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1 . 独立自主を勝ち取るための同盟

ドキュメント内 WICCD no.5色付き_1 (ページ 141-147)

 中華人民共和国建国直前の1949年7月1日に、毛沢東は政治論文「人 民民主主義独裁を論ず」を発表し、向ソ一辺倒政策を宣言した。建国直 前後に、劉少奇(1949年6月21日~8月28日)、毛沢東(1949年12月 16日~50年3月4日)、周恩来(1950年1月20日~50年3月4日)が相 次いで訪ソし、スターリン(Joseph Stalin)と辛抱強く交渉した結果、

1950年2月14日に「中ソ友好相互援助同盟条約」が締結された。中国は なぜソ連と同盟を結んだのだろうか。

 一般的に同盟を組む最大の目的は、外からの攻撃に対する安全保障であ る。中ソ同盟は、条約の第一条「締約国のいずれか一方が日本または日本 の同盟国からの攻撃を受けて戦争状態に入った場合は、他方の締約国はた だちに全力をあげて軍事上その他の援助を与える」という条文で分かるよ うに、軍事同盟であり、強固な攻守同盟である。

 しかし、中国は自国を外敵から守ることだけを中ソ同盟の目的としたわ けではない。一辺倒という言葉が鮮明に表しているように、ソ連との全面 的な同盟を望んだ。当時の中国共産党指導者たちが考えていた最重要課題 は、革命の徹底的な勝利であった。それを達成するため、新中国の国際的 承認を勝ち取り、国家安全保障を確保し、独立主権国家としての対外政策 を採用し、国家建設を軌道に乗せること等々山積の課題を抱えていた中国 にとって、ソ連の力が必要となっていた。

 新生中国はまずは国際の承認を得なければならなかった。しかし、新生 中国の誕生は冷戦の形成期であり、まさに東西いずれの陣営に属するか、

国際政治秩序上での自己意識を固めつつ、その針路について選択を迫られ る時期であった。毛沢東は、中立という第三の道はあり得ないということ に加えて、ソ連への一辺倒について旗幟を鮮明にしたのである。ソ連も、

中華人民共和国が建国宣言した翌日に中国を承認し、ソ連の周囲に集まっ た社会主義国家も相次いで新中国を承認した。中国は中ソ友好同盟相互援 助条約の調印式において、同条約と諸協定が「中国人民に自分たちが孤立 していないことを理解させたこと」に意義があると述べた8

 新生中国は国家安全保障を確立するためにもソ連の力が必要であった。

中国の軍事力は士官の訓練から装備の提供に至るまでソ連から多大な援助

を受けて、次第に整備されてきた。建国時には皆無に等しい状態であった

中国海軍もソ連の艦艇を模倣あるいは改造した艦艇をそろえ、1950年代 末期には自立の態勢をとりうるまでに至った。1957年、ソ連がロケット および航空機などの軍事新技術の面で中国を援助する協定(「国防新技術 協定」、後述)が結ばれたこともあり、ソ連の軍事技術援助は原爆サンプ ルの提供に限らず広範囲に及んだ9

また、中国は対外政策を再構築する際、ソ連の全般的な支援を求めたの である。劉少奇は、スターリンとの会談の中で、中国の対外政策について 包括的に話しあった。同盟条約の第四条には、両国の「共通の利害に関す るすべての重要な国際問題については相互に協議する」と規定されている。

 新生中国はまたソ連の援助下での国家建設を願った。中国の政治体制の あり方についても、劉少奇とスターリンとの会談のなかで重要な議題と なった。劉少奇は訪ソから帰国する際、ソ連の専門家、ソ連による借款だ けではなく、ソ連の国家建設のモデルもまた持ち帰ったのであろう。新生 中国はソ連モデルで国家を再建しようとしたのである10。周恩来が同盟条 約の調印式で述べた、条約のもう一つの意義は、これが「中国経済の回復 と発展の助けとなること」であった。条約第五条は、互いにあらゆる可能 な経済的援助を与え、かつ必要な経済的協力を行なうことを約束すると規 定している。同盟条約の締結と同時に、中ソは様々な実務協定も締結し た11。中国は借款供与協定12により総額で3億米ドルの借款を受けるだけ ではなく、その後ソ連から極めて重要な技術援助も受けた13。中国はソ連 からの経済援助を求めるだけではなく、ソ連の社会主義建設の経験をモデ ルにして国家建設を進めていたのである。

 中ソ同盟は日米を仮想敵にして、それと対抗すべく締結された東側陣営 の同盟の一つとして明らかに攻守同盟であったが、中国の同盟運営過程か らみれば、中国がソ連と同盟を組む同盟行動の基本的論理は、利益獲得と 勢力拡大のためのバンドワゴンにある。中国は、初めて主権国家としての 自立性を増強するためソ連と同盟を結んだのであった。同盟の締結は、本 来であれば自国の自立性をある程度犠牲にして他国の安全保障政策に頼る ことになる。その意味で中国の中ソ同盟締結の動機と伝統的な同盟締結の それとは異なる面があるといえる。このようにして、中国は常に利益の獲 得と自立性の喪失というジレンマを抱え、両者の葛藤の中で、中ソ同盟を 運営していたのである。

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同盟がなぜ破綻したか――不平等感からの脱却

 中国は中ソ同盟に全面的に依拠して、新生国家を建設しようとした。

1950年代を通して中国は文字通り物心両面でソ連から多大な援助を受け てきた。にもかかわらず、中ソ同盟は1960年代初めごろから亀裂が生じ、

破綻していった。なぜか。

 中ソ同盟が破綻した原因については、すでにたくさんの研究が出ており14、 破綻の要因はいくつも考えられる。①イデオロギー論争、②国家利益の衝 突、③中国の対外政策と対内政策をめぐる不一致、④指導者の性格の問題、

などである15。本来、いかなる同盟であっても、同盟国間に意見の相違が あるのは当然である。相違を受け入れることで協調を実現し、これにより、

同盟当事者間に一種の妥協が成立し、同盟関係は維持されることになる。

なぜ中ソ間では妥協点を見出すことができずに同盟が破綻したのか。

 それは、両者間に具体的な問題をめぐって意見の相違が生まれた背景に は、両国関係が不平等であるという中国指導者の認識があったからである。

1989年5月16日、ソ連共産党総書記ゴルバチョフ(Mikhail Sergeevich Gorbachev)との会見で中ソ関係の正常化を宣言した鄧小平は、1960年 代、特に1960年代半ばから主な脅威の源泉はソ連であったと明確に述べ た。また鄧は、ソ連とのイデオロギー論争では中国側にも誤りがあったこ とを認めた上で、中ソ同盟関係における「本当の実質的な問題は不平等で あり、中国人が侮辱を感じていた」と明言した16

 ここで、上で取り上げた中ソ同盟の破綻要因について、それぞれ具体例 を検討してみたい。まず、イデオロギーの論争を中ソ破綻の主要原因とみ なす先行研究では、破綻の淵源を1956年のソ連共産党第20回党大会にお けるスターリン批判をめぐる中ソ間の意見相違に求めている。また、イデ オロギー論争における中心的な争点の一つはソ連による平和共存政策の提 唱とそれに対する中国の非難にあった。しかし、その背景には、傲慢なソ 連「老大哥」(兄貴)の態度に納得できない中国指導者の感情と、共産主 義運動におけるリーダーシップをめぐる主導権争いが存在したのである。

1980年5月、鄧小平は中央の指導的幹部との談話で、「われわれはソ連共 産党のあのおやじ党的な振る舞いや大国ショービニズムのやり方に一貫し て反対してきた。彼らは対外関係で、覇権主義の路線と政策をとっている」

と述べた17

 次に、国家利益の衝突の具体例として、1958年夏に起こった「長波電台」

と「連合艦隊」事件、さらには1959年にソ連が中国に核兵器開発の援助 を停止したという問題などが挙げられる。「長波電台」と「連合艦隊」は、

いずれもソ連から提案のあった軍事協力であり、前者は中国国内に無線基 地を作るという計画、後者は中ソ共同で太平洋艦隊を設置するという計画 である。中国はこのいずれの提案に対しても自国の主権を侵害するものだ として、ソ連に対して強く抗議した18。フルシチョフによる共同艦隊設置 の提案を聞いた毛沢東は、激昂したという19。近代以降、外国に主権を侵 され続けた中国には、自国領土内に外国の軍事基地が存在するような事態 を絶対に許すことはできない、という感情面での問題があった。

 核兵器開発に関するソ連の冷淡な態度に触れた中国は「馬鹿にされてい る」と認識し、ソ連に憤りを感じていた。ソ連は中国の核兵器保有を望ん でおらず、中国に核の傘を提供することで、核技術を提供しないという方 針をとり続けていた20。一方、毛沢東は、ソ連が提供する「核の傘」によ る保護に甘んじることなく、核兵器を自力開発することに固執していた。

中国側の依頼を受けて、ソ連は1955年から平和的利用に限って原子力に 関わる対中援助を開始した。中国はそれにも満足せず、ソ連側に核技術の 援助を拡大するよう再三要請した。1957年からソ連はついに政策を修正 し、1957年10月に「新式兵器と軍事技術装備の生産および総合的原子力 工業の建設に関する協定」(略称「国防新技術協定」)に署名して、中国の 核兵器開発にも協力し始めた。しかし1959年6月20日、ソ連共産党は中 国共産党に書簡を送り、①原子爆弾のサンプルと技術資料を提供できない こと、②西側と交渉中の核実験全面永久禁止に関する協定が締結された場 合、中国の原子爆弾製造の必要がなくなること、③ソ連は中国に「核の傘」

を引き続き提供すること、などについて中国側に提示した。これは事実上、

1954年の段階の援助内容に戻すことを意味した21。ソ連は設備提供を中 止し、1960年8月までに核開発関連事業に関わるソ連専門家233名全員 を引き揚げた。ソ連は依然として中国に「核の傘」の提供を強調したが、

毛沢東にとっては、核兵器の保有は政治的にも軍事戦略上でも、重要かつ 象徴的な意味合いを持っている。彼は「核兵器は持たなければならないが、

持ったところで使えはしない。使えないけれど、持っていないと軽くみら れ、馬鹿にされる」と認識していたのである22

 さらに、中国の国内外政策をめぐる中ソ間の不一致の具体例としては、

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