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共起ネットワーク分析の概要

ドキュメント内 WICCD no.5色付き_1 (ページ 175-196)

―米紙報道の文脈分析―

2. 共起ネットワーク分析の概要

(1)コーディング 

新聞記事の中に出現する、名詞、助詞、副詞などすべての語彙を分析の 対象にして、語彙と語彙のつながりをネットワークとして描画した場合、

ノード(点)や辺(線)の数が膨大になり、全体像を可視化したとしても、

文脈の構造を把握できないという問題が生じる。そこでコーディングとよ ばれる作業の助けが必要になる。

「東アジア」、「関与」、「人権」など出現頻度の高い研究テーマにとって 重要なキーワードを検出する。本章では、出現頻度(5回以上)を基準に して語彙(固有名詞、地名、組織名)を強制抽出した。さらにいくつかの 語彙をひとつの概念にまとめるためのコーディングの作業を実施した。つ づいて、コードが出現するパターンを段落単位で集計・分析(表6−2−①、

6−2−②)し、その結果から出現パターンの近似したコード同士を結び、「共 起ネットワーク」として描画する。(i)媒介中心性23(コードとコードを つなぐ役割を示す指標)、(ⅱ)コードの出現パターンの類似する語彙の連 鎖をグループとして分類したサブグラフ、という二つの指標をもとに、出 現頻度の高いものは円の大きさで、またつながりの密接さを辺の太さでそ れぞれ表現した。

(2)時期区分

筆者が先行実施した全国紙(邦字紙)の定性分析に用いた「日米安全保 障の再定義」のプロセスとの整合性と比較可能性に配慮して時期区分を設 定した。具体的には、日米関係ではクリントン政権下のジョゼフ・ナイ

(Joseph Nye, Jr.)国務次官補(当時)による「日米安全保障対話」(US-Japan Security Dialogue, 通称・ナイ・イニシアティブ)構想が公表され「日 米同盟の再定義」の骨格が固まった1995年と、「日米安全保障共同宣言」

を発出し同盟強化の方針を明瞭にした1996年を分岐点にして、前期(1990

〜95年)と後期(1996〜99年)の二期に区分した。前期が日米同盟の 再確認、後期が日米同盟の強化の時期と位置付けられる。本章の研究テー マでは、前期はクリントン第一期政権が外交の基本方針として「関与と拡 大」を打ち出し冷戦後の東アジア安全保障の骨格が整うまでの期間、後期 は対中政策を中心に「関与」政策を検証する時期に相当する。

3. 分析・考察

(1)先行研究 

分析結果の考察に入る前に、分析対象期間である①前期(1990〜95年)、

②後期(1996〜99年)の日中、日米関係の概況を、主に先行調査・研究 を整理して本章の課題を確認しておきたい。

①中国:対日関係は安定/対米関係の変動大、日本:対中認識の曖昧さ 国際政治学者、閻学通ら清華大学国際問題研究所主催の共同研究「中国 対外関係定量予測」調査(以下、「定量調査」)24によると、「中米関係が 抱える問題は構造的な矛盾であり、長期的に改善できないため、米国の政 権交代などによっても関係を大きく変化することはない」25とされ、他の 大国との関係と比べて中米関係は構造的に不安定で変動予測が難しい二国 間関係であるという26。この研究では、人民日報、中国外交部のホーム頁 公開情報さらにニュースとしてとり上げられていない情報を、「友好・良好・

普通」/「不和・緊張・対抗」のプラス・マイナス各三段階で主観的に評 価し長期の定量分析を実施している。1989年天安門事件後の米国が対中 制裁を実施して以降、米中関係は概ね「不和」の領域で変動し、2000年 代も「非常に不安定」な状態が続いている。対照的に日中関係の「定量調 査」結果では、1980〜90年さらに反日デモが勃発した2005年まで一貫 して「良好」な状態を継続して示している。日本の曖昧な政策認識に特徴 づけられた「日米安全保障の再定義」プロセスで「日中間の相互猜疑が、

1990年代半ばに深刻化していた」27時期においても、「良好」な関係で安 定的に推移している。

それに対し、「全国紙定性分析」結果の共起ネットワーク図から読みと れる日本の対外認識では、一方で日中関係を柱に冷戦後東アジアにおける 多国間主義を展開し対米自主を確立する方向を模索し、他方では前者とは 矛盾する「日米安全保障の再定義」による二国間同盟強化を目指した時期 でもある。こうした内部矛盾を抱えた曖昧な日本の姿勢に対して、中国の 対日不信が増長していった。

②中国:「良好」な米中関係、日本:日米認識ギャップが鮮明化

「定量調査」では、1996年4月の「日米安全保障共同宣言」後の米中関 係は、1997年の江沢民国家主席の訪米を境に、1998年のクリントン大統

領の訪米から1999年5月の在ユーゴスラビア中国大使館への NATO 誤爆 事件の直前までは、1980年代以来の「良好」な水準に好転している。

「全国紙定性分析」では、「安保再定義」の「周辺地域」認識と、対中認 識という二種類の日米認識ギャップが明瞭になってくる。日米同盟におけ る「周辺地域」は米国にとっては冷戦後の地球規模の世界戦略の射程の一 部に収まり、クリントン政権の「関与政策」によって米国の中国脅威認識 が後退していく。日本は、「周辺地域」についての具体的な地理的範囲を 明示せずに、短期の脅威としての朝鮮半島情勢、長期の脅威としての中国 をそれぞれ曖昧に示唆しながら「極東」中心の「周辺地域」を安全保障の 目標として正式に設定する。その結果、中国外交を柱に据えて東アジアの 多国間主義を目指そうとする意図は薄れて、日米同盟の中での日本の戦略 的価値の向上を図ろうとする。

①、②を要約すれば、次の三点が主な特徴として浮かびあがってくる。

(ⅰ) 米中関係の実態は「不安定」な状態が続くが、「関与政策」で徐々 に改善

(ⅱ) 日中関係の実態は「良好」だが、「日米同盟の再定義」によって「相 互猜疑」が増長

(ⅲ) 日米関係の実態は「同盟再定義」により「強化」されるが、対中 認識ギャップが拡大

以上の特徴は、米中二国間の勢力均衡が不安定さを抱えながらも、一方 で日中関係を「現状維持」の中に押しとどめさせ、他方では米国の対中戦 略とくに日米同盟の在り方が、日本の対中認識や中国の対日認識を左右し てきたという、興味深い論点が示唆されている。①外的脅威、②力の非対 称性・不均衡、③巻き込まれる恐怖、という第二節で考察した米国の「力 の政治外交」の三つの条件に照らせば、冷戦終焉後の1990年代の現状で は、②についての物的な変化はみられず、中国の将来に対する潜在的な力 とそれを行使する意図についての恣意的な評価と対応に、この時期の米国 の「外的脅威」認識が少なからず影響を及ぼしてきたことがうかがえる。

さらに、そうした米国の「外的脅威」認識が対中、対日政策といったアジ ア政策をつうじた立ち振る舞いの中に映しだされてきた。以下、その変遷 の過程を、米紙報道の計量テキスト分析結果から追跡してみたい。

(2)分析

1990年代の米外交は、主にクリントン政権(第一期1993〜96年、第 二期1997〜2000年)下の対外政策で占められ、米紙上の日米、米中関 連の論壇の多くは、冷戦後の世界とアジアへの米国のリーダーシップとそ の内容を問うものである。先述したとおり、クリントン政権のアジア政策 の基本方針「関与と拡大」の骨格が整うのは、本章の時期区分「前期」末 であり、これは同時に「日米同盟の再定義」が試みられた時期に相当する。

それ以前の1990年代の対アジア政策は通商分野に極端に偏っており、経 済主義的政治(econopolitik28)の様相をみせていた。このとき米国の政 策は、共産主義を「悪」とする冷戦下の行動基準を、閉鎖経済や権威主義 体制を「悪」とするものへ変え、その手段も経済中心の価値外交の性格を もつものになっていた29。日米関係においても、1994年の包括経済協議 および翌年の自動車・部品協議に象徴される貿易摩擦が最高潮に達した時 期である。

以下、①②日米、③④米中それぞれ時期区分に沿って、共起ネットワー ク図と元のテキストデータから主要な特徴点を抽出してみた。

①日米関係(前期・1990〜95年)—「日本脅威」と「日米同盟の再評価」へ 前期(1990〜95年)の分析結果を描画した図6−2−①の共起ネットワー ク図で、冷戦後のアジアの地域秩序と日米間の経済摩擦のサブグラフ(語 彙の集合)が確認できる。米国と東アジア・太平洋地域との関連を表す語 彙の集合である「米国のアジア関与政策」の出現頻度が高く、冷戦後の「日 米同盟の見直し(再定義)」と地域秩序の関連性についてサブグラフがで きあがっている。

具体的に、記事中には、以下のような特徴的記述と見出しがみられる。

「東アジアには冷戦終結後の東欧諸国の民主化、ドイツ統合のいずれに 相当する現象もみられない。冷戦期の問題が残されている東アジアの安全 保障にとって、日米同盟を再定義し継続することこそが地域安全保障とな る」(1990年6月22日)30、「(米外交における)中心課題と基本原則が欠 落」(1992年2月7日)31。このように、日米同盟を柱に米国が東アジア の安全保障を見直す必要性を強く主張する論調が多くみられる。

共起ネットワーク図には、「日米同盟の継続」と「中国の存在」の二つが、

冷戦終結直後の日米関係についてのさまざま争点をつなぐ形状をなしてい

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