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持ちこたえる「満蒙」概念

ドキュメント内 WICCD no.5色付き_1 (ページ 47-58)

―20世紀初頭の国際関係と「満蒙」―

2. 持ちこたえる「満蒙」概念

 満蒙は様々な外交交渉の場面で議論されたが、境界と疆域は明確ではな い。これが境界と疆域をもつのは満洲国ができた時である。このことは、

日本の満蒙概念が曖昧な形をとりながら、その時まで決定的には崩れな かったことを意味する。満蒙権益を認めて欲しい一方で、新たな国際秩序 への順応を示したい日本にとって、新四国借款団交渉の結果としての「満」

と「蒙」の差異は、相反する要望を相互補完的に実現させるための避けが たい作用として現れ、それゆえに異なる二つの地域は強く結びついて、「満 蒙」という地域概念は崩壊を免れたと考えられる。

 また、満蒙概念が崩れなかったことは、その空間認識にも関係がある。

日本が東部内モンゴルと考える地域は、満洲国に取り込まれた「蒙」の部 分で、新設の興安省の疆域を中心とする広がりであり、おおよそジリム盟 の未開墾地域とその北側(フルンボイル地方)を含むが、そこは列強間の 交渉で問題となった満蒙の「蒙」と必ずしも一致しない。次の地図(図表 1−2)は、清代のジリム盟の疆域に1923年頃の県の設置状況を書き込み、

新四国借款団交渉で取り上げられた鉄道のうちのジリム盟にかかる4路線 と、第一次日露協約で南満洲の西側境界とした東経122度線を重ねたもの である。これを見ると、借款団の共同投資事業からの除外が許された三路 線はいずれも、東経122度線の東側に収まっている。つまり、ヨーロッパ 列強との国家間交渉においては、日本は東経122度線以西を東部内モンゴ ルと意識し、そこでの妥協にも甘んじた。しかし一方で、中国との交渉で は満蒙の境界が定まらず、また、満洲国建国に向けてジリム盟各旗のモン ゴル人と付き合いを深めていく過程を見ても92、日本にとっては東経122 度線以東の、日露協約が定めるところの「南満洲」もまた、東部内モンゴ ルに違いなかった。そのため、ヨーロッパ列強との交渉で東経122度線以 西の東部内モンゴルを「失う」ことになっても、満蒙概念はほとんど打撃 を受けなかったと考えられる。

イフミンガン旗

ジャライト旗

黒 竜 江 省

吉 林 省

遼 寧 省 熱 河 省

ドゥルベト旗

ゴルロス後旗

ゴルロス前旗

ホルチン左翼中旗

ホルチン左翼後旗 ホルチン右翼前旗

ホルチン右翼後旗

ホルチン右翼中旗

ホルチン左翼前旗

拜泉

膽揄

 奉天 林旬

長春

四平街鄭家屯線

鄭家屯洮南線

四平街

熱河へ

東経 122 度

 武興

 泰来

 長嶺

 肇東

 濱江

 景星

肇州  

法庫   懐徳  

遼源    (鄭家屯)

青岡 安達

大賽 鎮東

突泉 農安

安広

開通

梨樹

康平昌図 通遼 双山

チチハル

長春洮南線

洮南  洮安

洮安熱河線

図1−1 ジリム盟と東経122度線

各旗疆域を模様で示した。旗と重なる様にして、いくつもの県が設置されている(1923年頃の もの)。1923年以降、ゴルロス前旗に乾安県が設置された。

    旧ジリム盟の疆域     省界線     県界線     新四国借款団で除外が許された三鉄道     放棄した鉄道

出典:久間猛「満蒙行政区画図」『北満洲ノ政治経済的価値』満蒙文化協会、1923年;「内 蒙古六盟 套西二旗 察哈爾」『中国歴史地図集』第8冊、中国地図出版、1987年;『現 代東部蒙古地図』東亜同文会調査編纂部発行、1915年

 概念上だけなく、日本の満蒙における権益拡大方針は実際にも継続した。

新四国借款団交渉の結果を「全然失敗」であると厳しく評した参謀本部も、

これにより日本の「国防上並対支一般活動上多大ノ影響アリト謂」も、「不 断ノ努力ヲ傾注シ之カ奮闘ニ従事センカ敢テ必スシモ悲観ノ要ナキナリ」

と、大陸侵出の手を緩めないことを宣言した93。また、1921年5月の閣 議では、新四国借款団交渉を「我満蒙ニ対スル特殊地位ニ付折衝ヲ重ネ結 果終ニ三国ヨリ公文ヲ以テ右特殊地位ニ関スル保障ヲ得タリ之ニ依テ帝国 ノ満蒙ニ於ケル地位ハ関係列国ニヨリテ初メテ明確ニ承認セラレタリ」と 総括しており、東部内モンゴルが削られたことを意に介さず、満蒙と言い 続け、そこにおける「特殊地位」が国際的に「初メテ明確ニ承認」された と評価した。「協調ノ精神」への配慮を見せてはいたが、そこでの既得の 特殊地位及権益の確保と「之カ獲得ニ」は一層積極的であった94。  ワシントン会議以後、満洲国建国までに、日本は東部内モンゴルに権益 を有することについての国際的承認を得ていない。しかし、ワシントン体 制の下で、幣原外交が列強との協調路線を選択した時期も、東部内モンゴ ル方面への鉄道権益の伸張が確認でき95、1910、20年代を通じて、各種 合弁事業の進展、満鉄関連機関の設置など、水面下では、絶えず中国側や モンゴル側との交渉が続いた。東部内モンゴルで新たに権益を積み上げ、

モンゴル人との関係を深めることが着々となされたため、田中内閣の満蒙 分離政策が挫折して、「満蒙領有」が声高に議論されるようになった時も、

東部内モンゴルは満蒙の一部として、ほとんど躊躇もなく領有する対象地 域に含まれた。

 その満蒙に、1932年3月1日、満洲国が建国された。

「非公式帝国」への貢献——満洲国に重なる二つの秩序

IV

 ここまで、20世紀初頭の国際政治の中で、日本が満蒙にどのように向 かい合ってきたのかを辿った。当時のヨーロッパの国際体系は、ヨーロッ パ諸国間に適用される内の原理と非ヨーロッパ諸国に適用される外の原 理の二重原理体制であるといわれる96。そしてヨーロッパ内にある原理を

「国際秩序」とし、ヨーロッパ外にある外の原理を「帝国秩序」とすれば、

ヨーロッパではこれが別個のものであるが、東アジアにおいては、この二 つは重なりあっていて、日本外交にとって「帝国秩序」は外部化できない

領域であったと言う97。東アジアにおいては、「国際秩序」と「帝国秩序」

が錯綜していたのである。本章では、満蒙を一括りの空間として捉えるの ではなく、「満」と「蒙」とに分けて考察して、この秩序の重なりあいが、

満蒙ではより複雑であったことを論じた。

 その重なりを整理すれば、まず前提として、満蒙のうちの東部内モンゴ ルは、第一次世界大戦前の典型的な勢力圏外交秩序の中で、具体的な利権 もないままに日本の勢力範囲に組み込まれた地域として、南満洲とは異な る特徴を指摘できる。その後、列強が世界大戦のために東アジアから撤退 した時期には、日本は中国との間で二十一箇条要求交渉を行う。この交渉 で日本は中国に従属を強いる帝国主義的態度を露わにしたが、満蒙をめぐ る交渉では、満と蒙の線引きを日中間で行おうとし、「未開」と見なされ る東部内モンゴルに対しては、中国にも日本に先んじて墾務事業を進展さ せようと考える向きがあり、そこは日中の開発競争の場となったと考えら れる。つまり、「開発」される立場にある東部内モンゴルから見れば、日 中両国が作る東アジアの「国際秩序」の外部に自らが位置づけられたこと になる。したがって、満蒙には、ヨーロッパ中心の「帝国秩序」と東アジ ア中心の「帝国秩序」の二つが重なっていたと考えることができるだろう。

ところが、大戦が終わると、ヨーロッパが東アジアで構築してきた「帝国 秩序」の転換が模索されるようになる。帝国主義を覆い隠す新しい観念に よる外交政策が試みられたのである。この時、満蒙は、容易には転換しき れない「帝国秩序」を映す鏡であった。すなわち、新たな外交原理を重ん じる米国と旧い外交を引きずるイギリスの双方との妥協によって満蒙は分 けられ、「満」には列強が認める日本の特殊権益が残り、「蒙」は新しい外 交に順応して列強同士の外交フレームワークに戻ろうとする日本にとって の、いわば「踏絵」であった。よって、満蒙には新旧二つの「帝国秩序」

が重なっていたと見ることが可能であろう。

 ところで、満蒙は日本、中国、ヨーロッパ列強のいずれにとっても、ま た現地の人間にとっても境界と疆域のはっきりしない地域であった。その ため、いくつもの秩序の重なりあいと同時に、地理的認識も交錯している という複雑な重層性を持っていた。結局、それらの再編と整理が満洲国に よってなされたことは否定できない。満洲国は疆域を持ち、「蒙」を興安 省という一省に閉じ込めて満蒙の境界を明らかにしたからである。しかし、

このことはまた、満洲国が建国されても、その内部には「満」と「蒙」が

存在したことを意味する。「蒙」に関しては、既存の盟旗の境界を重んじて、

そこから既墾地を除いた地域を興安省の疆域とした。そのため、大戦後の 国際秩序への順応を示して放棄した東経122度以西の東部内モンゴルも興 安省の中にあった。この時日本は、別の形で国際社会の新しい潮流に乗ろ うとしていたと考えられる。すなわち、戦間期に列強が植民地主義を正当 化する新たな支配方法として委任統治などの形態を生み出したように、満 洲国も、「非公式帝国」であろうとした。日本を中心として周辺に植民地 を配した満洲国以前の帝国を「公式の帝国」と言うなら、満洲国の成立は、

直接的領有によらない独立国家の樹立とその傀儡化という新方式でなされ た点で歴史的意義を有し98、ドウス(Peter Duus)はこれを「「非公式帝国」

の新しい形」の出現ととらえ、ヨーロッパ列強が「民族自決権」を誓約し ていることを考慮にいれたものであったと言う99。戦間期の民族自決主義 という一つの潮流に、満洲国が順応しようとした時、「満」と「蒙」はま た別々の役割を負うことになった。

 確かに、満洲国は以後の植民地統治に対し、理念と支配方式の両面で新 しいモデルを提供した100。しかし、満洲国の植民地支配が必ずしも斬新 とは言えず、従前の日本の植民地支配から政策面・人材面で引継いだ部分 が少なくはなく、植民地間の連鎖は満洲国においても特徴的であった101。 つまり、「非公式帝国」満洲は、なおも「公式の帝国」との連続性を持ち 合わせた。ところが、興安省では事情が異なる。興安省統治が引継いだも のを、興安省統治を担う興安局の成り立ちから考察すれば、そこに、日本 の従来の植民地統治をモデルとしない、独自の統治政策を見て取れる102。 満洲国では、新しい支配方式が創出されたと言われるが、満洲国の他の面 ではなお認められる植民地間の連続性を、興安省統治においてはほとんど 確認できず、「公式の帝国」との断絶が著しかった。

 また、「民族協和」という理念103によって「多民族国家」を治める方式 においても、興安省の「貢献」は大きかった。なぜなら、満洲国における

「民族協和」の実践は、官吏の日満定位くらいであったため、興安省の特 殊統治は、「民族協和」を制度的に成し遂げるものとして、実際以上の評 価を得ていたからである104。例えば、興安省は興安局が治める特殊な省で、

他の省との行政制度上の違いが認められ、そのことは、「満洲国は建国と 共に蒙古族哺育の為特別保護行政を実施して、多年の積弊と圧迫に悩んで ゐた蒙古族に復興の途を開いた」105と評価されることがあった。満洲国は、

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