先行研究のレビュー
1.はじめに
有価証券の公正価値情報の有用性は,前章においてみてきたように多くの研究によりほ ぼ確認されているといえよう。このようなことを背景として,有価証券の公正価値情報は 会計情報における開示情報から認識情報へと位置づけが変更されたと考えられる。「企業の 財務諸表のなかで,何を資産,負債,持分,収益,費用,利得,損失として認識するのか,
そして何を財務諸表の注記において開示するだけであるのかを決めることは財務会計の基 本的な事項」[Barth(2000), p.23]だと考えられている。会計における認識情報と開示 情報の差異は大きいのである。
また,第3章で明らかにしたように,語用論的アプローチを用いれば会計情報における 認識情報と開示情報には差違があると考えられる。会計において一定の規準を設けて区別
され,また理論的にも異なると考えられる認識情報と開示情報にたいして,投資家をはじ めとした会計情報利用者は区別して用いているのであろうか。認識情報と開示情報の違い が情報利用者の意思決定に何らかの影響をおよぼしているのかを確かめるために,これら の相違を検証した先行研究を概観することが本章の目的である。
しかしながら,わが国においては証券市場における認識情報と開示情報の違いを検証し た研究はまだ行われていない。また,アメリカにおいてもそれほどなされていない。その 理由として,この種の研究では認識情報と開示情報の区別の仕方やモデルへの組み込み方 が難しいからだと指摘されている[Davis−Friday et al.(1999), p.404]。そこで本章では 数少ない先行研究のなかでも4つのもの1を取り上げることにする。そうすることにより,
難しいといわれる認識情報と開示情報の相違を検証する研究において注意すべき事項を確
認し,本研究で用いるモデルの構築にあたっての示唆を得ることにするのである。
まず第2節において,認識と開示に関する公開草案や公告にたいして株価がどのような 反応を示したのかを検証したEspahbodi et飢(2002)の研究を取り上げることにする。
そして,市場が認識情報と開示情報にたいしてどのように反応するのかを情報公表時点周 辺におけるリターンをもちいて検証したAboody(1996)の研究とAmir and Am辻(1997)
の研究を第3節においてみていく。つづく第4節では,株価を市場の反応の指標として用 いたDavis・Friday et al.(1999)の研究をみていくことにする。最後に第5節では,これ
らの先行研究をまとめ,本研究において認識情報と開示情報の有用性の相違を検証するさ いの留意点等を確認することとする。
2.公告内容にたいする市場の反応の相違
会計においては開示情報と認識情報では,その情報に大きな違いがあると考えられてお り,また「企業は認識にたいしては抵抗するが,追加的な開示にたいしては従順である」
[Barth(2000), p.23]ともいわれている。
認識と開示にたいする企業行動の違いの例としてよく用いられるのが,株式ベースの報 酬(Stockbased compensation,以下ではSBCという)に関する会計の議論である[Barth
(2000),p.23]。 SBCとは,経営者や従業員にたいしてストックオプションや類似の持 分証券を報酬として提供するものであり,キャッシュ不足で苦しんでいる新設企業やハイ テク企業などではキャッシュによるボーナスや給料の代わりに用いられているものである。
従来,アメリカでは会計原則審議会による意見書第25号によりSBCプランによる報酬費 用を認識する必要がなかったことから,SBCは従業員の動機づけやキャッシュの流出を抑
えるために広まっていった[Espahbo(li et al.(2002), p.344]。
SBCが普及するにつれ,報酬費用を認識しないことが問題とされるようになり,1993 年6月にEASBはSBCを付与した日の公正価値にもとついて, SBCプランにより授与さ れたあらゆるものを報酬費用として認識することを求める公開草案を公表した。しかしな がら,報酬費用の認識を求める公開草案は非常に多くの企業により反対された。そして多 くの議論がなされた結果,公正価値にもとつく報酬費用の認識は薦めるが要求せず,公正 価値にもとつく1株当たり利益額や純利益額の開示を求めるというSFAS第123号が公表
されることになった。
報酬費用の認識と開示では,市場の反応としてどのような違いがあるのかを調査するた めに,Espahbodi et a}.(2002)の研究が行われた。 Espahbodi et al.(2002)の研究では,
FASBのSBCに関する一連の公告にたいする株価反応を調べ,それによって財務報告に おける認識と開示が市場に与える反応の相違をイベント・ヒストリー分析によって明らか にしている。
一般にSBCに関するコストを認識する可能性が高まったという声明は,稼得利益から コストが差し引かれるので株価を押し下げる要因となりうると考えられる[Espahbodi et 飢(2002),p.348]。そこでEspahbodi et al.(2002)の研究では「SBCプランを有する 企業は,そのコストを認識するように求める可能性が高まる(下がる)イベントの周辺に おいて,マイナス(プラス)の超過リターンを経験する」[Espahbodi et aL(2002),p.348]
という仮説1を検証している。
しかしながら,SBCに関する公告が,すべての企業に一様に影響をおよぼすわけではな い。キャッシュが不足しており,SBCプランをかなり頼りにしているような新設企業やハ イテク企業においては,他の企業に比べてより影響が大きいと考えられることから,
Espahbodi et aL(2002)の研究では「SBCコストを費用処理する可能性が高くなったと いう公告にたいする株価反応は,新設企業やハイテク企業においてより大きなマイナスと なる」という仮説2もあわせて検証している2。
彼らが検証にさいして用いたイベントは,SEAS第123号が公表されるまでに出された 重要だと思われるものである。それは,1992年1月22日にEASBが行った企業の利益か
らストックオプションに関するコストを減額するように企業に求める長期計画の再提案か ら,1995年10月23日にEASBによるSBCコストの認識を薦めるが開示を要求したSEAS
第123号の公表までをあわせた12のイベントである[Espahbodi et aL(2002), p.353,
table 1]。そのうち,市場の予想される反応としてネガティブなもの,すなわち企業の株価 反応にとってマイナスに影響するであろうと思われるニュース(bad news)が4つであり,
反応がポジティブ,つまり企業の株価反応としてプラスとなるであろうニュース(good news)が8つである。
Espahbodi et al.(2002)の研究におけるサンプルは,次の4つの規準を満たした企業 である。まず(1)CRSPにより日時リターンを入手でき, COMPUSTATの年次業種ファ イルに掲載されていること,(2)従業員にたいしてSBCプランを提供し, DISCLOSURE データベースのなかに1996年の年次財務諸表の注記情報としてSBCプランによるEPS
(1株当り利益)を開示していること,(3)COMPUSTATのデータベースで企業固有の 変数データを入手できること,(4)金融機関や公益事業ではないことの4つである。この 4っの規準を満たしたアメリカの595社(内訳はハイテク企業が117社,高成長企業が297 社,新設企業が187社)を対象として調査がなされている[Espahbodi et aH2002),p.352]。
Espahbodi et飢(2002)の研究によれば, SBCの報酬費用を認識するよう求めた公開 草案が1993年6月30日に公表されたときには,株価が有意にマイナスの反応を示したこ
とが明らかにされている[Espahbo〔五et aL(2002), p.365, Table6]。しかも,すべての 企業を対象としたサンプルだけではなく,ハイテク企業を対象としたものや新設企業,高 成長などにおいても一様に,有意にマイナスの反応を示していることが観察されている。
これは,公表されたコメントの内容が,SBCにもとつく報酬費用にたいして認識を求める 場合には,その報酬費用分だけ当期純利益が減少し,株価がマイナスに反応すると考えら れるからである。
その他にも,この公開草案の適用を1年先送りし,ストックオプションにもとつく報酬 費用の開示を求めた公告が1993年11月5日に公表されたときや,報酬費用の認識要求を 撤回し,認識を薦めるが開示を求めるとした公告がなされたときには,新設企業やハイテ
ク企業では株価が有意にプラスの反応を示したことが報告されている[Espahbodi et al.
(2002),pp.370・371, Table 7]。 SBCの報酬費用を認識するよう求めれば,当期純利益 の額が減少すると市場は予想し,株価にマイナスの影響をおよぼすと考えられる。また,
認識を求めずに単に報酬費用を開示するのであれば当期純利益には影響がないと市場は考 え,結果として株価にプラスの反応を示すと考えられるのである。このことを明らかにし たEspahbodi et aL(2002)の研究では,認識と開示の価値関連性は異なり,開示は認識 の代わりにはならないと結論づけている[Espahbodi et al.(2002), p.372]。
SBCに関する会計処理についてEASBがコメントを公表した日に,株価がどのように 反応するのかということをEspahbodi et aL(2002)の研究では検証していた。 Espahbodi et aL(2002)の研究は認識と開示の違いを公告内容により捉え,公告にたいする市場の 反応の違いを観察するという方法が採用されていたのである。しかしながら,公告内容に たいする市場の反応よりも,実際に開示情報と認識情報にたいする反応の相違をみたほう が,より明瞭な調査がなされると考えられる。そこで,次に認識情報と開示情報が市場に 与える影響の違いを検証した先行研究を概観することにする。