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大戦後の日本外交と「満蒙」

ドキュメント内 WICCD no.5色付き_1 (ページ 43-47)

―20世紀初頭の国際関係と「満蒙」―

1. 大戦後の日本外交と「満蒙」

 パリ講和会議の裏では、1918年7月に米国の提案で始まった新四国借 款団交渉が続いていた。関連する先行研究は主に、同交渉が従来の勢力圏 外交の潮流を変える契機となったのか否かを問題にした。例えば、三谷太 一郎は、新借款団は原内閣の中国に対する経済主義的アプローチの象徴と 考え、外交政策は転換したが、満蒙保留問題は伝統的アプローチの遺産で あるとした66。服部龍二は新借款団の合意に拘束力なく満蒙権益は拡張し たことを指摘し、日本の勢力圏外交は継続したと論じた67。酒井一臣も新 借款団は国際銀行家の会議であり、大戦後の新しい国際協調主義体制を補 完するものではないとし、むしろ交渉自体には勢力圏外交への回帰が見ら れるとした68。一方、中谷直司は新借款団交渉がワシントン体制を準備し たことを論じ、日本は対米協調と満蒙権益の実質的維持には成功したが満 蒙権益の正当性を失って勢力圏外交はここから溶解しはじめたと、転換の 契機を読み取った69。さて、日本は満蒙をめぐるパワーバランスが崩れる 中で70、交渉を通じて再び満蒙権益の国際的承認を得ようとするが困難を 極める。「満蒙」を一括りにせずに考えれば、転換と継続の問題をいかに 見直せるのか。交渉過程での東部内モンゴルに関する議論から検討しよう。

 (1)新四国借款団交渉

 各国銀行団は、1919年5月12日の会議で借款団規約案を決議し、その 中で、行政・実業借款を行うこと、各国銀行団の持つ優先権を新借款団に 提供し、共同化することを確認した。日本は20日の閣議で、規約案承認 の条件として、「日本ハ満蒙に対シ地理上歴史上特殊ノ感情及利害関係ヲ 有スルコト及以上ノ関係ハ英米露仏諸国ノ数次承認シタル所ノミナラス元 借款規約調印ノ際ニモ我ニ於テ満蒙ヲ留保シタル行懸リアル」ことを理由 に借款団のからの満蒙「除外」71を決めた。これに対し、イギリスは「勢 力範囲ヲ打破シ新ナル覚悟ヲ以テ」望むべきと非難し72、米国も満蒙を除 外する「如何ナル計画モ容認スルヲ得ズ」という態度を取った73。それで

も日本は、8月14日の閣議で借款団規約案について、満蒙における「日

本ノ特殊権利及権益ニ何等不利ノ影響ヲ及ホスコトアルヘキモノナリト解 釈スヘカラサルハ勿論ナリトス」74と確認した。

 各国在勤の大使たちは国際環境の変化を読み取り、英米が日本の満蒙 留保を認める見通しは低いと考えたが、果たして英米の反応は厳しかっ た。米国は留保には応じず、日本を除く三国で借款団を形成することを考 えていた。一方、イギリスの対応は東部内モンゴルを考える際に興味深 い。第Ⅰ節で紹介したカーゾン卿は、当時外務大臣代理の任にあり、日本 の満蒙留保についてまず、「南満洲ニ関シテハ日本人カ人命財産ノ犠牲ヲ 払ヒタル事歴ニ鑑ミ其ノ特殊地位ハ十分之ヲ諒解スルモ東部蒙古ニ之ヲ及 ホスノ理由ハ自分ノ諒解ニ苦シム処ナリ一体東部蒙古ナル地域ノ境界ハ何 処ニアルヤ」と述べ、東部内モンゴルにおける日本の特殊地位は理解でき ないと主張した。在英国珍田大使はこれに答えて、「「テクニカル」ノ問 題」で「即座ニ確答シ兼ヌル」としつつ、「東部蒙古ト云ヒ満洲ト云ヒ地 理学上ノ「コンベンショナル・ネイムス」ヲコソ異ニスレ歴史的及経済的 ニ観察スレバ両地一帯ト見タルコト適当ニシテ経済的見地ヨリ立論セバ 東部蒙古ハ満洲ノ「ヒンテルランド」(背後地—原文)ニ過ギズ」と述べ た。対してカーゾンは、「或観察点ヨリ見ルトキハ蒙古ハ寧ロ北京ニ対ス ル「ヒンテルランド」ナリト見ラレサルニモ非ス此処ニ割拠スルモノハ遠 ク北京ニ圧迫ヲ加ヘ得ル地勢ナルカ如シ」と語った75。内田康哉外相は境 界問題に関する照会に、「『南満洲ト云フモ東部内蒙古ト云フモ共ニ漠然タ ル地理的名称ナルカ我方ノ所謂南満洲トハ大体第二松花江ト東支鉄道南部 支線トノ交互点ヲ中心トシテ東支鉄道本線ト並行スル線以南ニ方ル満洲 ヲ謂ヒ又東部内蒙古トハ長城以北ニシテ南満洲ニ接譲セル地域ヲ指シ普 通ニ所謂内蒙古東四盟ノ大部ヲ包括シ熱河ヲモ含ム地方ヲ謂フモノナリ』」

と答え、境界線については「正確ナル限定的説明ハ成ルヘク避ケラレタシ」

と補足した76。また、同電文では、日露協約を範囲設定の根拠としたと言 えば、その「効力問題ヲ誘致シ事端ヲ醸スノ虞」があるため言明を避けよ とも命じている。外務省は満蒙留保の根拠の薄弱さを自認していた。

 さて、カーゾンは日本が先の境界問題に回答できない点などを挙げて、

東部内モンゴルの留保に「飽く迄反対スル」方針を貫こうとした77。日本 はそれでも東部内モンゴルを諦めず、1920年2月の覚書78でも、満蒙と の「国防並国民的生存ニ極メテ深甚特異ノ関係」を訴え続け、借款団規約

案承認の「フォーミュラ」には、「南満洲及東部内蒙古ニ関スル借款ニシ テ帝国ノ国防並国民ノ経済的生存ノ安全ヲ確保スル上ニ於テ重大ナル障害 ヲ来タスト認メラルルモノニ付テハ帝国政府ニ於テ其ノ安全ヲ保障スルニ 必要ナル措置ヲ採ルノ自由ヲ留保ス」と記し、ここでも、南満洲と東部内 モンゴルを同列におき、地域全体の留保を主張した。

 (2)新しい秩序への順応

 米国は門戸開放と機会均等主義の貫徹を重視したため、日本が地理的・

政治的留保を取り下げるなら、日本が除外を求める鉄道を全て受け入れる つもりになっていた。しかし、イギリスは、カーゾンが「東蒙ヲ包括スル カ如キハ依然諒解ニ苦シム」と述べ79、また日本が列挙する鉄道に「日本 の特殊権益範囲」とは異なるものが含まれるとして、米国の考えにも反発 した80。その後、米国銀行団代表ラモント(T. W. Lamont)と日本銀行 団代表井上準之助との会談で、米国はイギリスの意向を受けて、日本に洮 熱(洮南—熱河)線の借款団への提供を促したが、井上は経済上の理由を 挙げて、東部内モンゴルへの鉄道延長に理解を求めた81。しかし、井上に しても、在英珍田大使にしても、東部内モンゴル問題で妥協しなければ、

英米の理解は得られないと実感していた82

 「フォーミュラ」への英米の回答は、東部内モンゴルについて鉄道問題 に絞って取り下げを要求するものだった83。これを原敬は「従来我国が満 蒙を勢力範囲なりと漠然主張せし趣旨よりは寧ろ具体的に保證する事な るが如き返答なる」と肯定的に捉え84、「フォーミュラ」の撤回と洮熱線 と同鉄道の一地点より海港に至る鉄道を借款団の共同事業にすると伝え た85。交渉は最終的に1920年5月11日の「梶原・ラモント協定」で決着 し、「洮南熱河鉄道及洮南熱河鉄道ノ一地点ヨリ海港ニ至ル鉄道ハ借款団 規約ノ条項内ニ包含セラルルモノ」となった86。明石岩雄は、最終的に洮 熱線が除外された理由を考察して、「日本の満蒙における権益に関しては

「帝国国防」「極東治安保持」という視点を除外の適否の基準とするという 日本の立場を、アメリカが事実上承認したことを意味した」と言い、「日 本と満蒙との関係に関する列強間の合意の最も本質的な問題は、……日本 帝国主義の側の価値側面が列強によって追認された点であろう」87と指摘 した。明石は明示していないが、「日本帝国主義の側の価値側面」は「満」

だけに認められたのであり、日本は事実上、東部内モンゴルに対する特殊

な地位から降りた。

 大戦後、日本の満蒙に対する立場は変化した。すなわち、表向きには勢 力範囲を認め合う従来の外交のあり方そのものが否定されて、満蒙全域を 概括的に日本の勢力範囲とすることは列強の公認を得られなかった。また、

東部内モンゴルでは「特殊権益」を有する点も承認されず、満蒙の「満」

と「蒙」の差が一段と広がった。南満洲はイギリスとの妥協により確保し た地域と見ることができる。イギリスは勢力範囲競争の放棄を表明しつ つも自国の既得経済基盤を損なうことは認めず88、その立場からカーゾン は南満洲に関して、早々に「日本人カ人命財産ノ犠牲ヲ払ヒタル事歴ニ鑑 ミ其ノ特殊地位ハ十分之ヲ諒解スル」と表明し、日本の既得権益を認め た89。つまり南満洲では、日本の「特殊権益」や勢力範囲を前提として協 調をはかる、従来までの勢力圏外交の名残を見て取れる。一方でカーゾン は、東部内モンゴルにおける日本の留保要求を頑なに拒んだ。彼が最も恐 れたのは、「東部内モンゴルを制する列強が実質的に直隷省と北京へと続 くルートを支配する」という点であり、始動している鉄道敷設や借款を東 部内モンゴルに持たない日本にここの「独占を認めることなど問題外」90

であると言った。しかし、日本を外して三国で借款団を作ろうと言う米国 にも、日本の単独行動を恐れて同意しなかった91。この時、米国もイギリ スとの協調を重視していたために英米間では妥協点が探られ、それが東部 内モンゴルの処遇につながったと考えられる。すなわち、勢力範囲を認め ないとする米国が提唱する新外交の原則が東部内モンゴルで実現し、東部 内モンゴルに日本のいかなる特殊権益も認めたくないイギリスにとっても 洮熱線を放棄させることで目標を達成できた。日本にとっても、直接交渉 に当った大使や銀行団代表の感覚が示すように、新たな国際秩序の中で列 強と協調していくためにも、また、南満洲の権益を承認してもらうために も、東部内モンゴルでの妥協が必要であった。つまり、東部内モンゴルの 処遇は国際協調という名の各国の妥協の上に成り立ち、しかもそれは新し い外交のあり方を模索する形で決着したと見ることができる。ここで、先 行研究の問題意識にひきつけて考えれば、南満洲に旧外交による秩序の継 続を見ることができ、東部内モンゴルは新外交による秩序への順応を示し ている。

ドキュメント内 WICCD no.5色付き_1 (ページ 43-47)