コンスタン・ピエールは、
70
年草案作成委員会が政治的な諸事件により31
回目で中断さ れたと書いている353。総則改訂委員会の継続が打ち切られた1870
年8
月4
日は、普仏国境 まで進軍していたフランス軍の部隊がヴィセンブルクで大敗を喫した日付に一致する。70 年草案作成委員会は、情勢の悪化により活動の中止を余儀なくされ、再び招集されること はなかった。フランス近代史上の重要な画期である1870
年と1871
年は、パリ音楽院にと っても一つの節目となった。院長オベールは1871
年に没し、サルヴァドール=ダニエルFrancisco SALVADOR-DANIEL
(1831-1871)のごく短期的な院長期を経て、アンブロワーズ・トマが院長に就任した。動乱の中で、パリ音楽院の運営はどのように行われ、その下で教 授たちはどのように行動したのだろうか。第
1
部前半の最後に、本章では、その過程をピ アノ科に注目しながら辿り、ピアノ科にとってこれらの政治的事件がもった意義について 考察する。6-1. 包囲下のパリ音楽院
普仏戦争の遠因は、スペイン・ブルボン朝を打倒した
1868
年の9
月革命にある。軍事ク ーデターに続く市民蜂起でイサベル2
世(在位:1833~1868)354は、スペイン貴族出身の王 妃ウージェニーがいるパリに亡命した。一方、スペインの臨時政府はビスマルクOtto von
BISMARCK
(1815~1898)の先々代にプロイセン王国宰相を務めたホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯カール・アントン
Karl Anton
(1811~1885)の息子レオポルト王子 Leopold vonHOHENZOLLERN-SIGMARINGEN
(1835~1905)の擁立を目論んだ。フランス世論はこの動きを、プロイセンがスペインにおける勢力拡大を企んでいるものと見做し警戒した。皇后 ウージェニーEugénie DE MONTIJO(1826~1920)も世論に強く同調したので、皇帝は結局、
在ベルリン・フランス大使を通して王子の即位を断念するよう申し入れた。それだけでは 気が済まないウージェニーは、これに重ねて以後レオポルト王子がスペイン王座に関心を もたないとの確約を取り付けるよう大使に要請した。ヴィルヘルム
1
世は「問題は解決済 み」として再度の面会を拒否した。ビスマルクは、この「解決済み」を省いて面会拒否の 電報のみをメディアに流すことで、フランス世論の感情を刺激し、フランスがプロイセン と一戦交えるというかねての謀略を実現する舞台を演出した355。兵力においても士気においてもプロイセン軍に劣るフランス軍は、
8
月4
日の敗戦に続い て、アルザス、ロレーヌ地方でも敗北を喫し、パリには戒厳令が敷かれた。一連の戦いを 経てセダンの要塞に立てこもっていた皇帝は、戦局をみて勝機なしと判断し、9
月2
日投降 し自ら捕虜となった。それから2
日後、パリで国防のために組織された臨時政府は共和国 を宣言し、ナポレオン3
世は失脚した。パリは9
月19
日から翌年1
月26
日までプロイセ ン軍に包囲され砲撃を受けた。1
月28
日にヴィルヘルム1
世は国防政府と休戦協定を結び、普仏戦争は終結した。ここから和平交渉に向けて、
2
月8
日に国民議会選挙が行われた結果、353 CP, p. 370,
354 イサベル 2 世はいつもフランスのピアニストたちを歓迎していた。例えばマルモンテルと同門のアン リ・ラヴィーナは《創作主題による変奏曲(Thème original varié)》作品23(1849)を、マルモンテルの初 期の生徒ジュール・コーエンは《サロン用大マズルカ(Grande Mazurka de salon)》作品 9をイサベル2世 に献呈している。マルモンテルの門弟コロメール Blas María COLOMER (1833~1917)は1860年にピアノ 科で 1 等賞を取った後にスペインに出かけ御前の機会を与えられ「高価な贈り物」を贈られている。Cf.
Anonyme, « Nouvelles », RGM, 28e année, n 6, le 10 fév. 1861, p. 46.
355 鹿島茂、『怪帝ナポレオン三世』 東京:講談社学術文庫、2010年、548~552頁。
王党派が多数を占めた。ボルドーで召集された国民議会では、18 日にティエール内閣が成 立、アルザス・ロレーヌの割譲と
50
億フランの賠償金を支払うことで、プロイセンとの講 和が結ばれた。この不名誉な時代のフランスにあって、パリ音楽院はいかなる対応を迫られたのだろう か。本項ではまず、包囲下のパリ音楽院の状況を、当時の教員、生徒たちの状態を記録し た一次資料に基づいて整理する。
包囲下のパリで、芸術活動は停滞した。マルモンテルのクラスで
1857
年に第2
次席を取 り、1861年にローマ大賞を受賞したデュボワ Théodore DUBOIS(1837~1924、1896年にパ リ音楽院院長に就任)は、回想録の中で35
歳の時に経験した普仏戦争の記憶を記している。「音楽が問題にされることはほとんどないだろう、人々は音楽を奏でなかったし、1871 年 の冬まではそうだった。芸術活動はいわばゼロだった」356。音楽院教授たちがその作品を 称賛したシュテファン・ヘラー Stephen HELLER(1813~1888)も
9
月3
日にパリを去った357。1870
年の晩夏、バカンスも終盤に差し掛かっていたパリ音楽院も物々しい雰囲気に包まれ ていた。9月19
日、パリ包囲が伝えられると、オベールはこの事態に対応するために緊急 の規則を発布した。10項目からなる規則のうち、「全般的措置(disposition générale)」に相 当する第4
項までは、次のような内容である。第1項:音楽院の運営に関わる職員は、本機関の業務以外のいかなる業務にも用い られてはならない。各職員は常時、自身の持ち場に留まり、院長の裁量に従えるよ うにしていなければならない。
第2項:本機関に居住する公務員ないし従業員は運営にかかわりのない人間を夜間、
ないし長期間にわたって自宅に入れてはならない。
第3項:屋根裏にある物は、地下室に移動しなければならない。上部の階にはいか なる可燃物も残らないようにすること。
第4項:水桶と手持ち用スポンジと湿らせた毛布を詰めたバケツを建物の至るとこ ろ、とくに上部の階に配備すること358。
356 « Il ne sera guère question de musique, pour la bonne raison qu’on n’en faisait pas et que jusqu’à l’hiver 1871, la vie artistique a été pour ainsi dire nulle. » Théodore DUBOIS, Souvenirs de ma vie, présentés et annotés par Christine
COLLETTE-KLÉO, Lyon, Symétrie, 2009, p. 89. デュボワはパリ包囲の時、パリにいた。包囲が終わるとすぐ
に家畜車を調達してパリから西に6キロ離れたロネの実家で数日様子をみてパリに戻り、そこでコミュー ンを経験した。
357 Stephen HELLER, Lettres d’un musicien romantique à Paris, textes réunis, présentés et annotés par Jean-Jacques EIGELDINGER, Paris, Flammarion, 1981, p. 233.
358 « Art. 1er Les personnes attachées à l’administration du Conservatoire ne peuvent être employées à aucun autre service qu’à celui de l’établissement. Chacune d’elles doit rester constamment à son poste et à la disposition du Directeur.
Art. 2 Aucun fonctionnaire ou employé logé dans l’établissement ne pourra recevoir chez lui, pendant la nui ou à demeure, une personne étrangère à l’administration.
Art. 3 Les objets qui se trouvent sous les combles doivent être transportés dans les caves. Aucune matière combustible ne restra à l’étage supérieur des bâtiments.
Art. 4 Des seaux d’eau et des baquets remplis, des éponges à main et des couvertures mouillées seront placés dans toutes les parties des bâtiments et spécialement aux étages supérieurs. » Daniel-François-Esprit AUBER,
« Conservatoire national de musique et de déclamation, Règlement pour le service Intérieur (pendant la durée de
いつドイツ軍の攻撃を受けるかも知れず、陰謀が交錯し、国民衛兵の集会、デモ、暴動 がはびこる不穏な状況下で、オベールは不審者の立ち入りを禁じ、火災に備えた。職員が 持ち場を離れないようにすることも、指示系統を維持し、音楽院内の秩序を守るために必 要であった。当時、戦況の悪化をみて既にパリから離れる市民も多かった。実際、パリ音 楽院にも首都を後にした教授が少なからずいた。音楽院は、50年総則第
52
項で、教授たち に自宅で音楽院の授業を行うことを禁じていたが359、緊急事態につきこれを許可した360。10
月1
日を迎え新学期が始まると、音楽院はこの時点でパリに不在の教授の一覧361を作 成した(附録I-37)
。在パリの教授は49
名、不在の教授は29
名を数えた。不在者一覧には 名前と役職、その時点での居場所が記された。パリ包囲がバカンス中だったために、交通・郵便網が寸断され、パリに戻ることのできない教授が多かったのはやむを得なかった。そ のような中、ピアノ科を不在にしていた教授はただ一人、マチアスだけであった。一方こ の日、生徒たちの中にはクラスに出席してくる者もいた362。
10
月8
日、公教育大臣総事務官(secrétaire général)のタイヤンディエSaint-René TAILLANDIER(1817~1879)は、音楽院の人員に関する状況を一覧にまとめ大臣に伝える
よう申し入れた。大臣殿は、貴殿に貴機関の人員の正確な状況を知らせるよう要請しております。パ リにいる公務員のうち、大学以外の行政機関で誰が無給ないし有給の役職を受けも っているのか。誰が国民衛兵に加わっているのか、それは将校としてなのか、兵卒 としてなのか。どの砲兵隊ないし歩兵隊なのか。不在者は極めて正確に、裏づけと なる法的根拠と不在理由を示しながら説明をしなければならないでしょう。[音楽 院の人員]リストがもしあるなら、事前の所見を加えて、これを短期間のうちに大 臣殿に転送して頂きますように。このリストは教授だけでなく、肉体労働者に至る まですべての地位にいる職員を含むことになります363。
混乱のなかで、政府は職員の公務離脱がないか厳密に監視しなければならなかった。大 臣の求めに応じて、リストは
1870
年10
月16
日までの状況を示す資料として作成された。その結果、管理部、教授陣のうち
30
名が職務から離れていることが判明した。l’État de siège) », daté le 19 sept. 1879, AN, AJ 37/2-2a.
359 CP, p. 257.
360 このことは、10月1日に作成された在パリの教授一覧およびパリ不在教授一覧に記されている。
361 在パリ教授のリスト:« Professeurs présents à Paris, au 1er 8bre 1870 et autorisés à faire leurs cours », AN, AJ 37/2-2a. パリ不在者リスト : « Membres du Conservatoire absents de Paris, à l’ouverture de l’École. Tous avaient été autorisés à faire provisoirement leurs cours chez eux »
362 右の史料には、ソルフェージュ科と鍵盤楽器学習科の諸クラスにこの日出席した生徒の数が記されてい る « Élèves présents (Solfège) aux classes le 1er octobre 1870/Étude de clavier », AN, AJ 37/2-2a.
363 « Mr le Ministre vous prie de lui faire connaître la situation exacte de votre personnel. Parmi les fonctionnaires qui se trouvent à Paris, en est-il qui aient accepté une place, gratuite ou payée, dans une administration en dehors de l’Université ? Quels sont ceux qui font partie de la garde nationale? Est-ce comme officiers, ou comme soldats ? Dans quelle arme artillerie ou infanterie ? Les absents auront à expliquer avec dernière précision, et preuves légales à l’appui, les motifs de leur absence. Veuillez, je vous prie, transmettre cette liste à Mr le Ministre dans un bref délai, avec vous observations préalables, s’il y a lieu. La liste devra comprendre, non seulement les professeurs, mais les employés de tout ordre et jusqu’aux hommes de peine. » Lettre de TAILLANDIER à AUBER, datée du 8 oct. 1870, ibid.