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1840

年代末のフランスは、1845~1846年の不作に端を発する経済危機と

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歳以上の高額 納税者のみに与えられていた選挙権の拡大要求をめぐり国民の政治不信が高まり、1830 年 以来続いてきたルイ=フィリップの七月王政は末期に差し掛かっていた。

1847

年になると、

改革思想は政治的集会を禁ずる法の目を掻い潜り宴会の名の下に行われた、いわゆる改革宴 会(banquets réformistes)の全国的な拡大を通して高揚した。2 月、革命的様相を帯びる反 政府派の運動を警戒した首相ギゾー François GUIZOT(1787~1874)が宴会の解散を命じた のに対し憤慨した民衆は、蜂起を起こした。その結果、ルイ=フィリップはイギリスに亡命、

共和派による臨時政府が樹立された。このフランス

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月革命後しばらくの間は、労働者とブ ルジョワの間に深まる対立から、6月に暴動が起こるなど未だ政治の安定は望めなかった。

しかしその一方で、王政の終焉を告げる

1848

年の

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月革命は、同時にパリ音楽院の安定 と繁栄を約束する新時代の夜明けでもあった。実際、この事件はパリ音楽院の教授たちの目 に音楽院の制度刷新を敢行するまたとない機会と映った。そもそもパリ音楽院創立は共和暦

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年テルミドール月

16

日(1795年

8

3

日)に遡る。音楽院が誕生したのは第一共和制下 の国民公会においてであった。第二共和制の始まった

1848

年には、もう創設時の教授は

1

人も残っていなかったが、30 年以上続いた王政の後に到来した共和政権は、音楽院がその 起源において共和的理想の下に築かれたことを思い出さずにはいなかった。内務大臣が音楽 院に「改善(amériolations)」を申し入れた

1848

年は音楽院の、つまりはピアノ科の体制に 変化をもたらした

1

つの画期と見做すことができる。但し刷新とは言っても、それは過去と の断絶をもたらすような抜本的な革命ではなかった。1848 年の刷新は「再建のために破壊 することではなく、建造物を修復し大きくする」34という、発展的なビジョンの中で比較的 穏やかに行われた。

1848

年に起草され

1850

年に発布された音楽院の総則(règlement général)

は、この理念を反映するものだった。

続く第二帝政期にはナポレオン

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世の片腕オスマン Georges HAUSSMANN(1809~1891)

による首都大改造により、パリは機能的かつ美的な現代都市へと変貌し、大きな経済的発展 を遂げた。社会的環境の変化とともに、音楽院は少しずつ既存の枠組みを拡大し、教育制度 に個々の変更を加えていった。しかし、音楽院の教育システムの変遷は政体の変化に比べれ ば比較的緩やかに進んだといえる。実際、

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年総則は

1878

年まで

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年間も維持されたし、

1878

年の総則は

1892

年まで大きな変更を被らなかった。

1

部を始めるにあたり、本章では音楽院の体制にもたらされた諸々の変化を明らかにす べく、この画期に大臣の要請を受けて設置された再編成のための委員会がどのように組織さ れ、音楽院の存続と刷新が図られ、また再組織化が試みられたのかを、委員会の報告に基づ いて検討する。

1-1. 音楽院総則草案作成委員会の設置

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月の政変から間もなく、音楽院は機関の存続を確保するため、臨時政府に対し音楽院の 政府組織への参入と公的業務に関する協力を申し入れた35。この時、内務大臣ルドリュ=ロ ラン Alexandre LEDRU-ROLLIN(1807~1874)はオベール Daniel-François-Esprit AUBER

34 « L’œuvre […] que nous avons entreprise, n’était pas de détruire pour réédifier, mais de réparer, d’agrandir l’édifice. » CP, p. 366.

35 François AUBER et al., « Rapport au ministre de l’Intérieur, par la Commission du Conservatoire national de musique et de déclamation, sur les modifications à introduire dans le régime de cet établissement », daté du 18 juill.

1848, CP, p. 353. これ以下に記述する1848年の音楽院再編の流れはこの報告書に基づく。

(1782~1871)を長とする音楽院に対して教育組織改善の検討と報告書の作成を求めた。こ の要求は、音楽院幹部や教授たちの希望に適うものだった。というのも、彼らの側でもまた、

1841

11

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日に制定されて以来保持してきた音楽院総則の変更と改善を求めることを望 んでいたからである36。後述するように、その主眼は教授の年俸および退職年金の合理的な 体系を確立することにあった。かくして、音楽院では直ちに役員と教授による総会が開かれ、

その内部に新組織検討の中枢を担う委員会(Commission)が設置されることとなった。委 員長には院長オベールが歓呼によって選出された。このように、まず、総則草案がオベール の主導により行われ、彼の最終的な意思決定の下で作成されるという前提が築かれた。委員 は投票によって選出された。その結果、委員は各専攻を代表する

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名の教授と教育委員会 および管理部(administration)の

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名で構成された。構成員の詳細を次に示す。

I-1-1. 音楽院総則草案委員会のメンバー(1848)

N.B. 48年草案に基づき作成。Cf. CP, p. 353 役職名 氏名(生没年)

院長 オベール

作曲科教授 アレヴィ 和声科教授 ル・クーペ 声楽科教授 パンスロン オペラ朗唱科教授 ルヴァッスール

オルガン科教授 ブノワ ヴァイオリン科教授 ジラール

ホルン科教授 マイフレード ピアノ科教授 A.-F. マルモンテル 実践和声・伴奏科教授 バザン

朗唱科教授 サンソン 劇学習科教授

(劇学習委員会委員) プロヴォー 教育委員会委員 ペロー

会計監査官 F.-H. レティ

選出結果の報告を受けた大臣は、

3

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日の決定でこの委員会を認可し発足を許可した。

それから

1

ヶ月間、委員は平常の職務に従事しながら会議を重ね、各々が所属する科の教 員たちと協議したり、教育の特殊的、全般的な問題に関して個人的見解を委員会に伝えたり しながら、新しい総則の草案作成に務めた。最後の事案を協議し終えると、委員会は作成し た草案を総会で提示し、総会は満場一致でこれを承認した。民主的な手続きを経て決定され たこの総則草案は、7 月

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日に作成された最終報告書に添付され、内務大臣セナール

Antoine SÉNARD(1800~1885)に提出された。

この報告書は、草案提出に至る過程を記した序文と総則草案からなる。序文には、1815 年以来続いた王政からパリ音楽院が創設された第一共和制時代の理念に回帰しつつも、そこ から第二共和制の新しい状況に即した体制を整えようとする姿勢を読み取ることができ る 37。序文の終結部にあたる段落では、音楽院創立期が回想され音楽院の共和的なルーツが

36 報告書の原文は右のような表現になっている。« L’appel spontané par lequel ce Ministre a provoqué l’expression de leurs vœux pour les améliorations que comporte le régime de cet établissement les a vivement sollicités »「音楽院の体制を改善したいという音楽院職員の願望表明を喚起した大臣の自発的な訴えは、彼 らの心を動かした。」Ibid.

37 パリ音楽院の創設を宣言する法令は179583日(革命暦3年テルミドール月16日)に遡る。国民

想起されている。

革命暦 3 年テルミドール月 16日に国民公会が発布した組織令によって、革命暦 2 年ブリュメール月 18 日の政令が内包していた萌芽を展開させ、国立音楽院が設立 されたが、この政令は音楽院が自らの誇りとする一つの資格なのである38

「革命暦

2

年ブリュメール月

18

日の政令」とは、王立歌唱学校とともにパリ音楽院の母体 の一つであった国民音楽学校の創設を承認した

1793

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8

日発布の政令である39。次いで

1795

8

3

日(革命暦

3

年テルミドール月

16

日)、パリ音楽院設置を定める法令(loi)と 同時に、この法令を施行する目的で、王立歌唱学校および国民音楽学校から音楽院へ移行す る方針を定めた政令が発布された40。その第

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項は、音楽院の教育を共和国の祭典および軍楽 に従事する音楽家を養成する機関と位置づけている41。つまり、パリ音楽院には国民衛兵軍楽 隊員と祭典用音楽作品の供給源であった国民音楽学校の機能を継承した経緯があった。

共和的理念に基づく音楽院の社会的役割は、48 年草案でも強調されている。次に引用する 草案の一節は、音楽院の理念的使命が音楽を通した国家的感情の表明にあることを認めてい る。

特権という語が言語から放逐された今、音楽院が同様のあらゆる機関の先達として 一心に保存し求めるものは、少なくとも義務と名誉に他ならない。人民の祭典を執 り行う重要な日に、人民の中で様々な身分に出自をもつ若人、一つの芸術

――

国 民公会を前にした共和派詩人42によれば、戦いに勝利し平和の悦楽をもたらす、、、、、、、、、、、、、、、、

芸術

公会で布告された法令の原文は次の文献を参照。CP, p. 124-125.

38 « Le décret organique de la Convention du 16 thermidor an III, qui, développant le germe contenu dans un décret du 18 brumaire an II, instituait le Conservatoire national de musique, est un titre auquel il se rattache avec orgueil. Il n’avait pas attendu les travaux de cette commission pour réclamer, par l’organe de son directeur, un droit qui, dans le principe, fut un des objets de sa fondation, celui de concourir à l’éclat et à la magnificence des fêtes nationales. » CP, p. 354.

39 政令原文は下記を参照。CP, p. 91.

40 Cf. CP, p. 125-126.

41 CP, p. 126. 6項の原文は次の通り。« En considération des services rendus par la musique de la garde nationale dans l’exécution des fêtes publiques et dans la formation des élèves, ses membres recevront, par forme d’indemnité, une somme égale aux appontements qu’ils ont reçus depuis le 18 brumaire an II de la République, époque de décret qui établit l’Institut national de musique. » 「公的祭典の挙行および生徒の教育において国民衛 兵の成す音楽的奉仕を考慮して、音楽院の成員は、共和国2年ブリュメール月18日、つまり国民音楽学校 創立の政令が発布された時代以来彼らが受けてきた年俸と同じ金額を手当てとして受けることとする。

42「 共和 派詩人 poète républicain」 とは 劇作 家で セー ヌ=エ=オ ワ ー ズ県 の代 議士 を務め たシ ェニエ

Marie-Joseph CHÉNIER(1764~1811)のことである。シェニエは、パリ音楽院創設を目前にした17957

28日(革命暦3年テルミドール月10日)、国民公会で行った演説で次のように述べている。「諸君にと って動揺させられたヨーロッパに次のことを証明することは光栄なこととなるだろう。無政府的なテロリ スムと王党派のテロリスムの双方を内包しつつも、世々に至る賢しき共和的憲法を発布する共和国にとっ てはまさに絶え間ない勝利の連続である甚大な戦争の只中にあって、既に勝利を手中に収め、これから平 和の悦楽を成すだろう芸術を、諸君は尚も奨励しうるということを。 « Il sera glorieux pour vous de prouver à l’Europe étonnée qu’au milieu d’une guerre immense, qui n’a été pour la République qu’une suite non interrompue de triomphes, contenant à la fois, dans l’intérieur, le terrorisme anarchique et le terrorisme royal, décrétant pour les siècles une constitution sage et républicaine, vous savez encore donner quelques instants à l’encouragement d’un art qui a gagné des victoires et qui fera les délices de la paix. » Cf. Albert LAVIGNAC, Encyclopédie de la musique et dictionnaire du Conservatoire, deuxième partie, technique, esthétique, pédagogie, vol. 6, Paris, Delagrave, 1925, p. 3 582. 草案序文中の「戦いに勝利し平和の悦楽をもたらす、、、、、、、、、、、、、、、、

芸術」という表現はこの個所から取られてい