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(1)軍事分析と脅威

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世紀後半には、欧米諸国の植民地となったアジアの国も少なくなかった。日本も、侵 略を受け植民地化されないこと、さらには欧米諸国と対等の地位に立つことがその時代の 重要課題であった。

東邦協会は、そのために欧米の研究も抜かりなくしていた。特に「第四章第一節『東邦 協会報告』の分析」の「注目記事」でも触れたように、欧米各国の軍事分析を積極的に行 っていた。その強大な軍事力が、清国と結びついた場合の脅威を想定していたということ を述べてきた。欧米の軍事力分析は、日本が欧米に肩を並べるようにするためには、欧米 の戦略・戦術などを学ぶ必要もあるという考えが根底にあったからである。

『報告』において、海洋戦略研究で名を馳せたアルフレッド・セイヤ―・マハン142)による 記事も数回に分けて掲載している143)。マハンを日本に初めて紹介したのは、金子堅太郎がハ ーバード大学で学んでいた時であるとされている144)。「海上ノ権力ニ関スル要素」を抄訳し、

時の海軍大臣西郷従道に贈ったもので、その内容は、1893(明治

26)年7月号の『水交社記

事』に「近来傑出ノ一大海軍書ニシテ、独リ米国ノ海軍社会ノミナラス、欧州各国ノ軍人社 会政事家外交官の間ニ広ク敬迎セラルル珍書ナリ。我社員ニ必読ノ書」であると紹介され、

次いで

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月号から

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月号まで3回にわたって第1編全文が連載された145)。その「海上ノ権 力ニ関スル要素」は「海上権力ノ要素」として『報告』29号から

32

号までの

4

回にわたっ て掲載された。おそらく会員でもある金子堅太郎または水交社の肝付兼行がマハンの紹介 をしたものと考えられる。

このマハンの理論に衝撃を受けた東邦協会は、1896(明治

29)年に『海上権力史論』の全

訳を出版した146)。 その序文で会長の副島種臣は「吾国は海国也」と喝破し、マハンの著作を熟 読し、 マハンの力説する「制海権」を掌握するならば、 日本は太平洋の通商を支配し、海の 守りを固め、 以て敵を征しえるであろうと説いた147)。 また、 海軍水路部の肝付兼行も、この 書が「海軍進歩ノ暗辺ヲ照シ其理ヲ以テ吾人心裡ノ迷露ヲ払フ」ものであり、「海軍史海渉猟 ノ金針トスヘキ」ものであるとの序文を書いた148)。このマハンの著作の出版は、日清戦争終了 後のものではあるが、『報告』に以前に掲載したという経緯もあり、この副島、肝付両名の 序文の考えは、『報告』29号に掲載することが決定した時点から、変わらぬものであったは ずである。太平洋支配、すなわち大東亜の征服をも狙う勢いを感じさせるものである。

(2)万国公法の研究

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世紀後半の国際政治社会は列強の支配する社会であったことは繰り返し述べてきた。

こうした状況のなかでいかに日本が自主独立を達成できるかが明治国家の課題であった。

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そのためには、とにかく日本は欧米列強が敵国とならないことに配慮することも重要であ った。あわよくば、将来的には欧米と対等の立場になることを望んでいた。軍事の研究を し、実際に軍事力を備えることも欧米からの信頼を得ることになるであろう。それともう 一つ、日本が欧米と肩を並べる「文明国」であると内外に知らせる必要があった。そのた めには、万国公法を研究し、遵守することによって欧米から批判されないようにすること も重要な鍵となってくるのである。

その点、東邦協会は、事業順序の第二条において、「右の講究を補益せんか為め本会は国 際法及ひ欧米各国の外交政策幷に殖民貿易の事を講究す」と述べており、早くから「国際 法」の重要性を認めていた。『報告』の記事にも万国公法に関連する記事は多くみられる。

「巨文島の占領に對し日本は公法上之に故障することを得るや否や」149)、「國際公法協會報 告」150)、「東邦ノ司法制度ニ關スル國際公報會ノ調査 金子堅太郎君述」151)などの記事であ る。また『報告』36号には、法律學士某君述「国際公法」という

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頁にわたる長文の研究 書が附録として添付されている。

『報告』に記事が掲載されるのみではない。『報告』6号152)には、「萬國公法研究會を開始 する事」と題して、研究会を発足させ独自に研究する計画ももち上がる。

其二なり、我邦の現情各種の學科に渉り太た其智識を缺かるも公法の學獨り未た闡明 せす、是を以て國際上に一事を生すれは疑義百端人、其裁決に惑ふの状なしとせす、

又其今日在る所の萬國公法なるものは動もすれば未だ耶蘇教國の公法たる臭氣を脱せ ず、故に深く此學を講明し、旁ら我東邦に存する古来公法の慣例をも捜索し、大に斯 學を裨補せんと欲するに在り。

万国公法を十分に研究し、守ることによって日本が独立国として欧米と対等であるとい うことを示せるのではないかというものである。「万国公法」は唯一の拠り所であり、日本 にとって、欧米列強が支配的役割を果たしている国際社会で生き残るための強力な手段で あると考えられていたのである。

万国公法の研究が功を奏したのが、日清戦争の端緒ともなった「英国商船高陞号撃沈事 件」153)である。1894(明治

27)年 7

25

日、清国戦艦「済遠」を追撃中であった東郷平八郎 艦長の巡洋艦「浪速」が、清国兵

1200

人と砲門

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機と弾薬を積んだ「高陞号」に英国旗 を掲げて航行させているのを発見した。中立国たる英国船舶を利用して兵員武器を輸送す るのは戦時国際法違反であるため、高陞号を捕獲し随行を命じたところ、清国兵は英国人 船長を脅して随行を拒否したため、4時間の猶予を与えて乗組員に退艦を促したのち、撃 沈した。この事件は英国世論を激高させたが、英海軍裁判所が「浪速」の行為を正当であ ると宣言したこと、高名な国際法学者ホランド博士がタイムズに寄稿し、戦時国際法に照 らして「浪速」の行動は適正と論じたことなどにより、英国世論は納得したのであった。

東郷平八郎が万国公法の理解と遵守を念頭に行動したということが154)、東邦協会の啓蒙活 動が直接に功を奏したとは言い切ることはできない。しかし興亜会、交詢社など他の組織 が積極的に万国公法を研究していないなかで、東邦協会は、戦時国際法遵守の重要性を周

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知させようとしていた。そして日清戦争開戦にあたって、欧米からの批判を受けずに戦争 に突入できたということは、万国公法の研究がいかに重要であるかということを実証する 行為でもあったのである。

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