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国家建設のかたち

ドキュメント内 WICCD no.5色付き_1 (ページ 100-110)

―中国革命と戦争をめぐる秩序設計―

4. 国家建設のかたち

 では、ソ連はこのように国際政治を構想しながら、中国の新たな国家建 設をどのように考えていたのだろうか。

 まず、内政不干渉の原則が、意外なほどに重要な役割をはたしていたこ とを確認しておこう。国府から国共調停を求められたとき、ソ連は毛の意 見を尊重しながら、正式な回答を決めたのである。当初、スターリンは、

中共がソ連の調停に同意するかどうか確認が必要だとする回答を用意して いたが、同時に彼は、この回答に「もし同意されないときには、より適切 な回答を我々に示唆されたい」と毛に打診していた73。スターリン自身、「南 京と米国による平和の提案は、まちがいなく欺瞞的政策の現れ」だと考え、

国民党軍がやがて「力を温存したあとで」反撃するとみていた。ただし、

ソ連の助言は「強要」ではないから「受け入れても拒絶してもよい」し、「我々 の回答は、貴殿[毛]の要望を軸に据えるつもりである」と毛に伝えても いた74。結局、ソ連は国府の調停依頼に対して、「他国への内政不干渉原 則を堅持」することを確認した上で、中国人自身が「民主的で、平和愛好

的な国家として中国を再統一」すべきだと正式に回答したのだった75。ス ターリンは、現政権の延命にいっさい手を貸さなかったばかりか、中共の 戦略にも過剰な干渉をすることなく、むしろ後者を尊重したとさえいえる。

 では、ソ連はどのようなプロセスを経て中国に新しい政治体制をつくる べきだと考えたのだろうか。スターリンは、米国と国府の影響力を排除し ながら、新しい連合政府をつくるべきだと考えていたようである。1月6 日、スターリンは毛にこう伝えている。「現状において、そのような[民 主連合]政府を組織することは、国民政府の崩壊を促進し、中国の新たな、

さらに力強い民主勢力の発展を助長するだろう」。ただし、その組織化を 夏まで待てば、「国民党員が米国人の助けを借りて、連合政府創設のイニ シアティブをにぎり、夏以前に自分たちの連合政府をつくり」かねない。

従って、「夏まで待たずに、北平解放後、すぐにこれらの措置[政協会議 の招集と民主連合政府の形成]を講じるほうがよくないだろうか。このこ とによって、中国連合政府組織を独自に計画している国民党と米国の指導 者を混乱させることができる」76

 その連合政府の構成について、1月14日、スターリンは毛に次のよう に助言していた。たとえ国民党が平和交渉の条件を受け入れたところで、

中共は停戦してはならない。政協会議で「中国の唯一の政府」として連合 政府を創設することを宣言するべきであるし、その政府は共産主義者が主 席、総司令官、閣僚ポストの3分の2を占めるものとする77

 ところが、連合政府形成の時期については、見解がゆれ動いた。当初、

上記のように、北平解放後すぐに開始するよう助言していたにもかかわら ず、訪中したミコヤンはこう語ったのである。「スターリン同志は、仮に 毛沢東同志が[北平解放後ではなく]南京解放後に連合政府を形成するの がよいということに同意されるのであれば、彼[スターリン]もそれに同 意するという意見をお持ちである」78

 さらにミコヤンは、政協会議や連合政府などの構成について、まったく 助言しなかった。彼は、軍事戦略についても、助言らしい助言はしていな い。例えば、上海と南京における戦略について、次のように語るくらいだっ た。「2〜3ヵ月攻撃を中止することは、国民党側に混乱をしずめ、抵抗を 組織するための休息を与えることにならないか。というのも南京側が平和 の条件に同意すれば、それだけ彼らが休息を求めていることが強く示され るからだ」79。後日、毛が軍事戦略を体系立てて話したとき、それに対し

てミコヤンが明示的に回答した形跡はない80

 次に、ソ連は経済建設について、どのような提案をしたのだろうか。政 治体制と同じように、ここでも社会主義化を長期的にすすめることが助言 された。ミコヤンは、劉少奇の見解に同意しながら「民族ブルジョアジー に対する慎重な政策は正しい」と話した上で、こう述べた。「今のところ、

その企業の国有化については、話をしなくてもよいし、よく観察する方が よい。政権が強くなったときに、その問題を提起するとよい」81。また彼は、

現代国家にとって工業化がきわめて重要であることも説いた。「中国は経 済的に対照的である。例えば、上海は巨大な産業の中心地であるが、農村 は遅れてい」る。さらに、こう強調した。「現代国家の基礎は工業にある。

工業発展すれば、国民の生活水準を上げることは容易になる」。農地改革 だけでは、「国家の技術的・工業的発展の問題まで解決することはできない」

82

 このようにミコヤンは、社会主義経済に移行するとき、工業発展がきわ めて大きな比重を占めると助言したが、ソ連は中国に対してどのような援 助を与えようとしたのだろうか。

 ミコヤン訪中前、オルロフは毛に次のような話をしていた。中共から 要請さえあれば、ソ連は鉄道の技師やその他作業員を派遣する用意はあ る83。ミコヤン訪中後、彼はおもに二つの分野で援助を提案した。まず、

ミコヤンは「我々[ソ連]は兵器生産の組織化を援助し、助言者を用意す ることに原則同意する」とした。その上で、「高射砲と対戦車砲について は、いま何もいえないが、検討するようモスクワには伝える」と話してい た84。次に、彼はこのような話もした。「I. コワリョフ同志は経済問題に 関するソ連邦閣僚会議の代表であり、彼の活動範囲は満洲と華北である。

……彼は名目上、中長鉄道を担当しているが、実質的に彼の活動は中国全 体に及ぶ」85

 ソ連は、鉄道技師・兵器生産・助言者の用意といった点で援助すると明 示したものの、ミコヤン訪中時に具体的な内容までは示さなかった。

 さて、ミコヤンは中国の国家建設をどのようにすすめるべきかについて、

以上のような助言をしてきたが、国際政治の構想に比べれば、その内容は それほど充実したものではなかったといえる。

二つの中ソ同盟のあいだ

VI

 ミコヤンの秘密訪中は、1945年と1950年にそれぞれ成立した二つの中 ソ同盟の間におかれた、まさに移行期とよぶにふさわしいイベントであっ ただろう。一方では、1945年の中ソ同盟がなおも生き残り、ソ連は国府 との外交関係を維持することにあくまでも固執していた。しかし他方、内 戦の進展によって、その内実は大きく崩れはじめ、中国に新しい政権が生 まれる前夜でもあった。モスクワと中共の幹部どうしが、濃密な交渉をく り広げたのは、このような移行期に他ならなかった。

 このとき、ソ連と中共のあいだに重要なコンセンサスがあったことは事 実である。まず、近いうちに国府を排除して、中共をリーダーにした連合 政府をつくることについては、両者の見解は一致していた。さらに、日米 による勢力伸張をくい止めるために、これまでソ連の軍事プレゼンスが有 用だったという点についても、両者の評価に大差はなかった。

 ここで重要な利害の一致をみつけながら、新たな中ソ同盟がつくられて いくプロセスを考察することは、たやすい。ところが、表面では両者の利 害が一致しているときでも、その内実を解剖してみれば、両者の戦略があ まりに対照的であることに気づかされる。

 中共にとっては、自らの政権をつくることが最優先の課題であったため、

「現状変革」という国内の国家建設が戦略の中心にあった。これを土台に しながら、国際政治は構想された。そのとき彼らは、米国による軍事介入 のリスクがあることは計算に入れながらも、それよりは東側陣営を選択す ることに、より大きな利得を見いだした。この選択は、やがて国際政治に おいて勢力配分の大きな変動を生むことになる。

 他方、ソ連にとっては、新たな戦争を回避するという国際政治の構想こ そ戦略の主軸であっただろう。そのために、中共が拙速に対ソ接近をすす めるのを警戒し、それを抑制するためにいくつもの提言をくり返したので ある。また、国府政権が近いうちに瓦解すると知りながらも、彼らとの公 式関係を放棄することなく、あくまでも「現状維持」に固執した。新たな 中ソ同盟をつくるという姿勢は、このときまったく明示されなかった。

 ミコヤンの秘密訪中によって生まれた利害の一致は、このように対照的 な戦略が互いにぶつかりあい、均衡地点をみつけたときにようやく成立し たものだったといえる86。ソ連は東アジアにおける戦争を回避したいと考

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