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生徒に関して、48年草稿第

5

章「生徒、その入学、権利、義務」には、在籍可能な生徒 の年齢、一年を通した試験の流れ、年金受給生の人数見直し、外国人生徒受け入れについ ての一般見解が示されている。本章では、ここに示された条文案、条文案注解、1851 年の 総則条文に基づいて、生徒に関する統計データやパリ音楽院の公的一次資料を参照しなが ら、入試、定期試験、修了選抜試験(コンクール)の時期、受験者数の動向、試験の教育 的意義、審査の過程を明らかにする。

4-1. 入試

まず、生徒の在籍可能年齢は

1841

年の旧総則をほぼそのまま引き継ぎ、10歳以上

21

歳 以下と定められた。この年齢制限を超える場合には、

2

年以内に課程を終えられるか、例外 的な素質を有すると判断された場合にのみ在籍を許された。また

48

年草案では、

1841

年の 総則に従い、12歳以下の生徒には識字能力が求められたが、1850年の総則でこの定めは外 されている179。この文言の変更は、おそらく非識字の生徒の入学を認めるということでは ない。1796年の総則以来、改定されるごとに非識字の生徒の入学を認めない旨が

4

回も明 記されてきたため180、規定が習慣化され明文化が避けられたと考えられる。というのも、

音楽院において作曲理論、演奏メソッドの理解や文学的な台本の理解が生徒に要求された からである。

48

年草案は、各クラス最大で

8

名の正規生の他に、2 名の聴講生の受け入れを認めてい る 181。この内容は、

50

年の新総則第

24

項にそのまま反映された182。受験生たちは、除籍、

退学等の理由でこのクラス人数枠に生じる空席をめぐり入試で競い合った。48 年草案は、

年度内に

2

度の入学試験(10月と翌年

4

月)が行われ、1回の試験で審査できる人数を全 体で

25

名に限る旨を定めている183。但し、

50

年総則には、声楽に関して年に

3

回の入試が 行われることが付け加えられた。

入試月とされる

10

月と

4

月は、実際には入試の開始時期を意味する。ピアノ科の入試は

1~4

月と

12

月(1853~1870年)に行われている184。これらの試験は、クラスに空きがなけ れば行われなかった。実際、

1855、 1860、 1863、 1865

年には一度も試験が行われていない185。 また、受験者数の制限に関して、25 名という数字には委員会による注解がついている。

条文注解によると、その理由は、「あまりに多くの生徒の演奏を聴く事で、出願者の適正を 評価できるという保証が不十分」になり、「疲労と混乱によって有害なミスが生じかねない」

からであった186

179 1841年総則第27項では、「12歳以下」という限定は設けられていなかった。Cf. CP, p. 252.

180 1796年総則第9章第4項、1800年の総則第2章第2項、1808年の総則第3章第13項、1822年の総則

4章第1項、1841年の総則第27項に、それぞれ生徒の識字についての定めがある。

181 CP, p. 357.

182 Ibid., p. 256.

183 Cf. 48年草案, CP, p. 359. 入試は1871年以降、年に1度となった。

184 1853年以降の入試日程は音楽教育委員会の議事録(AN, AJ 37/194, 195, 206)から大部分を再構築でき

るが、記録されなかった入学試験もある。1871年以降、入試は10月後半~11月初旬に1度だけ行われた。

185 このことは、これらの年の年度、翌年度のクラス名簿から分かる。クラス名簿には各生徒の音楽院入学 年月日と各クラスへの登録年月日が記されているが、これらの年に入学した生徒は名簿の中に存在しない。

音楽教育委員会の議事録も存在しないので、少なくともこれらの年には入試は行われなかった。

186 « L’audition d’un trop grand nombre d’élèves, comme il s’en est souvent présenté, n’offre pas toutes les garanties désirables pour apprécier les aptitudes des aspirants. La lassitude et la confusion pourraient amener des erreurs préjudiciables […] » CP, p. 359.

48

年草案条文のうち、入試について

50

年総則から除外されたのは

1

回の審査可能人数を

25

名に限定するという定めであった。実際、50年新総則改定後最初に行われた

11

25

日 の入試では、寄宿の年金受給生(pensionnaires)と通学生(externats)の試験に

33

名が参加 している。このうち審査員の投票で

7

票以上を得た

3

名が寄宿生、1票、3票を得た

2

名が 通学生として入学を許可されている187。同年

12

24

日に行われたピアノ科の入試では、

更に多くの受験生を数える188。男子クラスだけをみると、その数は決して多くはない。14 名の受験生が演奏し

6

名が合格した。しかし、女子の受験者数はそれをはるかに凌ぐ

64

名 で、

13

名が合格している。しかも、これら

64

名の演奏は

1

回の試験枠の中で行われている。

1

回の試験で審査可能な生徒数の制限を総則から外さざるを得なかったのは、審査団が

25

名ずつを断続的に審査する場合、毎回の審査員の予定調整など現実的な困難があったから であろう。音楽院諸科の中でも特に受験者が多かったのは、寄宿制度のある声楽科とクラ ス数の多いピアノ科だった。次のグラフは、コンスタン・ピエールが作成した年度別受験 者数一覧表189に基づいて筆者が作成したグラフである。ここでは、音楽院の学科が次の

4

つのカテゴリーに分類・比較されている。①声楽寄宿生+声楽科男女、②ピアノ関連諸科 男女(専科、予科または鍵盤楽器学習クラス)、③ヴァイオリン科とチェロ科の合計、④劇 朗唱科男女。ピエール作成の表における数値は、1869 年以前に関しては各年度の受験者数 の総計ではなく、もっとも多くの受験者が参加した入試一回分の参加者数、または年度内 に行われた複数の入試参加者数の平均値に基づいている。

グラフI-4-1. 声楽、ピアノ、ヴァイオリン・チェロ、

朗唱各科の受験者数の推移(1842~1889)190

187 AN, AJ 37/194, p. 49-53.

188 Ibid., p. 63-66.

189 Cf. CP, p. 974

190 ピアノ諸科の入試は1871年以降、年に1回のみとなった。このグラフが依拠する各西暦は、年度の開 始年を示す。例えば、18421842-1843年度に行われた入試を指す。空白の年はデータなし。Cf. Ibid.

0 100 200 300 400 500 600 700 800 900 1000

1842 1844 1846 1848 1850 1852 1854 1856 1858 1860 1862 1864 1866 1868 1870 1872 1874 1876 1878 1880 1882 1884 1886 1888

① 寄宿生+声楽科男女

② ピアノ関連諸科男女

③ ヴァイオリン・ チェロ

④ 劇朗唱科男女 合計

グラフ線②の推移から、

1850

年前後、ピアノ科・鍵盤楽器科(1878年からはピアノ予科)

諸クラスは

1

回の入試に

100

名前後の受験者が参加していたことが分かる。第二帝政期、

ピアノ科がいかに人気を博していたかが分かる。

ピアノ科の受験者数の多さは、常に女子の受験者数に由来している。次のグラフは、上 のグラフと同じデータに基づいてピアノ関連諸科の受験者数の推移を男女別に比較してい る。

グラフI-4-2. 男女別にみたピアノ科、鍵盤楽器学習科の受験者数の推移(1842~1889)

ピアノ専科と鍵盤楽器学習クラスは、いずれも

1848-1849

年度以降、男子

2

クラスに対し 女子

3~4

191クラスであったため、女子クラスの受験者が多くなるのは当然ではあるが、男女 のクラス数の比率にも拘らず、ほとんどの年において女子受験者は男子受験者の

2

倍以上 となっている。フロベール Gustave FLAUBERT(1821~1880)が『紋切り型辞典』でピアノ を「サロンの必需品(Indispensable dans un salon)」と手際よく形容したように192、世紀中葉、

ピアノはブルジョワの家庭における子女教育に必須の楽器となっていた。音楽院における 女子受験者数の多さが、こうしたステレオタイプな中流階級のイメージの定着と呼応して いることは明らかである。

ところで、

48

年草案は

1841

年の総則とは異なり、一連の入試を、入学許可を認める最終 段階とは見做さなかった。条文案によれば、最終的な入学許可を得るためには入試後、最 初の定期試験でよい成績を収めなくてはならなかった193。すなわち、10 月の入試で仮入学 許可が下りた生徒は

12

月の定期試験、4月の入試を受験した生徒は

6

月の定期試験で、最 終的な入学の可否が決定されることとなった。48 年草案注解は、入学後、仮入学の生徒に 与えられる

2

ヶ月間の意義を次のように説明している。

この間に、教授は生徒の能力を試し、ざっと聴いた[入学]試験を検証する時間を とる。というのも、それだけでは予期せぬ事態が生じたり、より相応しい志願者を

191 1854年から1866年までは女子は専科だけで4クラスあった。

192 Gustave FLAUBERT, Le dictionnaire des idées reçues, Paris, L. Conard, 1913, p. 87.

193 « Après leur première audition, les élèves ne sont d’abord admis que provisoirement. Leur admission définitive n’est prononcée qu’après l’examen semestriel qui suit celui de leur admission provisoire. » CP, p. 359.

27 26

27 33

47 46 51

59 49

77 87 102

176 175

215 223 224 238

104 113 129

209 222 261

274 283 287

0 50 100 150 200 250 300

男子 女子 合計

犠牲にしてクラスを無能な生徒で満たしてしまったりする不都合が生じかねない からである。生徒にいっそう厳しい入学条件を課すこの措置がもたらす公正な結果 として、二度の試験後、[生徒たちには]一定期間、クラスに留まることが保証さ れるということである194

この条文注解は、それまでにここで指摘されたような「不都合」が実際に生じていたこ とを示唆している。ひとたび入学を認められた生徒でも、その生徒の演奏は偶然出来が良 かったのかもしれないし、その生徒は学習意欲がそれほど高くない生徒かもしれない。そ の場合、生徒は長くクラスには在籍できず、賞を得ないまま除籍となる可能性が高くなる。

このような生徒が増えると、ピアノ科の空席は音楽院の威信を高めるのに貢献しない生徒 によって占められてしまい、演奏技術はいま一つでも、向上心があり伸びしろのある生徒 が排除されてしまう。二重試験の導入は、こうした事態を避け、教育効率を上げるための 方策だったと考えられる。この方法に関する草案条文は

51

年総則にそのまま反映された195。 入試に関して、最後に外国人の入学問題について触れておく。1850 年以前のパリ音楽院 における外国人の扱いは一定しておらず、ド・ラ・グランヴィルは、外国人入学志願者に 対する処遇の変化を

1796~1815

年、

1816~1822

年、

1822~1842

年、

1841

年以降の

4

期に分け て説明している196。1850 年以降の外国人生徒の待遇を理解するために、ド・ラ・グランヴ ィルの区分と観察に基づいて

50

年以前の外国人生徒の状況を下の表にまとめる。

I-4-1. 1850年までの外国人受け入れ状況

N.B. 本表はFG, p. 161-169の記述に基づく。

1796~1815 国籍上の外国人を同定することは困難。生徒名簿、受賞者名簿には、外国人風の響

きをもつ名前は16名含まれる。

1816~1822 名簿に県外または外国からの聴講生という席が設けられている。外国人は聴講生の

枠で音楽院に受け入れられていた。

1822~1842 外国人の受け入れを禁止。182265日の総則では外国人生徒を想定しているが、

613日に院長ケルビーニは大臣に外国人受け入れ禁止を申し入れ決定が下され た。1815年の王政復古以降フランスに広がった排他的傾向の表れ。

F. リスト:18231211日にパリに到着、時宜を得ず入学不可。

C. フランク:1835年パリに到着。1836104日、ケルビーニは入学拒否。父 のフランス帰化の目処が立った段階で入学許可を得る。

1841年以降 1841119日発行の総則第38項:「外国人生徒は音楽院の特別な許可を得れば 入学が認められる。彼らはフランス人の生徒と同等の利益を享受し、同等の義務の 下に置かれる。彼らは音楽院の賞を獲得するためにコンクールに出場することが認 められる197。」

18431221日:4名の外国人に入学許可 184417日: 7名の外国人に入学許可

194 « Pendant cet intervalle, le professeur a le temps d’essayer les forces des élèves et de faire la contre-épreuve d’une audition rapide, qui peut donner lieu à des surprises et qui a l’inconvénient de peupler les classes d’élèves incapables au détriment d’aspirants plus dignes. La conséquence équitable de cette mesure, qui impose aux élèves des conditions plus sévères d’admission, est de leur garantir, après cette double épreuve, une certaine durée de séjour dans les classes. » Ibid.

195 50年総則第60項。CP, p. 258.

196 FG, p. 161-169.

197 « Les Élèves étrangers peuvent être reçus au Conservatoire avec notre autorisation spéciale. Ils jouissent des mêmes avantages et sont soumis aux mêmes devoirs que les Élèves nationaux; ils peuvent être admis à concourir pour les prix du Conservatoire. » CP, p. 252.