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―戸籍問題からみる「民族協和」の実相―

ドキュメント内 WICCD no.5色付き_1 (ページ 58-84)

第2章

を中枢とする戸籍を地域別に設定することにより、「帝国臣民」の枠内で 日本人と朝鮮人、台湾人は区別された。すなわち対外的には「日本国籍」

を有する「帝国臣民」として包摂しながら、対内的には生来の日本人でな い者を差別するという統治方針を可能としたのである。

 かかる日本の植民地統治の方針は満洲国においても実践されたのであろ うか。けだし、満洲国の構成員は日本人/非日本人という従来の帝国統治 における対立軸のみでは画し得ない多元性を備えていた点で、満洲国統治 は日本にとって未曾有の経験となったのである。満洲国における日本人の 人口は建国時こそ約15万人ほどであったが、建国以降、国策によってか つてない規模で移民が送り込まれ、終戦時には130万人を超えるに至って いた。日本人は満洲国で指導民族として位置づけられたものの、「民族協和」

という建国の国是に則すれば、満洲国を構成する一つの民族として措定さ れることになった。

 満洲国における日本人以外の民族は、主としてA—朝鮮人、B—漢族・

モンゴル人・満洲族、C—白系ロシア人、D—中国人労働者(「苦力2」)

というようにカテゴリー化される。A は「大日本帝国」においては「帝国 臣民」として一括されるも生来の日本人(内地人)と峻別され、「二等公民」

の扱いであった。だが、満洲国にあっては朝鮮人も建国の民族主体として 日本人と並び立つものとされる。Bは当該地域における在来の住民であり、

日本では「満洲人」とも総称されていた。なかんずく、漢族は満洲国人口 の約90%を占める最大民族であった。そして、満洲国において主要な「外 国人」として扱われたのは C と D であった。ハルピンに集住していたC は大半がソビエト政府に反旗を翻して亡命してきた政治難民であり、事実 上の無国籍者であった3。主に中国の華北地域から流入してくるDは、満 洲国を中華民国からの “ 独立国 ” として呼号するならば、少なくとも建国 後に入満してきた者は「外国」からの移民として扱うべき存在となる。だが、

民族的な出自からいえば「苦力」は上記の「満洲人」と同根である。さら に、少数ながら台湾人も漢族の範疇に含まれる。これらの他にムスリムや ユダヤ人なども在住していた。かかる満洲国を独立の主権国家として演出 すべく日満の統治者は「国民」の造成をどのように考えたのか。

 社会学者のマッキーバー(Robert Morrison MacIver)によれば、国民 意識は、特定の時代社会にあるという歴史的条件の下で、国家の統一のな かで発現される共同体意識である。かかる国民意識は様々なエゴイズムか

ら生じた矜持や虚栄心などよりも明確で強力で主導的なものであり、だか

らこそ人々は国民の名によって覚醒し、国家に対する献身や犠牲や崇拝の 意識が深く沸き起こるのである4

 しかし、上述のように人種の区分が複雑であるのみならず、エスニック な種別とは別次元の多様な対立軸が交錯するという社会的亀裂を与件とし ていた満洲国において「国民」たる一体意識をいかに醸成していくべきか、

そのなかで「日本人」のアイデンティティをいかに位置づけるかは枢要な 課題となった。そして満洲国における多元的な民族を統合していくために は、まず諸民族について人口・居住地・原籍・身分関係といった基礎的情 報を把握するのが肝心となる。従って、満洲国において戸籍法を制定すべ しという要請は、一方で満洲国における国民登録法としての戸籍、他方で

「日本臣民」たる帰属の証明としての戸籍という二つの方向から現れてく る。

 以上のような問題意識に立ち、本稿では、満洲国における戸籍法をめぐ る政策論の帰趨と「日本人」のアイデンティティをめぐる議論の展開を検 討することにより、日本の帝国支配を貫いていた原理を描出してみたい。

満洲国における戸籍法の模索

II

 1932年3月1日、満洲国政府の名で建国宣言が発せられた。日本政府 は満洲国政府との間で1932年9月に日満議定書を締結し、同国を独立国 家として “ 承認 ” した。

 近代国家において個人は国籍(nationality)を通じて国家と観念的かつ 法制的に結合する国家構成員、すなわち「国民」たる地位を得るものとさ れてきた。「国民」の資格を法律上に規定するものが国籍法である。満洲 国では建国草創期より「満洲国国籍」の創設が模索された。「満洲国国民」

という身分を法制上に「国籍」として具現化することで満洲国の主権国家 たる形式を明示し、近代的法治国家としての評価を対外的に獲得するため であった。

 かくして1932年から1936年にかけて関東軍特務部、満洲国政府、南 満洲鉄道(満鉄)経済調査会等によって満洲国国籍法案が立案されていっ た。各国籍法案では、満洲国の国家建設のために日本から官民を通じて広 く人材を登用すべきとの考えから、日本人には日本国籍を保持させたまま

日満二重国籍として扱う方針が大半であった。

 だが、立案において苦慮されたのが国籍法の核となる国籍取得の原則に ついてであった。一般に国籍法においては、出生時に国籍を取得する原則 として、親の国籍を子が継承する血統主義と、出生した地域の管轄国の国 籍を取得する出生地主義の二通りがある。満洲国を移民主体の多元的国家 として運営していく長期的視野に立てば、移民の二世以降の国籍取得を保 障する出生地主義の採用が不可避となる。一方、日本人移民の利害関係を 優先すれば、日本国籍法と同じ血統主義を採用するのが望ましい。いずれ を選択するかについて立案過程では結論に至らなかった。さらに朝鮮人、

「苦力」、白系ロシア人の国籍をどう取扱うかは、日本の朝鮮統治や満洲国 建国における「民族協和」との整合性、ソ連をめぐる国際環境といった要 因が絡んで難問となり、容易に立法化は実現しなかった5

 国際法学者・大平善梧が1932年9月に満洲国司法部及び国務院法制局 に提出した「満洲国国籍法草案」においては「満洲国ノ住民ノ範囲極メテ 不明ナリ。第一ニ満洲国ノ国境確定セサル今日ナリ。是レハ結局国家ノ最 高政策ニヨリテ、最後ニ確定スヘキモノニシテ、又戸籍法ヲ施行セサル限4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 リ、本問題ノ解決ハ困難ナルヘシ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 46」(傍点、筆者)と述べられていた。す なわち、満洲国を独立国家として完成させるべき「最高政策」となる国籍 法制定にとって不可欠の関連法として、戸籍法の制定を必須とみていたの である。

 もっとも、満洲国において戸籍制度は草創期から「匪賊」対策という治 安的要請から緊要とされた。満洲国内に割拠していた抗日武装組織は日本 から「匪賊」と包括的に呼称されていたが、抗日反満を掲げる「政治匪」

や中国共産党の指揮下にある「共匪」など一様ではなかった。共産主義運 動の浸透に注意を払っていた満洲国ではとりわけ「共匪」の弾圧に注力し た。また、満洲事変勃発によりソ連と日本の緊張関係は高まり、日本陸 軍では対ソ脅威論が強く主張されるに至っていた7。コミンテルンは1932 年2月のモスクワ会議で満洲事変後の対満方針として、革命思想の基盤形 成を企図した反日民族統一戦線の結成を決議し、これが同年秋の執行委員 会第12次全会において採択された。1933年1月及び1934年2月にこの 指令を接受した中国共産党は満洲における反日民族統一戦線の結成を実現 に移していった8

 「日満共同防衛」の精神に則して「匪賊」の徹底的な掃討を必要とみた

関東軍では1933年5月の「塘沽停戦協定」締結以後、華北を国民党支配

から切り離して防共・緩衝地帯とする「華北分離工作」に着手していった。

満洲国における治安政策を管掌する民政部警務司では、「匪賊」の跳梁を 許して満洲国に治安不良をもたらした一つの素因として、治安粛正工作の 中枢となるべき戸籍法の不在を挙げていた。民衆のなかに潜伏して思想工 作を行う「匪賊」を警察や憲兵が摘発する手段として戸籍の利用が念頭に 置かれていたのである。そこで戸籍に代替する手段として民政部警務司で は1933年より指紋制度の調査研究が着手された。「我が国は複合民族国 家であると共に民籍4 4なく、然も年々五、六十万の労働者が北支方面より入 国する関係上、治安方面からも亦国策遂行上からも国民全部の指紋を蒐集 するを必要とするが、これを実施するとすれば果して技術的及び事務的に 見て可能なりや9」(傍点、筆者)という問題点が研究され、満洲国の国民 証明の一策として国民指紋法の実施が有効と考えられていた。中国共産党 の権勢下で「匪賊」の抗日運動が活発化していた「北支」から来満する労 働者については、多くが短期型の季節労働者であるにせよ、陸軍などにお いて主流をしめていた防共論の観点からその統制は指紋を利用してまで厳 重が期されたのである。

 奇異なことに、満洲国国籍法が未制定であるにもかかわらず、日満の行 政実務では「満洲国国籍」なる文言が使用されていた。国籍の有無が決定 的意味をもつ出入国管理について、日本内地の行政では、満洲国内に「本 籍」を有する者を「満洲国国籍」として認定していた。また、満洲国の行 政では一定期間満洲国内に居住している事実を以て「国民」の判定基準と することが慣例となっていた。満洲国で出入国管理の主たる対象とされ、

入国証の発給が義務づけられていたのは、毎年50〜60万人に及ぶ入国数 があった「苦力」であった10。関東軍や満洲国政府では「苦力」の導入と ともにその規制を考量せねばならなかったのは、「苦力」の中国共産党と の関係を危惧したからである。

 「苦力」が従業員の大半であった撫順炭鉱を擁する奉天省では、指紋法 が戸籍法の穴を埋める便法となり、「苦力」のなかに潜伏する匪賊の摘発 にも効果あるものと期待して満洲建国直後より立案に着手した。1933年 3月、奉天省公署は「奉天省互保身分登記法案11」を作成しているが、そ の「制定趣意書」をみると、本法は「満洲国の領土内に居住し満洲国主権 の支配を受くる国民に対し指紋法が持つ個人識別の特性を援用し其身分を

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