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米列強から軽んじられないための手段を講じる方法を考え実行していかなくてはならない。

それら諸々のことを講究という形をとり、啓蒙したのであろう。

そういった意味で東邦協会は、より多くの人に日本の現状を啓蒙するのに、適任の会で あった。『東邦協会報告』という機関誌を発行していたので、文章という形で地方まで知識 を広げることが可能であった。地方会員の割合が年々増えていったことは第三章第一節で 述べた通りである。東邦協会の思想を機関紙という文字ツールを利用して日本全国に広め ることが可能であったのである。地方でも同じように知識が広がるということは重要な役 割を果たすことが過去に多くの事例がある。例えば、明治維新の成功の理由に、都市ばか りでなく地方までも学力が高かったことがあげられることがある。また、自由民権運動期 においては都市部と同様に地方でも運動が広がったことによって大きな影響力をもったよ うに、日本中に世界情勢の知識を広げることは、東邦協会の思想を隈なく広げることでも あり、全国的な大きな運動の力になるのではないかと期待したのであろう。

また、東邦協会から得られた同じ知識を共有するという共通性をも有していた。その知 識が意識統合の手段となる可能性は大いにある。自由民権運動が、国会開設、大日本帝国 憲法発布という共通の目的であり、集合体となった意識が近代国家の方向性に大きな意味 をもつこともある。特に知識という理論武装した思想でもあり、理詰めの行動であれば、

容易に人々の心を捉えるエネルギーをもつことにもなろう。

時代的な危機の克服を東邦協会から発信し、まずは、支配層内部に超党派の世論をつく ること、その支配層の形成の後に、広く一般的に日本全体の対外方針に対する世論を形成 すること、そういったことを東邦協会は求めていたのではないだろうか。

東邦協会は、学術団体としての非政治性の盾を持ちながら、政治的活動を意図した鉾を 持っていたと言えるのである。

第二節 情報収集・発信機関として

(1)

情報発信機関として

東邦協会組織が、知識を深め、現実を認識することによって、会員や日本国民の焦燥感 をあおることに対してどれくらい積極的な意図を有していたかの具体的な記録はない。少 なくとも、会員数の増加をはかり4)、「趣旨」を広めようとしていたことは確かである。

(前略)同會員は現時八百餘名にして未だ全國に該趣旨の普及せざると以て來る九 月の委員會に於て該普及法と評決せん為今より評議中なり5)

東邦協会の趣旨を一人でも多くの人に理解させることは、すなわち、東邦協会が知らし めたかった日本の現状を周知することにもつながるからであった。会員となれば、『報告』、

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演説会などさまざまな東邦協会の見解に触れる機会が増える。そして、この『報告』に掲 載される記事、演説会で発表される演目の基調をなしているのが評議員の考えや評議員の 考えに沿ったものが中心となっていることは述べてきた通りである。その意見の大部分が、

当時の政治的課題に対して正面から向き合ったものであったこともまた事実である。明治

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年代は、情報の伝達手段が限られていた時代である。もちろんテレビもラジオもない、

海外の情報にしても、わずかに新聞情報から得られる程度である。地方の人びとが中央で なされていた対外政策に対しての知識を得、行動として表すのは困難なことである。それ を東邦協会は、『報告』という会報を送ることによって、演説会を通して、その他のさまざ まな活動を通して、指導的な役割を果たしたのではないであろうか。その意味で、東邦協 会は、情報の発信機関として有効な会であったであろうし、その情報が絶大な影響を与え る権力機関となったのであろう。少なくとも日清戦争直前は

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人程度の東邦協会会員が 存在していた。

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人の影響力、それも有識者層

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人の影響力は大きなものがあったで あろう。彼らのうち一人でも、図らずも

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人が、公の場で意見を発表することになれば、

波紋を呼ぶことは必至であろう。政府に直接意見を述べるというのではなく、知識体系を 整備することで、政治・軍事による日本政府としての積極的な対外政策、それを誘発する 役目を担ったのであろう。

(2)情報収集機関として

東邦協会は、さまざまな情報の発信を積み重ねることによって、積極的な対外政策へ働 きかける原動力としての役割を果たしてきたと言える。しかし、その一方で、発信すべき より多くの情報を収集することも重要となってくる。その点も東邦協会は積極的に活動を 推し進めていたと言える。探検員を派遣し、現地からの情報を『報告』に掲載し、演説会 において発表される内容からも新しい情報を得ていたことは既に述べてきた通りである。

さらにより多くの情報を得るための試みとして、「懸賞問題」を掲載し、広く一般会員か ら記事募集を行っている。

東部西伯利亞の地誌募集

西伯利亞の地たる僅に日本海一葦の水を隔てゝ近く我北邊と相對し、彼我兩岸の船艦 は三四十時間を出すして互に往來するを得へく、加之夫の大鐵道は六七年の後ち将ふ 亞歐の兩端を連繋せんとす露国との關係是より當に大に密接すへし、我國たるもの此 間に居る、豫め之に應するの準備なかる可けんや仍て本會は先つ我國と最も近邇せる 東部西伯利亞に關する智識を博くせんと欲し、茲に之か地誌を集む、四方の博雅善く 之を詳するのちは左に照して幸に寄稿の勞を取れ、

東部西伯利亞 即ち黒龍 江州 東海 濱州 雅庫 克州 の天然 及び政事 地誌 一

右三州 に繋る地籍 、山脈 、河脈 、港灣 、鑛山 物産 地方 沿革 、人口 、種族 、宗教 、行政 組織 、兵備 、鐵、商業 等を詳記す可し、

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一以上の地誌は自身の實撿若くは他人の著述に由りて得たることを明にす可し 若し他人の著述に據るときは、著者の姓名、幷に著書の題目(原字を存す)を遺漏 なく列擧すへし、

一右の寄稿は明治 廿五年一月卅 一日

一右の寄稿は本會に於て委員を撰みてこれを検校し、其最も正確詳密なるものに對し を期とし、同日までに本會假事務所に寄送す可し、

賞金五十圓 及び賞表

一右最優等の寄稿は「東邦協會報告」に掲載して世に公にす可し、但し、本會の意見 を以て或はこれを取捨添刪することある可し、

を贈興す可し、

其撰に當らさるものと雖も、其寄稿は一切還付せす

麹町區富士見町六丁目三番地 東邦協會 明治廿四年十一月6)

投稿された論文の「検校」委員として、稲垣満次郎、高橋健三、小山正武、志賀重昻の 四名がその任につき7)、選定を開始している。どの程度の量が集まり、どの記事が懸賞論文 の優秀賞であったのかは、『報告』記事のなかからは、読み取ることはできないが、少なく とも東邦協会の評議会にもたらされる受動的な情報のみでなく、広く一般からより多くの 情報を集めようとしていたことは事実である。

また、政府内の情報を収集しようと外交文書公開をも試みている。その理由として、『報 告』は次のように述べている。

其意にいふ、外交秘密といふ事は現在實行せられつゝある外交の實件に就きて之を謂 ふものにして、過去の實例までを包含するものに非ず、是故に英には「ブリューブッ ク」の如きあり、米には議院の報告の如きあり、然るに本邦従来の有様は一切萬事を 秘密の圏内に容れ、公衆をして其事由の顛末を知らしめす、是を以て、人々外交上に 謬見を抱きて、又外交上の智識を涵養するの便を得ず、因て此に當局に建議するに従 来外交上結了事項に關する文書を公にせんことを以てす可しといふにあり8)

英米の先進国は外交文書を公開し、その事の次第を公開しているにも関わらず、日本が 公開していないのは、英米に劣ると言わんばかりである。

東邦協会は、具体的にどういった外交文書という希望は述べてはいないが、壬午軍乱、

甲申事変の顛末とその後の済物浦条約、漢城条約、天津条約で清国とどのような経過で条 約を結んだのかという点にあったと推測できる。壬午軍乱では、多くの日本人が殺害され たにも関らず、結果として清国が朝鮮へ出兵し、閔氏の復権を果たさせるなど、日本にと って不満の残る結果が公表されているのみであった。甲申政変に関しても、日本政府が関 与したとの疑いがあるにも関らず静観するのみで、天津条約では朝鮮からの撤兵までも約 束してしまう始末である。過去の不始末を暴露し、世論の喚起を目指す、そういった意図 もあったのであろう。