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44 第三章 東邦協会の人々

小沢豁郎 10) は 1858(安政 5)年、信州上諏訪に生まれ、幼少期に江戸に出てフランス語を学

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び、陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入り、1879(明治

12)年に陸軍工兵少尉に任ぜられ

たという陸軍軍人であった。1884(明治

17)年に福州での諜報任務に当たるため清国に渡る

ことになるが、その福州駐在中に山口五郎太、鈴木恭堅、松本亀太郎、中野二郎、樽井藤 吉と連絡を取り合い「哥老会」という地下組織と連携して清仏戦争を機に革命運動を企だ てようと画策したのであった。いわゆる福州事件11)と呼ばれるものであるが、これが陸軍部 内に洩れ伝わり、陸軍でも問題視して、柴五郎を派遣して中止させようとした。しかし川 上操六の尽力で、小沢は待命処分を受けることなく香港転勤で、事なきを得た。この出来 事により、小沢は軍や政府関係者から危険人物のレッテルが張られたのみで、清国改革の 志も実行もできず、エネルギーのやり場のない状態に追い込まれたのであった。東邦協会 設立発起は、小沢豁郎が香港から帰朝し、依然として持ち続けていた清国改革の意を注ぐ 活動をしたいと考えていたそんな時期であった。

白井新太郎12)も小澤豁郎の経歴と共通点の多い人生を歩んでいる。1862(文久

2)年、会津

(福島県)に生まれた彼は、明治 11

年に上京し勉学に勤しんだ。明治

16

年に芝罘(現煙台)

初代領事として赴任する南部次郎13)に同行して清にわたる。南部は清国の改革の志を抱いて おり、彼の片腕として清国の同志と画策した。また、小沢豁郎が福州で兵を起す計画を聞 きつけ、北部でも連動して兵を起そうと計画したが、計画が準備不足であると判断した白 井は、逆に時期尚早であると小沢を引き留める側にまわった。明治

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年ごろからは、漢口 にわたり、楽善堂の荒尾精や宗方小太郎らと行動を共にしている。漢口楽善堂14)とは、表向 きは、岸田吟香が開いた薬の販売所であったが、中国大陸で活動することを志す人々が多 く集まる活動拠点でもあった。井深彦三郎○、高橋譲、宗方小太郎、山内嵓、浦敬一、山 崎羔三郎、藤島武彦○、中野二郎○、中西正樹、石川伍一○、片山敏彦、緒方二三、井出 三郎、田鍋安之助、北御門松次郎、広岡安太、松田満雄、荒賀直順、前田彪、大屋半一郎

○等15)で、彼らは商業活動のかたわら情報の収集を図り、さらには中国の改革派有志とも接 触するなど経綸を目指して活動をしていた。白井もその一人として彼らと画策していたが、

「進んで東亞の経綸を行ふには先ず國内の人心をして之に向はしむるのを感じ」16)、その志 を実行しようと日本へ帰国したのであった。

またの名を福本日南と称する福本誠17)は、1857(安政

4)年、福岡黒田藩士福本泰風の長男

として生まれた。藩校修猷館に学び、後に長崎において谷口仲秋に師事し、更に上京して 岡千仭に師事して専ら漢籍を修めた。副島種臣と接したのも、国漢の学に励んでいたこの 時期である。

1876(明治 9)年、司法省法学校に合格するも、

「賄征伐」事件18)で原敬・陸羯南 らと共に退校処分を受ける。1882(明治

15)年、壬午事変の報に接し「唐の都の空にすむ月

を太刀把りて看ん時は来にけり」と詠んで19)、日・清・朝鮮の関係悪化を憤り嘆いた。

1887(明

20)年ごろになると、上海に滞在していたようである。どういう目的でどんな行動をして

いたのかは明らかにされていないが、同時期に白井新太郎は漢口に滞在しており、このこ ろ二人は出会い、知己になったのかもしれない。

1889(明治 22)年には 、陸羯南・古島一雄・

国分青崖らと新聞『日本』を創刊し、その一員として執筆活動を開始した。二か月後の

4

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月には南進論者である菅沼貞風と当時スペイン領であったフィリピンのマニラの調査のた めに渡ったが、菅沼の急死により単独での調査となったが、ほぼ目的を達成して帰国した。

福本が、小沢豁郎、白井新太郎とともに東邦協会設立を発起したのは、上海滞在を経験し、

フィリピン開拓の情熱未だ冷めやらぬ時期であった。

発起者である小沢豁郎、白井新太郎、福本誠この三人の経歴と彼らが東邦協会設立を決 意させるに至ったことに関わりのある事項をまとめる形でみてきた。黒龍会が編纂刊行し た『東亜先覚志士記伝』によるところが多いので、史実として多少の疑問が残るところも ある。しかし、小沢豁郎が福州事件の首謀者であったこと、白井新太郎が漢口楽善堂に名 前を連ねていたこと、福本誠がフィリピンに渡った熱心な南進論者であったことは紛れも ない事実である。その三人が東邦協会を立ち上げようと発案したのである。その目的を「講 究」としたとしても、素直には受け取りきれないであろう。講究することは単に慰みであ るはずはない、何等かの目的があってしかるべきである。「我が人心を外に向はしむる方法」

をいかに多くの人々に普及を図ることができるか、それこそが三人の共通した認識だった のである。過去には、小沢、白井両名は清国に、福本は南洋諸島に滞在し活動をしてきた。

三人はどの地域をという違いはあるものの、国権を拡張するための方策を模索し、また将 来においても実行しようとしていたという点では一致をみていた。この三人の呼びかけに 同調し、創設者や会員へと東邦協会が拡大していったということは、東邦協会活動に関心 をもつ人々が次第に増えていったということでもある。

(3)評議員の略歴と思想 ①副島種臣

次に評議会の中心メンバーとなった主な人物について解説していきたい。第一に取り上 げなければいけないのが、副島種臣である。創設時より監理者として、副会長・会長とし て「東邦協会」を牽引し、方針と実績に大きな影響を与えた人物なので、東邦協会を知る には副島抜きでは語りきれない。

副島は

1828(文政 11)年佐賀藩に国学者枝吉種彰の次男として生まれた。幕末には京都に

遊学し尊王攘夷派の志士達と交流をもち、また長崎にある佐賀藩の英学校・致遠館で大隈 重信らと共に英語・アメリカ憲法などを学んだ。1869(明治

2)年、新政府の参与、制度事

務局判事となり、福岡孝弟と共に「政体書」を起草した。1871(明治

4)年外務卿に就任、翌

年起こったマリア=ルス号事件の際には、日本側の中心となって事件解決に尽力した。ま た

1873(明治 6)年には台湾で起きた宮古島島民遭難事件

20)の処理交渉の特命全権公使兼外務 卿として清へ派遣され、日清修好条規批准書交換の交渉にあたった21)。しかしその後、征韓 論で敗れ西郷隆盛らと共に参議を辞任し下野した。清国を漫遊するなど22)日々を過ごしてい たが、再び請われて、宮中顧問官、枢密院副議長になり、1892(明治

25

年)には内務大臣を 務めた。

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副島種臣の人物を紹介する記述には、

1892(明治 25

年)6月の内務大臣辞任後から

1905(明

38)年の逝去までの期間が空白になっているものが多くみられる

23)。確かに

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歳という

年齢を考えると隠居生活をしていても良い年齢ではあり、閑職の身となっていたと考えら れがちである。しかし、前項でも述べたように東邦協会の活動は、病気以外休まず参加し 積極的であったと言える。月

2

回開催された評議会には、半分以上の

54%も出席しており

24)、 他の評議員よりも出席率では上回っている。東邦協会の活動はシルバーライフの片手間で はなく、自ら精力的に推進していた活動であったのである。それというのも、東邦協会の 活動は、過去の集大成ともいえる副島の信念を体現するものでもあったからである。

マリア=ルス号事件では、清国人苦力(クーリー)が奴隷として売買されることの不当 性を主張し、人道的な対処をした。この事件は日本で初の国際裁判でもあり、イギリス・

アメリカ両国も同様に不当性を認識し、日本にその対応を迫った事件でもあった。欧米列 強が日本の対応に注目する中で、副島は日本の国権を示すことに威信をかけて対応した。

それというのも副島にとってこの事件は、日本の国権不足を認識させることであり、日本 の国権をさらに拡張する必要性をも痛感させられる出来事でもあった。

また征韓論争で、下野せざるを得なかったという経験は、国権を拡張する手段として、

明治政府の方針を待っていたのでは、緩慢な進展しか期待できないということを思い知る ことになったのである。

だからこそ副島は、エネルギーのすべてを東邦協会へ向けたのである。1905(明治

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1

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日副島は逝去する。徳富蘇峰は、彼の死を悼み『国民新聞』上で、追悼文を掲載 し、「東邦協会の会頭であり、死ぬまで東洋政略への興味を失わなかった人物である。」と 表現した25)。死の直前まで、東邦協会の活動を通じて、日本が「東洋の盟主」となるべく画 策する努力を惜しまなかったのである。

②陸実

次にぜひとも紹介しなくてはならないのが、陸羯南こと陸實である。彼も東邦協会創立 役員として名前を連ねてから、常に東邦協会の評議員として会の運営に携わってきた人物 である。

1857(安政 4)年 10 月、陸奥国(青森県)弘前に津軽藩士中田謙斎の子として生まれる。東

奥義塾に入学、漢学や英学等を学ぶ。その後宮城師範学校に入学するも校長の措置に不満 をもち退学となり、司法省法学校本科に入学した。福本誠との出会いは、この入学がきっ かけであった。寮の食事への不満が原因で起きた賄征伐事件で、福本誠、原敬、加藤恒忠 らと共に退学を命ぜられ、青森に帰郷し『青森新聞』に勤めることなった。それも讒謗律 に触れ罰金刑を受け辞することになり、その後太政官御用掛となり、官僚の世界に入った。

1888(明治 21)年、谷干城・杉浦重剛・高橋健三らの支援を受けて新聞『東京電報』を

創刊し、翌年これを発展させて、新聞『日本』を創刊した。陸が社長兼主筆を務め、福本

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誠・国分青崖・三宅雪嶺・長谷川如是閑らの論客・記者を集めて、欧化主義を批判する国 粋主義を領導する論陣を張った。また、三宅雪嶺・志賀重昂らの政教社の発行する雑誌『日 本人』と提携しながら言論活動を展開するなど、ジャーナリズムに大きな影響を与える活 動をした。そして

1907(明治 40)年、肺結核のため、病没した

26)

明治新政府は、条約改正という目標の下、欧化政策を推進し、富国強兵を目指して、産 業の近代化を急いだが、その結果さまざまな社会的な矛盾を生み出すことになった。上滑 りの欧化主義を批判して、伝統的な文化に立脚して日本の立場を主張しようという人々が 現れた。その先頭に立ったのが、新聞『日本』を主催していた陸實である。彼は、内にお ける国家の統一と外に向かって国家の独立を実現するというナショナリズムの論客として 活躍し、そして、欧化主義一辺倒の外交方針の批判や対外独立の路線を主張する論説やそ れを貫くための立憲主義的な政治論を『日本』に掲載することによって主張した27)。すなわ ち彼は、主として無批判な欧化主義に異論を唱えたが、欧米に圧迫を受ける日本、さらに はアジア全体を開放する必要があるという考えに展化する者でもあった。すなわち、アジ アの中で唯一富国強兵が進み、先進的な日本こそが、アジアそして「東洋の盟主」となる 可能性を秘めており、その盟主となるべく日本の強化発展のために、対外進出が必要であ るという考えである。陸實のナショナリズムの考え方に影響を受け、このようなアジア主 義的な捉え方をした者が、東邦協会会員の中には少なからず存在していたという点で、陸 實の評議員としての役割は大きなものがあったのである。

③高橋健三

次に同じく創立役員でもあり、長期にわたって理員を務めた高橋健三を紹介してみたい。

1855(安政 2)年江戸に生まれ、貢進生に選出され、大学南校(後の東京大学)に進んだが、

1878(明治 11)年中退し、その翌年官職につく。駅逓局を皮切りに、内務省、農商務省、文

部省を経て、官報局長に任ぜられるが、

1892(明治 25)年には官職を辞任する。その後、

『大 阪朝日新聞』客員論説委員、雑誌『二十六世紀』の編集にもあたるなどジャーナリストと しても活躍する。

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年松方正義内閣の書記官長に就任するが、『二十六世紀』在任中の筆禍 事件などもあり、97年辞職する。1898(明治

31)年 7

22

日、肺結核のためわずか

42

歳で 病没した28)

高橋の

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年という短い生涯の中で、二人の重要な人物との出会いがあった。一人は、前 項で述べた陸羯南である。陸羯南は、政府の欧化主義を嫌い国権の伸張を唱える国粋主義 者として知られた人物である。陸と高橋との関係は、1885(明治

18)年、高橋が官報局次長

在任中に、陸は内閣官報局編輯課長であったという上司と部下の関係から始まったと考え られている。しかし陸が新聞『日本』を創刊するにあたっては援助をしたとされており、

わずか

2

歳しか違わない二人とって、上下関係と言うよりも、思想を共有する同志とも言 える存在でもあった。東邦協会の活動に加わったのは、どちらからの呼びかけかは定かで