週刊→半月 刊
1888 (明治 21)
四銭
(創刊時)
三宅雪嶺『国民之友』 民友社
1-372
号 月刊1887 (明治 20)
八銭
(創刊時)
徳富蘇峰『交詢雑誌』 交詢社
1-571
号5、15、25
日の月3
回1880
(明治 13)
会員無料 福沢諭吉 表2-3
明治中期 主要雑誌概要一覧26
寄贈者 件数
水路部
55 15.4%
鞍智芳章
40 11.2%
白尾一也
22 6.1%
偕行社
13 3.6%
海事協會
13 3.6%
大日本教育會
13 3.6%
東京専門學校
13 3.6%
政教社
12 3.4%
水交社
13 3.6%
山田良吉
11 3.1%
自由黨々報局
11 3.1%
殖民協會
10 2.8%
その他
132 36.9%
358 100.0%
表
2-5
寄贈者別一覧数
(%)
通信
0 0.0%
新聞
7 2.0%
雑誌
181 50.6%
著述
105 29.3%
旧記
27 7.5%
地図
37 10.3%
その他
1 0.3%
総計
358
表2-4
寄贈図書内訳その他の一件は写真帳。
第三節 図書の収集および出版事業
(1)図書の収集
次いで「第四条 右の講究の資料として本会は東南洋に関する左の書類を蒐集す」と標 された事業がどのように行われたかを述べてみたい。
設立当初から収集を開始したのかは不明であるが、記録として現れるのは『報告』14 号 からで、寄贈書名と寄贈者が巻末に記載されるようになる。この寄贈書・寄贈者を「(一)
通信、
(二)新聞、(三)雑誌、(四)著述、(五)舊記」を収集するという条文に則り分類した。
ただし、地図の寄付も多くみられるので、新たに地図の項目も追加し表とした。
表
2-4
で示したように、雑誌の割合が大半を占め、多くの雑誌が寄贈されたことがわか る。しかし、実際は月刊誌の継続的な寄贈も毎月一件として掲載されているということも あり、数値通りに評価することはできず、圧倒的な一位とは言い切れない。次に多く寄贈 されているのが著述である。これは会員でもある著作者が自著を寄贈するというケースが 多く、著述が二番目に多いという理由は頷ける。しかし、三番目に多く寄贈されたのが、旧記を差し置いて地図あるということである。しかも、この地図の大部分が「水路部」と いう寄贈者から寄贈された地図だということである。
「水路部」19)とは、旧日本海軍の組織で、海図政策・海洋測量・海象気象天体観測などを
27
所管した部署のことである。その業務内容に地図製作があるので、水路部からの寄付に地 図が多く含まれていることは当然と言えば当然である。市場で販売もしていたようなので、
機密事項ではなかったようであるが、海軍組織が一般の団体に寄付をするということは、
前例としてあったのであろうか。確かに『報告』の記事中にも地図が添付されることが多 く、これら寄贈された地図が記事作成に大いに利用されたということは想像に難くない。
地図の役割としては、土地の情報を伝える手段として有効であるということばかりでは ない。日本という地理的存在が欧米諸国とどのような位置関係にあり、東アジアと欧米の 結界としての重要性を認識させる役割をなしたであろうし、領土の拡大をイメージとして 膨らませることも可能であったであろうし、また商業的な興味を沸かせることもあったで あろう。こういったイメージを可視化することができるということで、当時の人々にとっ て地図は、強い印象を与える媒体という存在であったであろう。
第一期東邦協会時代だけで
400
冊近くもの寄贈図書がなされたが、この図書がその後ど のような行方を辿ったかは不明である。引き続き第二期東邦協会時代も寄贈を受け入れ続 けており、保管されているとすれば、貴重な図書の収集となっていたことであろう。(2)出版事業
次いで、「東邦協会」名で出版された著作物について述べてみたい。現存している書物と しては、第一期東邦協会時代には、4冊を確認することができる。これら出版物のいずれ もが、東邦協会の方針とも深いかかわりをもっているので、少し紹介しておきたい。
東邦協会出版物第一号は、菅沼貞風の『大日本商業史』である。菅沼20)は、明治期の経済 史家で、福本誠と並び評させる南進論者でもあった。実際にフィリッピンのマニラに出か けるなど、南進論を実行させようと意欲的に行動していたが21)、現地で調査中、マラリアに 罹り死去した人物である。『大日本商業史』は、彼が東京帝国大学の卒業論文として記した ものを、彼の死後、福本誠が校訂を加えて出版したものである。東邦協会は、この『大日 本商業史』の前付にも、『報告』12号22)にも、この『大日本商業史』の出版を大々的に支援 することを表明している。菅沼の死を悼んで出版した形になっているが、本の最後には、『東 邦協会報告』の販売と入会勧誘の宣伝を抜け目なく挟み込んでおり、彼の死によって南進 論が一躍極光を浴びていることの便乗ともいえなくもない。いずれにしても、東邦協会の お墨付きの出版物であったことには違いない。
『内地雑居討論:一大問題』23)は、一大問題と副題がついているように当時、条約改正問 題と共に盛んに議論されていた内地雑居について、
1893(明治 26)年 3
月15
日の評議会後に 討論した議事録を出版したものである。評議員の多くが参加しており24)、東邦協会としての 意志を反映した内容ともいえるものである25)。多くの評議員が内地雑居は仕方がないと認め つつも国権論の立場に立ち、外国資本の参入による日本の危機感、ロシアのシベリア鉄道 開通による南下の危機感を表明しており、大井憲太郎などは、この危機感から「対韓政略28
上、一歩も露清に譲らざるの覚悟が無からねばならぬ」26)とまで熱弁をふるっている。欧米 とどう付き合っていくか、また、清・韓・露の問題に対処しなければならないという対外 硬派的な考えの強い内容となっている。
そして清国・朝鮮に関心をもってもらえるような『朝鮮彙報』『支那彙報』という書物も 出版されている。朝鮮、支那の現状の概要書とも呼べる書物で、初学者にも判りやすいよ うに、分類・整理されている。東邦叢書と銘打たれていることからも、シリーズ化を目論 んでいたのかもしれない。ちなみに、編集者としては、『報告』の編者として名の挙がって いた山中峯雄が記載されている。叢書の一冊に加わることはなかったが、江南哲夫『朝鮮 財政論』という朝鮮経済について述べた本も出版されている。本の出版に先立って評議会 で、東邦協会名の使用許可を決定している27)ことから、朝鮮問題の理解に役立つ書物であれ ば、積極的に支援をしていく、そういった姿勢が出版に関してはあったのであろう。
これら4冊の本は、「東洋諸邦」に関するもの、「南洋諸島」に関するものである。いず れも、事業順序で「講究」の対象として掲げていたものでもあり、東邦協会の趣旨に沿っ た出版物であったのである。なお、表
2-6
に東邦協会出版書物を一覧とし、参考までに第 二期出版物も掲載した。第二期には、第一期同様支那、朝鮮に関する出版物に加え、欧米 に関する出版物、訳本の出版物もラインナップに加わったことを付け加えておく。書名 作者 出版社 年月日 形態
第一期 東邦協会
大日本商業史 菅沼貞風著 八尾書店 1892(明治25)年10月 130p ; 23cm 朝鮮彙報 東邦協会編/東邦叢書 八尾書店 1893(明治26)年11月 335p ; 22cm
内地雑居討論:一大問題 東邦協会編 聚玉館 1893(明治26)年6月 50p ; 19cm 支那彙報 東邦協会編/東邦叢書 八尾書店 1894(明治27)年6月 430p ; 22cm
第二期 東邦協会
欧州新政史(上・下) ミュルレル著・ペートル訳補・東邦 協会訳
八尾書店 1894(明治27)年10月 上下1079p ; 23cm
日本魂 : 古代日本の精神
亜児撒・丈西 (アルサル・
ジヲシー) 述,東邦協会 訳 精華堂 1895(明治28)年3月 16p ; 23cm
海上権力史論 (上)
エー・テー・マハン著/水交
社訳 1896(明治29)年11月 597p 地図 ; 23cm
露国東邦策 ア・ヤ・マクシモーフ 著, 東邦協会 訳
哲学書院 1896(明治29)年5月 165p ; 22cm
朝鮮論 大庭寛一著 八尾書店 1896(明治29)年7月 273p ; 23cm
支那現勢地図 孫文逸仙著 精華堂 1900(明治33)年11月 1枚 ; 103×101cm
29
東邦近世史(上巻) 田中萃一郎著 1900(明治33)年6月 475p ; 22cm
海上権力史 (下)
エー・テー・マハン著/水交
社訳 1900(明治33)年9月
下592p 図版 地 図 ; 23cm 東邦小鑑. 第1輯 八尾書店 1900(明治33)年9月 862p ; 14cm
東邦近世史(下巻) 田中萃一郎著 1902(明治35)年5月 670p ; 22cm 日韓いろは辞典 柿原治郎著 1907(明治40)年5月 489,135p ; 19cm
表
2-6
東邦協会出版書物一覧第四節 探検員の派遣
図
2-1
東邦協会関連 探検地域「第五条 本会は実地視察の為め探験員を諸地方に派遣する事あるへし」と謳われた地 理探検に関する活動は、『報告』中全部で
7
件取り上げられている。東邦協会発足当初から取り上げられているのが、金田楢太郎の朝鮮探検である。金田は、
1892(明治 25)年福島安正
シベリア単騎横断1891(明治 24)年稲益一義
ウラジオストック訪問1891(明治 24)年
金田楢太郎 朝鮮探検1894(明治 27)年
福本誠 朝鮮派遣1892(明治 25)年高橋昌
ニューカレドニア調査 三宅雄二郎南洋探検
30
東京帝国大学の地理学の研究者であり、地震、気象、交通等の研究に於いても多くの成果 を発表した人物である。「本會は本會規約に定むる所の目的及ひ事業の一に由り、先つ探検 員を此半島(朝鮮半島:筆者註)に發遣するに決し、金田楢太郎君に此事を委嘱せり」28)とあ り、
1891(明治 24)年 7
月31
日に日本を出発した金田は、東邦協会の委嘱ということもあり、釜山から京城に、さらには平壌に至る行程中、調査事項などは協会の要望に添った探検す る予定であった。朝鮮国内にあっても、東邦協会からの指示は随時、連絡が行っていたよ うである29)。『報告』6号では、元山からの途中経過報告の書簡が掲載されており、その末 文には、「東邦協會の十月會の決議通りに北部探検に付きては北部旅行中なり、何れ報告は 京城に歸りて後ち一括して送付仕度何卒左様承知可被下候不宣」30)とあり、北部も東邦協会 の要求通り探検する旨を連絡してきている。確かに、「朝鮮探検費補助」31)として
90
円が金 田に提供されており、この資金援助に対する恩義が彼の行動の足かせになっていたのかも しれない。帰朝後は32)、1892(明治 25)年 1
月17
日帝國大学講義室で「朝鮮探検の結果」33)と 題して講演し、その講演録が『報告』9号34)に掲載された。東邦協会の探検事業の幕開けと して行われた金田楢太郎の朝鮮探検は順調な滑りだしともいえるものであったのである。この成功に気をよくしたのか東邦協会は、次から次へと探検員を各地に派遣する。ロシ アのウラジオストックに派遣された稲益一義もその一人である35)。「●浦鹽斯徳通信員浦鹽 斯徳は大陸の東邊に於て邦人の注目す可き重要の一地に属す、而るに従来通信員に適當の 人を得さりしか為めに之を置かす、會員稲益一義君今回實業上の視察を志さして此地に航 す、乃ちこれに嘱托するに通信の事を以てせり、自今其通信は時々報告に掲く可し。」とあ り、「東邊に於て邦人の注目す可き重要の一地」と表現したように、シベリア鉄道着工開始 したことは、東邦協会会員のみならず、当時の人々の関心事であり、その要望に応えるた めの稲益のウラジオストック派遣だったのである。稲益は、現地から「浦潮港通信」とし て度々『報告』に寄稿している。「商業業港撰定の件」「西比利亞鋳道工事の現況」36)、「浦 潮港通信、露國義勇艦隊沿革」37)、「浦潮港通信(八月三日發)、
(一)黒龍江地方經綸意見書(二)
隣國の關係并に將來政略に係る意見」「浦潮港通信(八月十四日發)、(一)セウェリョウ滊船 會社の現況(二)セウェリョウ滊船會社の起源及び其組織、(三)右會社所有の滊船(四)其航 路(五)航海の度数(六)露國政府ヨリ保護の金額(七)日露兩國通商交際の前途」38)など、直接 見聞しない限り得られない貴重な情報が寄せられたのも、現地に通信員を派遣したからこ その成果であったのである。稲益と同時期に、高橋昌も南洋のニューカレドニア方面調査に派遣されている。「●新べ ブリード通信嘱托 會員高橋昌君は五月東京を發して南洋の一島新べブリードの探検に赴 くを以て君に嘱托するに該島の報告を以てす、其通信は達する毎に本報告に上す可し。」39)と
『報告』でその出発を報じている。新べブリードとは、恐らく南太平洋にあるバヌアツの 主要部を構成する諸島のニューヘブリディーズ諸島(New Hebrides)のことと推測できる。
高橋からの通信は、この島の原住民と新西蘭(ニュージーランド)及び英国が織りなす様々 な問題点を浮かび上がらせており、日本が他地域に進出した場合の解決案ともなるような