第
3
章でみたように、音楽院では1848
年から音楽史クラスの創設が望まれていた426。 音楽における歴史意識の高揚は、1860
年代以降の音楽界に広く見られた427。音楽院内では、1848
年のマルダン、ド・ラ・ファージュの要望のみならず、付属図書館の蔵書拡大428、音 楽院構内に設置された音楽博物館の設置によっても刺激された。音楽図書館は1795
年8
月3
日の音楽院設置に関する法律第10
条で設置され、当初は「楽譜と音楽関連書籍、古い楽 器や外国の楽器および今日使用されている楽器」429を収めるものと規定されていた。1834 年に公的機関への寄贈が王令によって許可されたことにより、音楽院は積極的に蔵書の充 実に取り組んでいた430。41 年総則は、蔵書の内容を「音楽芸術に関する教育的・歴史的、、、著 作、フランスと外国のあらゆるジャンルの音楽作品全般、楽譜」431とし、多様な資料で図 書館を充実させる方針を示した。
楽器収集に関しても、音楽院は設立当初から移民や王侯貴族から接収した楽器を所蔵し ていたが432、1861 年の音楽博物館設置により、コレクションは博物館の専属管理官の下に 置かれ、本格的な楽器収集が始まった。
1871
年、パリ音楽院では音楽史クラス設置の3
度目の試みがなされた。第2
章では、院 長によるクラスの設置要請、3
名の初期のクラス担当教授に関連する史料を通して、このク ラスがその初期にどのような授業を行ったのか明らかにする。8-1. クラス設置の要請
1871
年8
月31
日、アンブロワーズ・トマは、1848年の総則草案作成委員会での議論を 思い出しながら、公教育大臣に音楽史クラスを含む3
つの講座を創設する案を提出した。長年、音楽院は音楽学習の水準を向上させるであろう高等教育が欠如していること が惜しまれています。1848年、この教育の有用性は既に、私どもの名高い国立学校 に導入すべき改善点を検討する委員会コンミッシオンによって認識されました。同じ願いは、1870 年の委 員 会コンミッシオンでも表明されました。
経験と私自身の信念から、ある2つの委員会コンミッシオンの願い
――
それは同時に一般的な426 Cf. 本論文I-3-3。
427 1867 年のパリ万博の音楽展の主題は作曲、演奏に加え歴史が一つの柱に加えられた。Cf. 井上さつき、
前掲書、104頁。
428 50年総則第99項は1834年の王令(ordonnance du roi)によって新刊の登録が増加したこと、楽譜・書 籍購入のための予算が認められたことによって蔵書が増加したことに言及している。CP, p. 259, art. 99.
429 « [La bibliothèque] est composée d’une collection complète des partitions et ouvrages traitant de cet art, des instruments antiques ou étrangers, et de ceux à nos usages qui nomme la bibliothèque. » CP, p. 124.
430 1834年の王令は、公的機関への遺贈・提供・寄贈を許可する内容である。Cf. J. B. DUVERGIER (éd.),
Collection complète des lois, décrets, ordonnances, règlements, et avis du Conseil d’État, t. 34, Paris, s. n., 1834, p. 14
430 CP, p. 259, art. 99.
431 « […U]ne collection d’ouvrages didactiques et historiques sur l’art de la musique, les partitions françaises et étrangères de tous les genres et de tous les compositeurs, et les œuvres de musique en général, s’augmente par des acquisitions et par l’exemplaire de chaque ouvrage déposé à la Librairie et destiné à enrichir cette Bibliothèque. », CP,
p. 225. 傍点強調は筆者による。図書館内部の様子は附録I-33~I-34参照。
432 Antonio Bartolomeo BRUNI, Un inventaire sous la Terreur, état des instruments de musique relevé chez les émigrés et condamnés, introduction, notices biographiques et notes, par J. Gallay, Paris, G. Chamerot, 1890, p. 67.こ こには1794年10月18日(共和歴3年ヴァンデミエール月17日)に翌年音楽院となる王の遊興費館に収 められた9点の楽器のリストが掲載されている。楽器博物館内部の様子は附録I-36参照。
願いでもあります
――
に応えて、今日、次の3講座の創設を提案致します。1. 音楽美学と音楽史の講座 2. 歴史と劇文学の講座
3. 声楽の様々な古典的楽派を学ぶ声楽アンサンブルの講座433
この
3
講座のうち、1870年以前に提案されたのは1
と2
であり、3はトマの付け加えた 案である。続けて彼はそれぞれの科目の概要を説明する。美学講座は、とりわけ作曲クラスの生徒は必修で、和声の生徒と他の全教育科目 の極めて優れた生徒は任意です。音楽院外部の人々も聴講を許されます。
ここで最終的な講義のプログラムを提示することはしませんが、その主たる構成 は次の通りです。もっとも遠い時代から今日までの概略的な音楽史
――
音楽の古 文書学。記譜法。様々な音楽システムの提示。――
宗教音楽と世俗音楽。大家た ちの伝記。彼らの作品の批判的研究、等々。歴史と劇文学の講座は次の内容を含むこととなりましょう。劇芸術との関連にお ける歴史の要約的研究。フランス演劇と外国演劇の傑作の分析。朗唱専科の生徒と オペラ朗唱科の生徒は、この講義を受ける義務があります。その他のクラス、とく に作曲と声楽の優秀な生徒は、この講義の聴講を認められます。
声楽アンサンブル講座は、声楽クラスの生徒向けのものとなるでしょう。大家の 傑作から選ばれたアンサンブル作品(二重唱、三重唱、四重唱)の分析と演奏によ って生徒は大楽派の様式を学びます434。
この説明から
1
と2
の講座は、それぞれ音楽部門の理論系学科、朗唱部門の高等教養科目433 « Depuis longtemps on regrette l’absence au Conservatoire, d’un enseignement supérieur qui élèverait le niveau des études musicales et en serait le complément. Déjà, en 1848, l’utilité de cet enseignement a été reconnue par la Commission chargée de rechercher les améliorations à introduire dans notre grande Ecole nationale. Le même vœu a été exprimé par la Commission de 1870.
L’expérience et ma propre conviction m’imposent le devoir de répondre au vœu des deux commissions, qui est en même temps le vœu général, en proposant aujourd’hui la création de trois nouveaux cours :
1° Cours d’esthétique et d’histoire de la musique ; 2° Cours d’histoire et de littérature dramatiques ;
3° Cours d’ensemble vocal, étude des diverses écoles classiques du chant. » CP, p. 310.
434 « Le court d’esthétique, plus particulièrement obligatoire pour les élèves îles classes de composition, serait facultatif pour les élèves d’harmonie et les élèves les plus distingués de toutes les autres branches de l’enseignement.
Des personnes étrangères au Conservatoire pourraient y être admises. Sans présenter ici un programme définitif du cours, voici toutefois quels eu seraient les principaux éléments : Histoire sommaire de la musique, depuis l’époque la plus reculée jusqu’à nos jours. — Paléographie musicale. Notations. Exposé des divers systèmes musicaux. — Musique sacrée et profane. Biographie des grands maîtres. Étude critique de leurs œuvres , etc.
Le cours d’histoire et de littérature dramatique comprendrait : L’étude sommaire de l’histoire dans ses rapports avec l’art dramatique. L’analyse des chefs-d’œuvre du théâtre français et des théâtres étrangers.
Les élèves de déclamation spéciale et lyrique seraient tenus de suivre ce cours. Les élèves distingués des autres classes, notamment des classes de composition et de chant, y seraient admis. Des personnes étrangères à l’École pourraient être autorisées à y assister.
Le cours d’ensemble vocal serait destiné aux meilleurs élèves des classes de chant. Par l’analyse et par l’exécution des morceaux d’ensemble (duos, trios, quatuors, etc.), choisis dans les chefs-d’œuvre des maîtres, les élèves se formeraient au style des grandes écoles. » Ibid.
として位置づけられ、
3
は歴史的知識と演奏実践を結びつける科目として計画されたことが 分かる。音楽史を含む美学講座は、トマの例示をみる限り、芸術における美や音楽美そのも のの根源を問うものではなく、理論や作品批評をその内容としている。これは第3
部で検討 するように、19世紀中葉以降のフランスにおいて美学という領域が独立した学問領域とし て成立しておらず、音楽的文脈においては理論やその歴史と親和性が強かったという背景が ある435。この3
講座のうち、大臣が承認したのは1
と2
の歴史講座のみであり、1に関して は講座名から「美学」は省かれた436。こうして
1872
年2
月、音楽史講座がついに開講されることとなった。この講座を受けも ったのは哲学者や歴史家ではなく、ローマ賞を獲得した経歴をもつ博識な作曲家たちであ った。1872
年2
月22
日に最初の授業が行われたこの音楽史の授業内容を知る手がかりはほ とんどない。というのも、1878
年に音楽史クラスの教授となったブルゴー=デュクードレーLouis-Albert BOURGAULT-DUCOUDRAY(1840~1910)以前の教授バルブロー Auguste BARBEREAU(1799~1879)とゴーチエ Eugène GAUTIER(1822~1878)は、講義内容を出
版する間もなく交替していったからである。しかし、これらのクラスが音楽院内において どのような生徒を対象としていたのかを知ることは、本論文第2
部で検討するピアノ科の レパートリーにおける歴史意識の高まりとも無関係ではあり得ず、無視することはできな い。そこで、ここではフランス国立古文書館に残された初期の音楽史クラスに関する資料 を参照しながら、この講座が教育システムの中でどのように機能していたのかをみること にする。8-2. オーギュスト・バルブロー
1871
年9
月12
月に教授に任命されたバルブローは、既に72
歳の老練な音楽家だった。マルモンテルによれば、バルブローは
1824
年のヴィーン滞在時にベートーヴェンに会った ことがあるという、フランスにおける数少ない歴史の証人でもあった437。19 世紀初期に彼 がパリ音楽院で収めた成績は輝かしいものである。ヴァイオリン科で1
等賞(1813)、対位 法・フーガのクラスで1
等賞(1819)、カンタータ《アニェス・ソレル(Agnès Sorel)》でロ ーマ大賞(1824)。卒業後は、1821 ~1826年、1829 ~1830年の2
度に亘り、オペラ座の指揮 者として活動した。以後、国民衛兵第7
連隊の楽長、テアトル・フランセおよびヌヴォテ 座のオーケストラ指揮者、サント=セシル協会指揮者(1854)を歴任した438。理論家として も筆を執り、3部からなる『作曲理論・実践教程』(1844)、純粋に理論的・数学的な思索に 基づく『音楽システムの根源に関する研究』439(1852)を出版した。彼に認められた年俸は
2 500
フラン440で、マッセ、ルベール、バザンら作曲家3
教授と並435 Cf. 本論文III-1-2.
436 当時フランスにおいて美学という用語が十分に受容されていなかったことが原因であろう。Cf. 本論文 III-2-2.
437 SV, p. 149.
438 CP, p. 691.
439 Auguste BARBEREAU, Études sur l’origine du système musical, Paris, Bachelier, 1852. この著作はフェティ スとの論争を引き起こした。この論争は、次に示す雑誌上で刊行された公開書簡で展開された。Cf.
François-Joseph FÉTIS, « Théorie de la musique. Études sur l’origine du système musical », RGM, 20e année, n° 4, le 23 janv. 1853, p. 25-28 ; no 7, 13 fév. 1853, p. 49-52. この記事を契機として、バルブロー本人ではなくその門 弟デュリュットFrançois-Antoine-Camille DURUTTE(1803~1881)がこの著作を巡って論争を繰り広げる。
Cf. François-Antoine-Camille DURUTTE, « Théorie de la musique. Études sur l’origine du système musical », RGM, 20e année, n° 8, le 20 fév. 1853, p. 57-60 ; n° 9, le 27 fév. 1853, p. 73-75 ; n° 11, le 13 mars, p. 88-91.
440 CP, p. 429.