本国臣民カ東部内蒙 古ニ於テ支那国国民ト合弁ニ依リ農業及附随工業ノ経営ヲ為サムトスルト キハ支那国政府之ヲ承認スヘシ」と日本人が主体だが、漢文では、「如有 日本国臣民及中国人民愿在東部内蒙古合弁農業及附随工業時、中国政府可 允准之」60とあり、日本人と中国人が併記されて、いずれも東部内モンゴ ルにて合弁で農業と附随工業を行い得る、という意味合いをより強く持っ ている。

 この条文を受けて、吉林巡按使は、東部内モンゴルを「荒れてさびれて、

調査も行き届かない」、いわば未開の地と見なした上で、「今後、双方が直 接モンゴル王に(借款と土地の抵当を)請求すれば」、彼らは軽率に許す 可能性があり、「外と結ぶことの損失たるやその内憂は大きい」と述べ、

モンゴル王公への説明と理解の徹底を提案した61。「双方」とは日本人と 中国人を指すが、これによれば第四条の「中国人民」からモンゴル人が抜 け落ちていると読める。つまり、今後、東部内モンゴルに殺到するのは日 本人と「漢人」であり、条約の第四条は双方の東部内モンゴルの権益争奪 への「平等」な参画を保障するものと解釈された。奉天省の官吏周肇祥の 提案はこの点をより露骨に表現した。周は東部内モンゴルの開放を提言し、

これは「内外人民の競争の機会であり、おのずと官と商の合弁で早いもの 勝ちを目指すべきだ」とし、政府が速やかに巨額を準備して、会社名義で 先にモンゴル旗と協議して東部内モンゴルの重要で肥沃な土地をある限り 買収せよ、などと提案した62。ほかに、第四条に関する別の規則を作る提 案があるが、それも東部内モンゴル統治の見直しと切り離せないものと考 えられた。奉天巡按使公署はこれに関して、モンゴル王公と土地の種々の 伝統的な関係を断ち切り、公債や税金で彼らの生活を保護しながら土地を 国有にして、完全に一般行政区域とするなどを提案した63。こうして東部 内モンゴルを一元的な地方統治体系の中に収めて領土を明確にし、それに より日本勢力の流入を阻止するやり方は、日本と先を争って利権を得よう とする姿勢よりは穏健にも見える。しかし、特有の行政単位である盟や旗 を温存し、牧畜業を守りたいモンゴル人にとって、一般行政区域への改編

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