図46《峨蠣露頂図巻(部分)》 与謝蕪村筆
そして筆触の特徴がもっともハッキリ表れるのは線描の表現においてである。この様に 墨絵において線描を主体とした表現がなされているのは墨絵が毛筆による文字の書法の発 達と同時に発展し確立したということと無縁ではなかろう。ここに与謝蕪村の作品を挙げ てみる。この絵を見るとその筆触が画面の中においていかに重要な役割をはたしているか
が解る。背景には薄い墨がのっているが、前景の岩などはほとんど線描のみで描かれてい る。この岩においては墨の濃淡や筆の遅速などによって複雑な表情を表現している。
上の与謝蕪村の作晶などは比較的筆触が目立った例である。もう少し現実再現的な作晶 も墨絵にはあるが、やはり、筆の筆触は重要な絵画の構成要素となっている。そのため、
筆の一つ一つの扱いが画面を作り出していると言える。これらの筆触を目立たせるために 画面も平面的な捉え方がなされている。ではどうしてこうまで筆の筆触にこだわったので あろうか。それは筆の持つ可能性に気づいていたからであろうと思われる。それは筆の扱 いにくさであると思われる。「墨と筆で紙の上にデッサンの真似事をしてみるとすぐに気が つくことがある。それは、どんなに練習しても、引かれた線の墨自身が勝手な形になって しまうことだ。柔らかい筆先は鉛筆などと違ってコントロールが難しく、わずかな腕の動 き、わずかな筆圧の変化に反応してさまざまな大きさのさまざまな濃淡を持った形をこち らの意志などおかまいなしに作り出してしまうからだ」23〉とあるように筆は鉛筆などに 比べて非常にコントロールが困難である。
ここで参考までに墨絵に使われる筆の特徴とその種類を挙げておく。
「毛筆の特色は運筆の速さ、遅さ、筆圧、墨の含ませ方、運筆の方向など、さまざまの要 素が組み合わされて、遅速・柔剛・流動・潤渇・濃淡・太細・大小・軽重・渋粘などの多 様な表現を自由にすることができ、筆によって描かれた線には生命の流露感がリズムとな って流れ出し、線が生きたものとなる」24)のであり、これは以下の様な筆を自在に使い こなすことによって可能となるのである。以下、『墨絵の技法』から引用する25).
筆の種類
●附立用筆 (没骨筆)
筆の穂が長めで毛並みがよく揃い、弾力があって、筆をひねったり回転させたりして描 いても、描き終わると、もとの穂の姿に自然に立ち返るものがよい筆とされている。描い た時に穂の先が割れたり、バサバサにならず、穂先が揃い腰のしっかりした筆である。又、
筆の軸が長めである。筆軸が書道用のものより長いから手に持ったときのバランスや重さ の感じが調節されて描きやすい。
毛筆の硬いものと、柔らかいものがある。また大・中・小の各種がそろっている。没骨 画(線描きのない画)を描く筆であるから没骨筆ともいう。目本画の材料店に行けば「長 流」・「玉欄」・「白鶴」などの名称で売られているものである。
●線描筆
附立用筆一本あれば細い線も太い線も自由に描くことができるから、あえて線描筆を必 要としない向きもあるが細い線、長い線を自由に描くために線描筆を用意することも必要 である。線の性質により線描筆にも各種類がある。削用筆は細い太い、肥痩の変化のある 線を描くのに適している。面相筆は細い鉄線描や髪毛を描くのによい。穂が長く細い筆で ある。則妙筆は柔らかい優美な線を描くのに適している。文字や落款を書くためには線描 筆が用いられる。
●彩色筆
彩色するのに適した筆である。白い軟らかい毛で作られているため、水をたっぷり含む ことができ、淡彩をほどこすのによい。彩色筆で墨絵を描くとやわらかい階調の作晶がで きる。風景画などに用いると情趣のある絵が描ける。
●連筆
没骨筆や彩色筆を二・三本並べて連結し刷毛のような姿になった筆である。連筆の穂先 に墨の濃淡をつけ、幅の広い部分を描くと、一筆で濃淡の調子が描ける。広い墨の面を量 かしたりするのに使う。主に専門家用の筆である。遠山を淡墨で描いたりするときに用い
る。
●刷毛
広い墨の面を描いたり、ぽかしたりするのに使用する。墨をきれいに洗った刷毛に水を 含ませ、紙面に水を塗ってから墨を塗ると、筆跡が強く残らないで、濃淡やぽかしの効果
を出すことが出来る。刷毛の両端に濃墨をつけて竹の太い幹などを描いたりする。
墨の濃淡の具合や墨のかすれ具合、または滲み具合などはどれだけ訓練してもコントロ ールしきることは不可能である。この人の意識によってコントロールできない部分、それ は人の外にあるものであると言える。それは偶然性であり、常に人が捉えきることの出来 ない自然であると言える。このように自らの外にある世界を画面の中に取り込んだ制作姿 勢は自らを取り巻く世界と対話するという姿勢であると思われる。「彼らは自然の情景を描 こうとしていたのだけれど、紙の上に厳然と存在している自然と戯れ、その結果が絵画に なった」26)とあるように自然と戯れるという姿勢であった。この姿勢と油彩画の姿勢と を比較してみる。「油絵では自然をねじ伏せ意志を貫徹することは出来る。しかし、自然と 戯れる喜びは得られない。描き直しが出来れば喜びはさらに小さくなるだろう。多色が使
えても色の選択は意思の決定であり、偶然が介入してくれない。だから、多色の絵の具は 意思決定の重責を画家に課すだけで、快楽を増やすものではない」27)とあるように油彩 においては墨絵に比べて画材が扱いやすいことにより現実再現という意志が出やすくなる。
そのため、墨絵にあるような偶然の要素や自然の要素は排除される方向にある。しかし、
意識的な方向性とは逆に偶然の要素はつきまとう。それは画家が画面を描いているという 事実である。まず、現実再現というが、それは何を基準としたものであろうか。個々の人 間に視覚だけがあるのなら、共通の現実のヴィジョンがあるかもしれないが、その視覚は 個々の人間の肉体と繋がっておりまた、その肉体は個々の人間の生きた時間と密接に繋が っている。そうなれば、個々の人間のヴィジョンは視覚的には共通する部分もあるかもし れないが、共通しない個人的な要素も介入することになる。
その不確定な個人の肉体に根ざした部分がどうしても介入する。それは人間の意思でい くら除外しようとしても不可能である。これは結局画面の中に自然が入り込むという事で ある。画家が対象を見て分析し現実再現を行う時、現実を客観的に見る。出来る限り客観
的に見た方が現実再現はより可能となる。しかし、このような作業をしている時に画家は 別の世界から対象を見ているのではなく、その対象がある世界と同じ世界に身を置いてい るのである。その場合画家はどこまで客観的に成りきれるのだろうか。
自分のいる空間を完全に客観的に見るのは不可能である。それは全てを見渡せる存在に しか許されないことである。このため油絵の現実再現の方向性においては不可能に対する 挑戦と言った世界に対する姿勢が見られる。ここには現実再現をするための客観的な、世 界を突き放した姿勢と既にその世界の中に存在するという体験的、肉体的、そして主観的 な現実との矛盾に対する戦いがある。特に印象派以降の画面に筆触を残す傾向はルネサン ス以降の現実再現の方向性が東洋の自然との共生を楽しむ方向性に少しずつ近づいてきた、
とも言えるのではなかろうか。
第2項においては墨絵について考察した。第1項において取りあげたデッサンと共通す る部分もあったが異なる部分もあった。デッサンは西洋から入ってきた言葉であり、日本 や東洋においてそれにみあったものがもともと存在したとはいえない。大分ニュアンスが 違う。画材やものの捉え方の違いがその原因であろう。墨絵などは白と黒の世界であり、
デッサンと共通する部分もあるのだが、その画材が異なっている。西洋のデッサンの画材 に比べてより扱いにくいという特徴があった。東洋においてはこの扱いにくさに独特の解 釈を加えてそこに思想や独特のものの捉え方を発見した。墨絵が東洋において一つのジャ ンルとして捉えられるようになったのにはこの画材の扱いにくさが原因になっている部分 もあると思われる。画材が扱いにくいということはその画材の欠点とも受け取るこ.とが出 来るが、その反面その画材の奥の深さとも受け取ることが出来る。
画材が扱いにくいとその画材を使うまでの間にいろいろな下準備が必要となる。エスキ ースは描きにくい画材で制作するための下準備として行われてきた部分もある。また、高 価な画材で描く前の下準備としても行われてきた。また、描く前に道具を揃えなければな らない、つまり描くのに手間がかかる画材の代わりとして用いられてきた部分もある。こ のように考えるとエスキースに使われる画材は安価で描くのに手間がかからず、扱いやす い画材が最も適しているともいえる。鉛筆などはそのいい例であろう。扱いにくい画材に なるに従って、一つの素描作品を作る画材としての可能性を持つ傾向にある。その画材の 扱いにくさ故に客観的、分析的な視点だけではなく画材の性質に感じたりする主観的な部 分が入ってくる傾向がある。そうかといって扱いやすい画材、例えば鉛筆などが客観的、
分析的な作業、っまり部分的な作業にしか使えない画材であると言っているわけではない。
鉛筆も充分に一っの作品を作るに足る画材である。ただ一般的にそのような傾向があると いっているだけである。結論としては扱いやすい画材は直接的、分析的なエスキースに使 いやすく、扱いにくい画材は間接的、感覚的なエスキースに向いているということである。
これらのことを考慮にいれてエスキースに取り組んでいかねばならないだろう。