南鍋町交詢社内 故金氏友人會委員
ここで注目したいのは、「生前の知友」だけではなく、「志士」「義人」の参加を呼びかけ ていることである。明治の時代葬儀広告を出すことは、著名人の間では一般的になりつつ あったようである113)。しかし広告内容としては、現在同様、出棺時刻、葬儀所などを知人に 知らせるという目的が一般的であり、故人と知己ではなくても、広く参加を呼びかける告 知を目的としていたということは前例のないことである。しかも、「志士」「義士」という 表現を使うことによって、自分自身の志を試されることにもなり、参加をより喚起するこ とにもなったのであろう。
では、翌
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日に行われた葬儀の様子は、具体的にどうであったか。『時事新報』に詳細 が記されているので、長文ではあるが、引用しておく。「故金玉均の葬儀」
故金玉均氏の友人其他有志者は、
一昨廿日同氏の為めに盛なる葬儀 を執行せり。当日は同氏の在世中 久しく寓居したる麹町区有楽町一 丁目五番地小暮直次郎氏方を事務 所と為し、午前九時頃同事務所よ り出棺せしが、真先に「葬送故金
氏玉均」の大旗を押立て、騎馬の先駆に引続き、尾崎行雄、犬養毅、大井憲太郎、井 上角五郎、自由党有志其他より贈れる生花造花数十、竝に紅白の旒旗(ふきながし)、
二籠の放鳥と、嗚呼東洋偉人逝埃、志士仁人殺身為仁、馬革裏屍真丈夫、留取丹心照 汗青、正気磅嚄掀天地、英風凛烈垂青史、慷慨志猶存西土屍聶政、雖縦横計不就東海 踏魯連跡等の字句を大書せる十数旒の旗及び嗚呼是金君玉均之霊柩との銘旗とは柩の 前後を擁し、金氏の遺髪衣服等を納めたる白木造りの柩は、楽隊の吹奏せる悲愴の奏 楽に連れて徐々と進み、喪主の同国人柳赫魯、李充果両氏は日本風の喪服を着用し、
古筠院釋温香と記せる位牌等を捧て棺後に徒歩し、次に導師東本願寺僧侶佐々木師を 始め六名の僧侶、馬車若しくは人力車にて其後に付き添ひ、夫より幾多の会葬者孰れ も馬車人力車等にて葬送し、浅草東本願寺別院に着したるは午前十一時頃なりし。斯 て同別院に於いては導師佐々木師等四十七名の僧侶にて読経ありてる後、石塚重平は 自由党有志代表者として、首藤陸三氏は改進党有志代表者として、弔詞若くは祭文を 朗読し、全国八十二新聞代表者志賀重昂氏、自由倶楽部総代石塚重平氏、親友総代小 林勝民氏等の祭文悼詞の朗読あり。式全く終わりたるは午後零時三十分なりし。夫よ り再び同院を出棺して青山共葬墓地に赴き、埋葬を終わりたるは四時頃なりしと。当 日の会葬者は近衛公爵、谷子爵、三浦安氏等の貴族院議員、尾崎、犬養、中野、大井、
井上、阿部、中村等の衆議院議員五、六十名を始め、無慮一千有余名ありしなるべく、
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其他通行の各道筋は何処も見物人堵の如くなりし。
(1894(明冶
27)年 5
月22
日付『時事新報』)果たして、「志士」「義士」と呼びかけられ、葬儀にはおびただしい人が参列する。『時事 新報』には、「無慮一千有余名」、『改進新聞』では、「二千余名」とあり、「浅草警察署にて は特に本願寺境内に派出所を設け警部巡査六十余名を派出し非常に備えたり、麹町警察署 も同様出棺所へ数十名の巡査を派出せり」114)と参列者警備のために、警察官の動員もしてお り、いかに多くの人が参列したかをうかがい知ることができる。
明治の葬儀では一般的なことであったが、金玉均の葬儀においても、住まいから葬儀所 である浅草東本願寺別院まで葬列をすることになり、葬列の道順が、葬儀当日の新聞に掲 載された。
本日施行する故金玉均氏の葬儀は頗る盛大にして貴衆両議院を初め朝野の貴顕紳士有 志者等無慮千除名の会葬者ある筈なるが其通行順路は左の如し
今二十日八時麹町区有楽町一丁目五番地小暮方出館、御堀端通りより神田橋に出て 三河町、淡路町を経て萬世橋を渡り御成通、上野山下、下谷功徳寺前通りを経て浅草 本願寺に着す(1894(明治
27)年 5
月20
日付『時事新報』)現在の日比谷公園の東側にあった小暮直次郎115)宅を出発、内堀通りを北上し、神田橋を渡 り、美土代町116)、淡路町を経て萬世橋を通過、御成通117)を北上し、上野山下118)で左折、下谷 功徳寺通りを東に進み、浅草本願寺に向かうという道程である。計算すると約
10km
の距離 を葬列がゆっくりと進むことになる。経路となった麹町区、神田区、下谷区119)、は東京府の中でも人口集中地域であり、その中 を豪華絢爛な葬列が荘厳に進む様子は、人目を引いたとみえて、「通行の各道筋は何処も見 物人堵の如く」集まっている。演出的には、生花・造花や紅白の旒旗を使うなど、今まで にない葬列の方式をとっている120)。
高橋繁行『葬祭の日本史』では、明治時代に行われた葬列「大名行列様式の葬列」が紹 介されているが、その中で、「葬儀の奴行列ではかけ声は一切発せずに伊達振り」をする「忍 び」121)の葬列を行っていたことを紹介している。にもかかわらず金玉均の葬列は音を立てな いよう留意することもなく、逆に、「楽隊の吹奏せる悲愴の奏楽に連れて徐々と進み」マー チングバンド並みに、奏楽とともに練り歩き注目をあびようとしている。
特筆すべきは、すでにデモ行進の概念が日本に入ってきていたかどうかは定かではない が122)、「嗚呼東洋偉人逝埃」、「志士仁人殺身為仁」、「馬革裏屍真丈夫」、「留取丹心照汗青」、
「正気磅嚄掀天地」、「英風凛烈垂青史」、「慷慨志猶存西土屍聶政」、「雖縦横計不就東海踏 魯連跡」123)などと書かれた幟を横断幕のように掲げて、葬列が進んでいることである。当時 の民衆がどれほど、この幟にひきつけられたかは計ることはできないが124)、少なくとも「堵 の如く」集まった人々はその文言を読み、益々同情の念を擁いたことであろう。
葬儀にしても、葬列にしても、「故金氏友人會」の思惑、すなわち「支那及び日本当局に 対する示威運動」125)のように感じさせる思惑が、そこかしこに見え隠れする演出となってい
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たのである。④「故金玉均友人會」の活動と東邦協会
「故金玉均友人會」は、金玉均の暗殺を契機として、演説会と葬儀という活動を行って きた。この「故金玉均友人會」の会員として名前の挙がっている顔ぶれの中には、多くの 東邦協会の会員が含まれている。表
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で示したように、新聞記事から読み取れる演説会 の演者の多くが東邦協会の会員であることがわかる。副島種臣は、病気療養中で演説会に 参加できなかったにもかかわらず、演台に立つ代わりに「元衡一死事酸辛 白日横行盗賊 頗 啼鳥粉粉春二月 天涯魂魄不帰人」という詩を大書した扁額を会場に掲げたとある126)。 おそらく、当時の副島は、枢密院議員としての肩書よりも東邦協会会長としての方がより 人々に認知されていたであろう127)。副島が、病の床で筆を握ったことを知らされた観衆は、東邦協会がいかに金玉均の死を悼み、そして「我國の対面を棄傷たる顛末を廣く世間に訴 へて世論を喚起する事」に力を入れていたかということを思い知ったことであろう。
葬儀に関しても同様であった。葬列の先頭に立って歩いた尾崎行雄、犬養毅、大井憲太 郎、井上角五郎、このいずれもが東邦協会の会員であった。また、会葬者として名前の挙 がっている顔ぶれをみても、副会長の近衛篤麿、前節で述べた親隣義塾の塾頭の谷干城、
尾崎行雄、犬養毅、大井憲太郎、三浦安など、その多くが東邦協会の構成員であったので ある。
石塚重平は自由党有志代表者として、首藤陸三氏は改進党有志代表者として、志賀重昂 は全国八十二新聞代表者としての肩書で、それぞれ弔詞若くは祭文を朗読したと新聞報道 にはある。しかし、彼らに対してもその肩書通りというよりはむしろ、東邦協会会員とし て見なしていた人も多くいたに違いない。また、衆議院議員の「五、六十名」が参列した とあるが、全衆議院議員の
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分の1
から5
分の1が参列したことになる。前節で親隣義塾 支援者に帝国議会議員が多く含まれていることを論じてきた。葬儀に参列した帝国議会議 員が親隣義塾支援者とオーバーラップしていることは容易に推測できるであろう。すると 対外硬主義者が多く参加した葬儀であり、「対外硬」運動のパフォーマンスとも感じ取れる。自由党有志代表者の石塚重平と改進党有志代表者の首藤陸三が弔詞を読み上げていること から、葬儀に参加した議員は、対外硬政策を展開する政治勢力である自由党・改進党など の民党の政治家が中心であったということを裏付けているであろう。
幾多の国民が同情し、会葬した金玉均の葬儀ではあるが、対外硬集会の様相を含んだ葬 儀でもあったのである。まさしく宮崎滔天のいうように、「未曾有の盛況ぶり」で、葬儀と いうより「支那及び日本当局に対する示威運動のように感じられ」るものでもあったので ある128)。