①色
第3節 制作上のエスキースの意味合い
ここまで見てきて、画材の発展や社会の変化などにより本制作の中にエスキースの要素 が入ってきたことがわかる。そして、そのことは本制作の中に素描の要素が入ってきた、
と言い換えることも出来る。そこで、素描とエスキースの関係や素描と本制作との関係を 考察してみる。
第1項 素描とエスキース、素描と本制作との関係
〈1)デッサンについて
素描と雷えばデッサンという言葉が思い浮かぶ。何故なら大学受験に石膏デッサンや静 物デッサンが必要だということが一般的であるからである。そして、これらのデッサンは 主に木炭や鉛筆で行われている。『美術の教科書』では素描について次のように述べられて いる。r『デッサン』と『ドローイング』という美術用語の内容にっいて考えます。これら の言葉は、前者はフランス語、後者は英語です。そのどちらも日本語では『素描』と訳さ れています。両者とも、鉛筆や木炭などいわゆる単色の描画材を用いて描かれる完成作の ための習作として基本的には共通に位置付けられます。しかし近年では、この二つの用語 の示す意味はかなり異なってきているといえます」12)。このことから、素描とはデッサ ン、ドローイングを含むと考えられる。そして、基本的にエスキースの一部分として考え られている。しかし、現代においては必ずしもそうとは言えない。
現代においては素描はエスキースから発展、独立して一つのジャンルとして捉えられる に至っている。デッサンは部分的スケッチや最終的カルトン、ドローイングは一番初期の エスキースにおいて行われた作業から発展してきたものともいえる。また、単色の描画材 を用いて描いたものとあるが、必ずしもそうではない。パステルやクレヨン、水彩絵の具 など彩色できる素描画材はたくさんある。では素描とはいったいどのようなものなのであ ろうか。素描画材で描かれた作晶というのが一番無難かもしれない。しかし油彩であって も素描的な作晶と素描的でない作晶がある。このことから油絵の具も素描画材である、と 欝えないことはない。事実現代にいたるまで、素描的な魅力を持った油彩を描いた作家は たくさんいる。
ここで、デッサンとドローイングについて考察してみる。r日本では『デッサン』という 語の方が一般には広く普及していると思います。これは例えば、アカデミックな描写表現 のための訓練として行われる石膏デッサン、あるいは静物、人体デッサンという用語に代 表されるような、対象、(モティーフ)を写実的に描きあらわすトレーニングとしてまず位 置付けられるでしょう。『デッサンが狂っている』とか『デッサンカが弱い』という際の『デ
ッサン』とは、まさに対象の形態や空間との関わり等の忠実な再現性を意味しているので す。そしてそれは、完成作を描くために、それに向かう前段階として為される描写訓練的 な意味合いが強くあります。従って『デッサン』がひとっの自律した作品となることはほ とんどありません」13)とある。しかし、それは描写訓練として捉えた場合であると思わ れる。デッサンであってもその作晶に作者の画面に対する思い入れがあればそれは一つの 作晶になりうると思われる。
恐らく、デッサンが一つの作品として取り上げられないのはr対象、(モティーフ)を写 実的に描きあらわすトレーニング」としての役割がクローズアップされているからであろ
う。そのため、デッサンと言うと、写実的な木炭画や鉛筆画を思い浮かべてしまう。いわ ゆる写実的なデッサンをしようとすれば、描いたり消したり出来る木炭や鉛筆が適してい るのであろう。たしかにデッサンには訓練のイメージがある。それは色彩のある世界から モノクロームの世界に限定して描くためそういったイメージが強化されるのであろう。限 定するという事は色彩を抑制する、ということである。そのため、表面的には禁欲的な印 象を受ける。彩色画のほうが情報が多く応用的であり、現実の視覚と繋がった外に向かう 印象を受ける。
デッサンはモノクロームの世界に限定することでそのモノクロームの性質自体が現実再 現から離れた印象を与える。現実を一旦内部に取り込み、モノクロームの世界に作り直す。
このため、自らの主観が画面に影響を及ぽしやすいといえる。主観が画面に反映されやす いということはねらいを絞りやすいということでもある。石膏デッサンにおいては一つ一 つの課題、量感の把握、構図のとりかた、調子の作り方、描写力の訓練などにねらいを絞 りやすいのでモノクロームの鉛筆画や木炭画が使われたのであろう。また、この現実の色 彩のある世界から色彩を制限し、限られた色彩(白と黒)の内側でものを表現する性質は 人間の内側に向かう方向性をもつ。そのため、デッサンのモノクロームの世界は精神的な 世界や内面的な世界もしくは人の頭の中で考えた概念の表現にも役立つと思われる。
例えば、ルドンなどは多くのリトグラフを制作している。リトグラフは版画技法である が、白と黒の世界であるからデッサンに近いものととらえることも出来る。リトグラフの 作品が多いがそれ以外の画材でもデッサンを多く制作している。その描画材を挙げてみる と鉛筆や木炭、木炭と白チョークの併用、チョーク(黒)と木炭の併用、黒チョーク単体、
黒鉛単体、黒鉛と黄土色の鉛筆のハイライトの併用、黒チョークと白のハイライトの併用 など、いろいろな描画材の組み合わせを使っている。また、支持体としては普通の紙、灰 色がかった白い網目紙、乳白色の網目紙、黄褐色の網目紙、黄褐色の紙、青緑色の網目紙、
茶色の網目紙、など普通の紙と様々な色のついた網目紙を使っていたようである。
これらの画材はエスキース画材であるが、ルドンのモノトーンの作品はエスキースとは いい難いものがある。では何故、ルドンの素描がエスキース的でないと筆者が感じるのか を考えてみる。まず、その理由の一っにルドンのデッサンが油絵やタブローのための下絵 の性格を持っていないということである。エスキースで描いた形や構図などをタブローに
おいて使った時、エスキースの役割が見えてくる。しかしルドンは1870年代半ばから 木炭を中心に制作を始めている。このため、ルドンは一つの作晶を作るためにモノクロー ムの素描画材を使った事になる。このため、ルドンの中では独立した作晶として捉えられ ていたと思われる。そして、独立した作品であるならば、ある一定の完成度の高さや密度 の高さが要求される。ルドンのモノクロームの作品は完成度が高くそして密度も高い。そ して、その作家の特徴がその作品に現れていることも条件として挙げることができる。ル ドンの素描はこれらの条件を満たしていると言えるので独立した作晶として捉えることが 出来るのではないだろうか。
図44
オデイロン・ルドン
《殉教者の首》1877
チョーク・木炭,紙また、素描が一っの独立した作品となるにはその画材が表現内容に適していることも条 件となる。ルドンの作品は色彩をモノトーンに限定している。そして、周りの世界をモノ
トーンの世界から捉え直している、その過程で色彩があるときには見えなかった世界が現 出することとなった。それは非現実的な世界や内面的な世界である。ルドンが表現しよう
としたものにはモノトーンの画材が必要であったのであろう。つまり、ルドンの画材の選 定には内面的な必然性があった、ということになる。このためルドンのデッサンは一つの 作品として捉えられると思われる。
ルドンは色彩を制限したことによりモノトーンの世界の可能性に注目することになった。
そして、モノトーンの世界に限定することによって、黒という色の性質に目がいくように なる。ルドンは「黒はもっとも本質的な色彩である」と書っている。また、r黒を尊重せね ばならない。何ものも黒をけがすことはできない。黒は目をよろこばせないし、いかなる 官能も呼び起こさない。しかし、それはパレットやプリズムの美しい色彩よりもはるかに すぐれた、精神の代理人なのである」14)といっている。そこでルドンが何故黒を使った のかという疑問が湧いてくる。