( 1850~1871 )
1852
年12
月2
日に決行されたルイ・ナポレオンのクーデターは鮮やかな成功を収め、第 二帝政が樹立された。この影響はパリ音楽院にも及んだが、1850 年に長い議論を経て採用 された総則が発布されたばかりとあって、総則の全体的な見直しは図られなかった。50 年 総則は1878
年まで変更を被らず、第二帝政下においても安定的に運用されたが、必要に応 じて出される個別の政令や布告で対応が図られた。但し、全面的な総則改訂の機運が無かったわけではない。
1853
年2
月14
日の政令261によ り、音楽院の管轄は帝国劇場局及び帝国公文書局はともに内務省から国務省に移管された。翌年
2
月6
日、これに伴い音楽院は早くも運営・教育体制に変更を加えるため、委員会が 召集された。布告によればそのメンバーはオベール(学士院会員、音楽院院長)、スクリー ブ Eugène SCRIBE(1791~1861、アカデミー・フランセーズ会員)、アレヴィ(学士院会員)、ペラン Émile PERRIN(1814~1885、帝国オペラ=コミック座支配人)、サンソン Joseph-Isidor
SAMSON
(1793~1871、パリ音楽院教授)、ドゥーセ Camille DOUCET(国務院劇場局長、1812~1895)という顔ぶれであった
262。しかし、「1854年3
月13
日から10
月9
日まで11
回の会議を重ね、1850 年総則に盛り込むべき様々な重要な変更が議論された」にも拘らず、
大臣の「承認は全く得られ」なかった263。
1854
年から1870
年の間に発布されたパリ音楽院に関する政令・布告およびそれに関する 史料は、コンスタン・ピエールによって整理されているが、その数は少ない。下に、これ らの政令・布告等の見出しを列挙する。a)1854/2/21
和声・実践伴奏科の男子2
クラスに関する布告(CP, p. 280)b)1854/2/21
ピアノ科クラス増設についての布告(CP, p. 308)c)1854/12/21
歴史・文学クラスの創設(CP, p. 309)264d)1855/3/10
寄宿学校に関する規則(CP, p. 301-302)e)1855/10/6
生徒の入学に関する布告(CP, p. 286-287)f)1856/5/25
教授の指名・任命方式に関する総則変更(AJ 37/65/2)265g) 1864/5/4
ローマ賞コンクールの諸条件の変更に関する皇帝への報告書(CP,p. 274)
h)1864/5/4
ローマ賞コンクール組織に関する政令(CP, p. 274-275)261 Recueil général des sénatus-consultes, lois, décrets et arrêtés depuis le 1er décembre 1852 avec des notes et deux tables annuelles par les notaires et jurisconsultes rédacteurs du Journal des notaires XIe série, t. 1, Paris, Administration du Journal des notaires et des avocats, 1853, p. 87.
262 Arrêté nommant les membres de la Commission ; 6 fév. 1854. Cf. CP, p. 369-370. 3月15日にオペラ座支配人ロ クプラン Nestor ROQUEPLAN (1805~1870)が委員に加わっている。Arrêté nommant M. Nestor ROQUEPLAN de la Commission du Conservatoire, Cf. CP, p. 370.
263 « Du 13 mars au 9 octobre 1854, la Commission tint onze séances dans lesquelles on discuta diverses modifications importantes à apporter au règlement de 1850, qui ne reçurent point de sanction. » CP, p. 370.
264 1854 年に開設されたこの科目は、歴史・文学クラスは48 年に創設が企てられた美学(音楽哲学)・音
楽史クラスとは異なり、「芸術および劇の観点から(au point de vue de l’art et du théâtre)」講じられる講義で あった。つまり、劇朗唱科やオペラを学ぶ生徒が古典劇の伝統と教養を身につけるために設置された教養 科目で、劇朗唱科教授サンソン Joseph-Isidore SAMSON(1793~1871)が担当した。
265 この布告はCPには掲載されていない。
このうち、ピアノ科に直接関係するのは
a)
、b)、f)である。これら3
つのうち、最初の2
つの政令・布告は、次節で見るように、和声・実践伴奏科からル・クーペがピアノ科に転 任したことに起因している。3
つ目の布告は中でもとりわけ重要である。国務大臣フールトAchille FOULD(1800~1867)の名の下に発布されたこの布告は、音楽院がもつ教授指名の
権限を制限するもので、1850年総則第35・36
項を廃止し、新しい項目を設けるものであっ た。既にみたように、第35
項では教授の任命は音楽学習委員会ないし劇学習委員会が作成 する候補者リストおよび院長の作成する候補者リストの2
つに基づいて内務大臣が任命す る方式が定められていた。また第36
項では、教授資格者は院長によって指名され大臣によ って任命されるものとされていた。1856年の布告は、これら2
項を廃止し、次の文言に置 き換えた。「正教授と教授資格者は、音楽院院長の提示に基づき国務大臣によって任命され る」266。これによって事実上、音楽教育委員会から指名権が取り上げられ、院長のみにこ れが与えられた。更に、音楽院の教員の任命権はもはや内務大臣ではなく国務大臣の手中 に収められた。こうして、パリ音楽院は帝国の直接的な影響力の下に置かれることとなり、48
年草案に由来する音楽院の自発的で民主的な教授選出方式は廃止された。その他の布告に関して、e)は主として声楽、オペラ朗唱、劇朗唱各科の生徒が入学後に 踏むべき事務手続きを定めるものであり、ピアノ科の教育内容には無関係であるので、こ こでは
1854
年2
月の2
つの布告、および教授選出方式の変更を定めた1856
年の布告に関 連する個別事項のみ扱うこととする。5-1. F. ル・クーペの教授着任をめぐるピアノ科女子クラスの増設の経緯(1854)
a)
、b)の布告はピアノ科に関連するもので、これらにより、50年総則第24
項「[ピアノ 科には]5
クラスあり、そのうち2
つが正教授の担任する男子クラス、3
つが女子クラスで、うち
2
クラスを正教授が、1クラスを教授資格者が担任する267」という内容を改め、次のよ うに再規定した。「[ピアノ科には]6クラスあり、そのうち2
つが正教授の担任する男子ク ラス、4
つが女子クラスで、うち3
クラスを正教授が、1
クラスを教授資格者が担任する268」。 このように女子クラスだけが1
クラス増設された背景には次のような経緯があった。ピアノ科の増設の発案は院長オベールによるものでも、音楽教育委員会によるものでも ない。それは、1845 年からアメリカ旅行で音楽院を留守にしていたアンリ・エルツの代講 を、
1848
年10
月から1851
年10
月まで引き受けていた、ル・クーペの個人的要望に端を発 している269。要望書は音楽教育委員会に差し向けられたもので、1851 年に遡る。彼の要望 の内容は次の通りである。3
年間エルツの代理を務めた後、彼が正教授の資格で担当してい た和声・実践伴奏科のクラスを女子ピアノ科の1
クラスに変更し、ピアノ科に編入するこ とは可能か。これを受けて、オベールは1851
年10
月18
日に教育委員会でこの問題を審議 した。議事録は、委員会の見解を次のように記録している。266 « Les professeurs titulaires et agrégés sont nommés par le Ministre d’Etat, sur la présentation du Directeur du Conservatoire. » Arrêté concernant la modification du règlement, émis le 27 mai 1856 par Achille FOULD, au ministre d’État, AN, AJ 37/65/2.
267 « Il y a cinq classes de piano, dont deux pour les hommes, tenues par des Professeurs titulaires, et trois pour les femmes, tenues par deux Professeurs titulaires et un agrégé. » CP, p. 256.
268 « Il y a six classes de piano, dont deux pour les hommes, tenues par des professeurs titulaires et quatre pour les femmes, tenues par trois professeurs titulaires et un agrégé. » CP, p. 308
269 ル・クーペはそれ以前、1843年6月から和声・実践伴奏科の教授を務めていた。
ル・クーペ氏の要望
委員会は、次いで和声教授ル・クーペ氏が正教授を務めているクラスを、女子生 徒のピアノ・クラスに変更するために成された要望の検討に取りかかる。委員長は、
ル・クーペ氏の手紙を読み上げたのち、提案された措置の利点と問題点を委員会に 諮る。現在ピアノ学習を専門とするクラスは5つあり、内2つが男子クラス、3つ が女子クラスだが、委員会は、女子クラスについて新しい1クラスを創設すること が、なお有益であり望ましいとの認識を示した。その上、委員会はフェリックス・
ル・クーペ氏が、あらゆる観点からこのクラスの職務遂行を委ねられるだけの資格 があると判断した。実際、彼は3年来、エルツ氏の代講を務め、彼の受けもったク ラスは失墜するどころかレベルを保持しており、例年のコンクールで 14 名の受賞 候補者の指名、内5名が1等賞を勝ち取ったことは、そのことを証明している。[ル・
クーペがピアノ科に異動した後の]和声・実践伴奏教授の職務において、[ 他 の 教授が]ル・クーペ氏に代わ[ってこのポストに就任す]る必要はないだろう。第 2の教授であるバザン氏が2クラスの教育を担当すれば十分である。これらの理由 で、委員会は大臣殿にフェリックス・ル・クーペ氏の要望を好意的に受け入れ、彼 が力量のほどを示した教育を継続し、彼が離れたくない思っているもう一つの現実 的に必要なクラスへと転向することを認めて頂くよう依頼することとした270。
ル・クーペのピアノ教育に関する実績は、首尾よくエルツの代講を務めた点にあった。
その間に彼が
5
名の1
等賞を輩出するという優れた指導実績が特筆されている。1848年に ピアノ科教授に任命されたマルモンテルもまた、任命前はエルツの代講を務めた経験があ った。この前例から分かるように、専科クラスを受け持つ経験は、ピアノ科教授資格を得 るために有利に働く経歴であった。ル・クーペがピアノ科でエルツの代講をしている間、ル・クーペのクラスはもう一人の和声・実践伴奏科教授バザンが第
2
クラスとして担当し ていた。委員会は、ル・クーペが和声・実践伴奏科教授から抜けた場合、彼の担当してい たクラスはF.
バザン一人に任せてしまい、ル・クーペをピアノ科正教授に据える姿勢を示 した。オベールは会議の
4
日後、早速内務大臣フォシェ Léon FAUCHER(1803~1854)宛てに手 紙をしたためた。そこには、単にル・クーペの教育業績以外に、ピアノ科を増設すること の差し迫った必要性が強調されている。270 « Demande de M. Le Couppey
Le Comité s’occupe ensuite de la demande de M. Le Couppey, professeur d’harmonie, rendue à obtenir la transformation de la classe dont il est titulaire, en une classe de piano pour les élèves femmes. M. le président, après avoir donné lecture de la lettre de M. Le Couppey, consulte le comité sur les avantages et les inconvénients de la mesure proposée. Le comité a reconnu que, bien qu’il existe aujourd’hui cinq classes consacrées à l’étude du piano, 2 pour les élèves hommes et 3 pour les élèves femmes, la création d’une classe nouvelle pour ces dernières serait néanmoins une chose utile et désirable. Il lui a paru, en outre, que M. Félix Le Couppey, méritait, à tous égard, s’être appelé à la remplir. En effet, depuis 3 années, il a suppléé M. Henri Herz et, loin de déchoir, la classe tenue par lui a conservé son rang, comme l’attestent les 14 nominations, parmi lesquels figurent 5 1ers prix, remportés dans les concours annuels. M. Le Couppey ne serait pas remplacé dans ses fonctions de professeur d’harmonie et d’accompagnement pratique, M. Bazin, second professeur, suffisant à l’enseignement des deux classes. Par ces motifs, le comité se décide à prier M. le ministre d’accueillir favorablement la demande de M. Félix Le Couppey, en lui promettant de continuer un enseignement dans lequel il a fait ses preuves et en convertissant une classe réellement nécessaire une autre classe dont il est pénible de séparer. » Comité d’enseignement des études musicales ou comité des études musicales : procès-verbaux originaux des séances, 646e séance, le 18 oct. 1851, AN, AJ 37/194, p. 106-107.