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(1)露西亜語学校経営とロシア認識

では、もう一つの大国ロシアに対して、東邦協会はどのような認識をもっていたのであ ろうか。ロシアに対する脅威感の表れとして「第二章第五節 露西亜語学校の経営」で実 態を取り上げ実証的に考察してきた。露西亜語学校は、高橋健三、矢野龍渓、副島種臣、

東邦協会理事ら多くの人物が、学校の運営に尽力し、多くの費用を投入した一大事業であ った。その結果、教育機関としては、教育理念、カリキュラム、教師陣など、何一つとし て官立学校と比較しても遜色のないものとなった。その半面で、卒業生はわずか

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名で、

しかも、歴史上に現れる人物をほとんど排出することができなかったという期待に反する 結果に終わった。学校運営に何ら問題があったわけではなく、ひとえに時期が悪かったと しか言いようがない。日に日に朝鮮における宗主権を強めていく清国、未だ不安定な状態 の朝鮮129)にどう対応していくかということがロシア問題よりも政治的に大きくクローズア ップされるようになったためである。そしてその後再びロシア語の必要性が高まることに なる下関条約締結直後、日露戦争前後までは、期間があり過ぎた。時期尚早だっただけな のであり、ロシアを脅威と感じていたことは、変わらぬ考えであった。

(2)大石正巳の演説会意見をめぐるロシア認識

東邦協会のロシア認識は、1892(明治

25)年 2

月以降に展開された大石正巳と稲垣満次郎 の論争でもよくわかる。

1892

(明治

25)年 2

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日、大石正巳、稲垣満次郎の他に末永純一郎130)を加えた三氏が、

一ツ橋帝国大学131)講義室で、講演を行うこととなる132)。開催に関しては、『読売新聞』、『国 民新聞』、『日本』など様々な新聞で案内が掲載されていることからみると、東邦協会会員 のみに限定されたものではなく、広く社会に告知した講演会であった。その告知の結果で あろうか、聴講者は

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名を越える盛況ぶりで、それに呼応するかのように、末永純一郎 は「朝鮮の現制並に日本の関係」という題目で二時間を越える講演をし、さらに大石正巳 は「東洋に対する日本の経済意見」という題で三時間半に亘って熱弁をふるった133)。開催 は 午後一時からであったにもかかわらず、夜半に及んだため、稲垣満次郎のみは、日を改め て開催することとなった。27日再度、帝大講義室で開催された講演会も、前回同様

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余 名の聴講者で会場が埋め尽くされた。「東洋の大勢上大島と台湾孰れか優れる」という題目 で講演した稲垣満次郎は、三時間を越える時間を費やして、独自の主張を展開した134)

この三者の講演会は、単なる熱気を帯びた講演会という形で終了することはできなかっ た。それは大石正巳が

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日に行われた講演で峻烈な発言を行い、大いに論議を巻き起こす ことになったからである。ロシアを罵倒し、「ロシアは敵」とかなり挑発的な言論を展開す

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ることに終始するという内容であったためである。さらに事を大きくしたのが、当時、東 邦協会の副会長の職にあった副島種臣が、このときの大石の講演に対して不快の念を表明 したことであった135)。そして副島の意見と同調するように、稲垣満次郎も、

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日の講演で、

大石講演の反論を中心として理論を展開するに至る。

では、何故このような論争に発展したのであろう。それを探る糸口として、大石正巳、

稲垣満次郎それぞれの具体的講演内容と思想的背景から考察を始めてみたい。

大石正巳の経歴に関しては「第二節第四項 大石正巳公使の防穀令事件対応に対する見 解」で少し触れた。彼の数々の言論活動、政治活動の中で、特質すべき点が二点ある。一 つは、英国からの帰国後に立て続けに出版した『富強策』と『日本之二大政策』の執筆で ある。もう一つは、既に述べた朝鮮駐剳弁理公使として防穀令問題に関わったことである。

そして、この二つの業績を成し遂げたのが、まさに、この論争のなされた時期に重なるの である。『富強策』は

1891(明治 24

年)12月に、『日本之二大政策』は

1892(明治 25)年 5

月に出版されており、この二作の狭間の時期であり、また朝鮮駐剳弁理公使として赴任す る直前のことでもあった。そういう時節の講演会であったということは、前作『富強策』

での主張点の確認および補足、次作『日本之二大政策』の草稿的要素が多分に反映された 主張であったことは想像に難くない。また、講演の内容やその後になされた様々な非難が、

彼の原動力・思想の基盤となり、防穀令問題での行動転化への誘引ともなったかもしれな い。そのため大石の思想の根幹となるものとして重要な講演会であったともいえるであろ う。

では、この講演会で、いかなる言説をしたのか、その内容について新聞記事より探って みたい。

副島伯大石正巳氏の演説を憎む 過日大石正巳氏が東邦協会に於て東洋問題に関する 一場の長演説をなし全然稲垣満次郎氏の東方策に反対し最後に魯国は我が商業の敵、

平和の敵、□た文明の大敵なりとまで絶叫したるは頗る痛快なるが如くなれども此の 演説に就いては種々の非難も亦た□からざるが当日其の演説を傍聴せられたる副島伯 の如きも大石氏はよき豪傑にして其の演説も甚だ面白く彼の稲垣氏の意見と大いに相 違し居れども各々一己の見識を立てたるもののゑ何れが実際に当るやは予め知る所に あらず唯だ大石氏の演説中魯国を罵倒せし一言は少しく無遠慮を云はざるを得ず氏た とへ異心斯く信ずるにもせよ東邦協会の席上に於て此の言をなすは如何にも面白から ざる事なり元来東邦協会は種々の分子より成立てるものなれば之が為に随分迷惑をる 人もあるべしと語り居られし由

(『読売新聞』1892(明治

25)年 2

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日付)

新聞記事で取り上げられているのは、わずかな記述であるが、ロシアは「我が商業の敵」、

「平和の敵」、「文明の大敵」と大石の念頭にはロシアが大きな位置を占めていることが推 測できる。仮想敵国としてのロシアの存在は、それ以前の大石の言動では見受けられなか ったことである。例えば

1891(明治 24)年の『富強策』では次のように述べている。

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朝鮮をしてその独立を鞏固ならしむこと是れなり、而して朝鮮の独立を謀らんと欲せ ば、我が日本が進んで東洋の盟主となり東洋に於て最も関係を有する所の諸強国と共 に列国会議を開て之を議定するにあり、会議に列すべき者は即ち日本、英吉利、仏蘭 西、露西亜、支那、独逸、亜米利加の七大強国なり、而して此の七大強国が認めて以 て朝鮮を保護国と為し、若し一国約に違ひて朝鮮を掠奪せば爾余の列国挙って之が罪 を問ふことと為すべし、苟も此の如くせば朝鮮の独立は直ちに安全香子鞏固なるを得 べし(『富強策』1891(明治

24)年、p.122)

要するに、朝鮮半島の独立が維持されない限り、日本の盾となることは不可能であり、

その重要な点を認識すべきである。そのためには、日本が東洋の盟主となって清国、露西 亜を含む列強と会議を開き、朝鮮を保護国とするべきだと主張している。今や、英露の対 立は激化し、朝鮮に於いて清国の宗主権が益々強化されているのが現状である。しかしな がら、朝鮮半島における危機感を表明しながら、その脅威は、ロシアによる脅威に特化す ることなく、むしろ波風を起さないよう各国との連携の道を模索する必要を述べている。

もちろん大石らしく、日本が東洋の盟主となってという点では、東邦協会の趣旨とは大い に合致しているという点は付け加えておかなければなるまい。

それが、わずか2ヶ月のうちに、ロシアの脅威を声高に演説するまで変化している。こ の心境の変化はいかなるところにあったのであろうか。次作の『日本之二大政策』の文面 を引用してみよう。

国防は皆無にして経済は立たず教育は行れず行通は不便を極めたり、されば国家の為 に大策を立てゝ此衰退を挽回せんとするの人才あるか、韓人の為め頗る気の毒なれ共 挙国恐らくは一人の人才なかるべし

『日本之二大政策』1892(明治

25)年、p152)

朝鮮は、国防も経済も教育も交通もすべての点で立ち遅れており、現状が続く限り自主 独立は不可能であると、『富強策』とは違い朝鮮の独立に希望を見出せない表現となってい る。その言葉の裏には、盾としての朝鮮はもはや期待できず、シベリア鉄道開通の折には ロシアは南下してくるだろうという脅威感が隠されている。朝鮮赴任時の『国民新聞』「大 石正巳氏」136)においても、「世界列国の同盟を募りて露国を退治するの奇策を懐く」と評さ れているように、朝鮮問題を解決するにあたってもロシアの脅威を取り除く必要があると 強く考えていたのである。

それ故、大石は東邦協会の講演会席上でも、ロシアの脅威を声高に主張することになっ たのである。稲垣満次郎らのようにロシアよりは南洋地域に目を向け、商業中心の考えを 安閑と述べていることに対して大きな違和感をもったのであろう。非難を浴びることとな ったロシアに対する発言ではあったが、ロシアの脅威に対するシグナルとして表現したか