Ⅰ 文字のイメージ 文字の分離
Ⅱ 音節
Ⅲ 発音の演習
Ⅳ 音節の接続の演習
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の小利を見て一朝事足れりとす余輩の取らさる所なり」72)と祝辞を述べている。たとえ人数 が少なくとも、熱弁を振るったのは、東邦協会露西亜語学校設立が失策でなかったこと、
また東邦協会活動が有益であることを確認する作業でもあったのである。
(2)露西亜語学校の衰退
頻繁に『報告』に登場していた露西亜語学校も
1894(明治 27)年 2
月発行33
号「本會附 屬露西亞語學校生徒卒業式」の記事を最後に一切掲載されなくなる。そのことは即ち東邦 協会露西亜語学校そのものの終焉を意味していた。人々の期待を一身に背負い旗揚げした 露西亜語学校であったが、わずか4
人の卒業生を出すのみで幕を閉じるという結果に終わ ってしまった。確かに設立当初は、ロシアに対して多いに関心をもっていたことは前述し たとおりである。雑誌『報告』で盛んに記事として取り上げ、切迫した会の財政から資金 を捻出してまでも、露西亜語学校を運営したということは、シベリア鉄道着工や大津事件 などロシアに対する危機感からの東邦協会運営方針であったということに違いはない。し かしながら方針転換を余儀なくされたのはなぜであろうか。第一に考えられるのが、ロシア語の用途が少なくなったということである。時代は少し 遡るが、メーチニコフが「ロシア語を修得してみても日本人学生たちには英語、仏語科の 生徒のように前途は明るくない。ロシア語の勉強はほとんど魅力あるものではなかっ た・・・」73)と述べたように、在籍者はもとより卒業者さえもロシア語を生かす場所は少な かった。東邦協会自体も同様に「露西亜語の需用は、今日目前に於て未だ近効を見さるを 以て生徒の父兄、或は之に倦み、學資を給せず若しくは、生徒其人亦之を繼續貫徹するこ と能はさるの事情ある等」74)と分析している。確かに、籍を置いた者の中に、名を挙げたも のはごく少ない。強いて挙げるとすれば、夏秋亀一、和泉良之助、石田虎松の三人くらい である。夏秋は後藤新平の腹心として日露政治折衝の裏面で重要な役割を果たしたという ことで75)、和泉はウラジオストック在留日本人向け新聞『浦潮日報』の発行で76)、石田は尼 港事件で自決したということで、知られている77)。しかし、彼らが真に活躍できたのは、日 露戦争期以降になってからである。対局が再びロシアへと向かうのは時を待たなくてはな らなかった。
第二に、東邦協会のロシア語学校設立が当初の設立趣旨と乖離しており、無理があった ということである。「此の時に当り、東洋の先進を以て自任する日本帝国は、近隣諸邦の近 状を詳らかにして実力を外部に張り、以て泰西諸邦と均衡を東洋に保つの計を講ぜざる可 らず」78)という一節があり、「東洋の覇権」を握ろうとする意思が東邦協会の趣旨には含ま れていたことは何度も述べた通りである。東洋の地理、外交、兵制など多くのことを理解 することは、東洋を制する第一歩となる、その為には、語学を身につける必要があるとい うことが根底にあった。「東邦協会發兌の理由」にも「世に英佛の語を解するものは多し、
而して清韓の語を解するものは甚だ少し」79)とある。この基本方針からすると、本来は、朝
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鮮語・支那語の学校設立が自然の流れであろう。それが露西亜語学校設立という別の方向 に進んでしまったということが、東邦協会内で問題になったということは十分考えられる。
その帰結として、継続より廃止へと向かわせる結果になったのであろう。
しかし、それはロシアに対しての警戒を軽んじるという意味ではなく、ロシアにも十分 に理解を深めた上で警戒する必要性を、東邦協会は当然認識していた。しかし、それ以上 に警戒し、注目せざるを得ないほど、清国・朝鮮情勢は危機的なものであったのである。
第六節 東邦協会演説会
次に、事業順序第七条に「本会は講究の結果を世人に示さんか為め講談会を開くことあ るへし」と記載のある「講談会」について述べてみたい。発足当初から「講談会」開催実 現は、懸案事項であった。第二回目の評議会での議題にのぼり、開催を決定する。
講談會塲
規約七條に由り九月より講談會を開くことに決し、會塲を芝山内水難救所に定めたり、
其開會の期日は追て之を特報す可し、附て言ふ此會は會員諸君に限り會費を要せす。80)
評議会でも協議を重ね、発会より
4
か月以上遅れたもののついに1891(明治 24)年 10
月17
日、肝付兼行「本邦水界の気象」、岡本監輔「千島諸島の現状」、稲垣満次郎「巨文島の 占領に対し日本は公法上に故障することを得るや否や」の三演題81)が芝の大日本帝國水難救 済會82)において開催される。東邦協会の評議会は、講談会の開催を重要視していた感がある。それは、月に1ないし は2回のペースで開催されていることからもわかるように、「東邦協会」としての活動を、
知らしめる活動の一つという意味も込められていたように感じる。福沢諭吉も講演の重要 性を次のように語っている。
西洋諸国にて一切の人事にスピーチュの必要なるは今更言ふに及ばず、彼国にかくま で必要なる事が日本に不必要なる道理はある可らず。 否我国にも必要のみかこの法な きが為に、政治も学事もまた商工事業も、人が人に所思を通ずるの手段に乏しく、こ れが為に双方誤解の不利は決して少なからず83)
大勢の人に向かってまとまった知識や意見を伝達するために、「講談会」は格好の手段で あった。自由民権運動時に、都市部のみならず地方でも盛んに開催された演説会に、民衆 は熱狂をもって聴き入ったということは、周知の事実である。東邦協会評議会も同様な効 果を得ることができると考えていたということは想像に難くない。学問的知識を伝達する にしても、政治的意思を伝達するにしても、大衆に理解させ、煽動して行動に駆り立てる 役割としても、講談会は重要であると認識していたのである。
その証として、評議会の議題には頻繁に「講談会」が挙げられ、話し合いを行っている。
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また評議会に「講談会」の弁士を呼び、事前審査を行うこともあった。「講談会」で発表さ れる内容は、吟味を重ねた「東邦協会」の趣旨にふさわしいものである必要があったので ある。実現したという記録はないが、弁士を派遣し、「東邦協会講談会」を日本各地で開催 することも計画していた。地方でも演説が開催されるようになれば、都市部のみではなく、
全国各地に「東邦協会」の活動が認知されるようになる。そのことは、意志伝達というだ けでなく、その結果として集団としての意志形成が可能になることは十分に考え得ること であったのである。講演内容のほとんどを『東邦協会報告』に記載し、講演内容を講演参 加者のみではなく、参加しなかった会員にも広く知らしめるよう万全を期すことも忘れな かった。
ちなみに、演説会の一覧は表
2-9
の通りである。機関誌の内容同様、演説会の内容も分 析は後章に譲ることにする。第七節 資金運用
東邦協会が充分な活動するにあたっては、資金を集めることも重要な要素となる。具体 的な出納記録が残っていないので、会計がどのような内容であったのか、その内訳は明確 ではないが、発足から
1894(明治 27)年 7
月までの間には、設立総会を含めて4回の総会が 開催されており84)、決算の内訳が年度報告として記載されている。会計年度が13
箇月、11 箇月、12
箇月と年度によって違い比較としては適切ではないが、表2-10
にバランスシート とし、分析してみた。活動に使うための資金としての収入は、会員からの会費と会報の売 上と借入金と寄附金である。会費は毎月五十銭、地方居住者は三十銭(明治25
年9
月より 改正)を徴収しているが、この収入のみでは、必要経費の支払いが可能であるのみで、事業 順序に記された活動は、全く支出ができなかったようである。どこからかは不明であるが 借入金もあり、第一回の決算報告時には、その9割が返却されておらず、この借入金がな ければ到底、協会運営は成り立ち得なかった状態である。この危機的状況を脱するための 方策として、評議会で協議した結果、寄附金を集めることを決したのである。○寄附金の勧誘
東邦協會創設の當時會員僅に百名に過ぎず、随て報告の發行、事務所の經理、出入相 償はす、是れ別途の金員より之を清還せさる可からず、今日會事良る緒に就かんとす れば、曰く地理探検、曰く圖書蒐集等費用を要するの途も亦一ならず、是れ亦別途の 金員より之を支出せさる可からす、前月評議員會の決議に由り規約第十五條二項の寄 附金を勧誘して之に充用せんことを望む85)
第十五條 本會の維持費は左の二項を以て之を充つ 一 會費 二 寄附86)
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事業順序で掲げた活動を行うためには、資金が重要であることを主張し87)、そのためには 規則の第十五条第二項の項目を適用し、寄附を集めることが会員らに提示される。さらに 少しでも多くの寄附金が集まるように副島種臣と渡邊国武の書という心づけまで用意する というぬかりのないものであった。
●寄附金の手續
明治廿四年十月九日寄附金に關する手續を定め、副島副会頭、渡邊監督より書を各會員に 發して寄附を求む、今ま其収受、取扱の方法手續等は左の如し
○寄附金寄贈手續
一寄附金は一時若くは数回に分ち寄贈せらるるも寄贈者の随意とす
一寄附金に就き費途の事項を指定して之を寄贈せらるるも亦寄贈者の随意とす
○寄贈者取扱手續
一寄附金を領収したる時は副会頭及ひ會計監督の名を以て領収證を寄贈者に交付す 一寄附の金員は會計監督を於て之を主管す
○寄附金支出手續
一寄附金の支出は評議員會の評決を經て之を實行す
明治
14
年「書画一覧」によれば、副島種臣の潤筆料は勝海舟、伊藤博文とならび「十円」であった88)
ともあり、当時としては、貴重な寄附による特典でもあったのであろう。この
寄附の呼びかけに賛同し、支援の意思を積極的に示したのが、表
2-11
のような顔ぶれであ る89)。特に
1892(明治 25)年当時といえば、松方正義内閣と伊藤博文内閣が政権を握っていた時
期でもあり、松方、伊藤両名ともに高額の寄附金を支払っている。活動の理念に共感した という意思を示す手段の一つとして資金を提供することは往々にしてあり得る事である。
松方、伊藤を始め多くの人物が寄附をしたということは、東邦協会活動への理解でもあり、
期待でもあり、その意思を表すために寄附を出したというのはあり得るであろう。しかし、
その一方で、活動内容が支援者の意思に沿うものである必要もある。したがって、東邦協 会の活動内容が、ある程度、支援者の意思と整合が取れていることも重要となってくる。
東邦協会活動に支援者の意思がどの程度反映されていたのかどうかは、第三章で検討する こととする90)。
もう一つ願ってもない収入があった。