1894
年(明治27)年 7
月25
日、仁川南西で日本軍による清国艦隊への奇襲攻撃(豊島沖海 戦)、成歓・牙山の戦闘が行われ、日清両国は戦争状態に入り、8月1
日、両国とも宣戦布 告して日清戦争がここに開始された。日本が清国に対して宣戦布告するに至るには、さま ざまな紆余曲折があった。急な思い付きではなく、周到な準備のもと、その火ぶたを切る 機会をうかがっていたのである。では、東邦協会はこの開戦に至るまでの過程に何等かの 影響を与えたのであろうか。また影響を与えたとするならば、どういった点であったので あろうか。第一に、日本の軍備が増強され、十分に戦争に耐えうる状態にはどのくらいの軍備が必 要であるかなど、他国との軍事状況比較、日本の軍事現状などの啓蒙活動を行ったという 点である。軍事に関しては、政策、軍事費ともに政府、帝国議会承認によるもので、東邦 協会が直接関与することは不可能である。しかし、関与できる個人に影響を与えるという ことは可能である。「注目記事」でも述べたように、日本の軍事力が清国、欧米と比べて劣 ることを繰り返し記事として取り上げることによって危機感を煽ることをした。また、マ ハンの「海上權利の要素」を掲載するなど、軍事知識の啓蒙にも努めた。演説会において も軍事に関する演題で催したり、さらには、東邦協会事務所内に各国の地図、軍事関係の 出版物などを取りそろえ、誰でもがすぐ手に取れるように配慮もした。東邦協会は、この ように人々の間に軍備拡張は重要であるという認識を浸透させるというソフト面から軍備 増強に尽力したのである。それは、第五議会、第六議会の衆議院の様子から顕著にみてと れる。朝鮮に甲午農民戦争が起きるのは、1894(明治
27)年 6
月のことである。このころ の日本の政局はというと、前年の12
月条約改正で解散になった衆議院の総選挙が3
月に行 われたにもかかわらず、内閣弾劾上奏案が可決されて、6
月には再び解散になったほど荒れ、混迷していた。しかし、日清間の風雲が急を告げると、きのうまで明治の藩閥官僚政治を 攻撃し、血みどろの抵抗をつづけていた硬六派を中心とした野党政治家は、清国との砲声 一発で、政府攻撃を中止したうえ、一億五千万円もの臨時軍事費に対して、諸手をあげて 可決したのである。政界はこぞって軍事費の重要性に納得し、強硬外交を主張することへ と傾倒していったのである。
第二に、経済力が充実していることが重要であるという点を啓蒙したことである。これ に対しては、発足の初期段階から豊かな資源の開発・取得が必要であると研究や探検派遣 など積極的な活動をしていた。南洋進出の具体的な達成は叶わなかったが、経済的な発展 を目指すことは重要であるという認識の普及を図ったという点では、十分に貢献したので あろう。
第三は、明治政府が一丸となって清国に進出することを目指すという方針を容認させよ うとした点である。概括的に述べると、1880 年代前半は、列国の干渉を招く可能性がある ため、清国との衝突は避ける方針であり、1880 年代後半からは、東アジアにおけるロシア
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の脅威を念頭に置きつつ、朝鮮半島を足がかりとして進出を目指すという方針であったと されている。日清戦争開始直前までは対外硬派は、条約改正問題で第二次伊藤博文内閣に 対して反政府キャンペーンを行っていた。しかし、朝鮮での東学党農民の騒擾をめぐって は、強硬外交の姿勢をとるということで一致していた。条約改正問題に対する反内閣勢力 から目をそらせることができ、危機を脱出する好機であるととらえたのである。思惑にお いて違いはあるものの、朝鮮への派兵を即時決定し、日清戦争開始へと突き進んだのであ る。第二次伊藤内閣が時期尚早であると見送りを判断したとしても、国会を開戦決定に追 い込むことはできたであろう。硬六派は第三回総選挙で議席数を減らしていたものの1)、副 会長の近衛篤麿はじめ貴族院において伊藤内閣批判勢力として台頭していたし、志賀重昂 が代表的役割を果たしていた全国新聞記者が連合して対外硬派を支持していた2)。親隣義塾 支援の節で、硬六派の帝国議会議員に東邦協会会員が多く含まれているということを述べ てきた。その彼らが開戦要求の議案を提出し、伊藤内閣を苦境に追い込むことは可能であ ったであろう。
第四は、開戦にあたって、正当な理由づけができ、国際的批判がないかという問題であ る。伊藤博文自身が日清戦争開始直後に執筆したとされる『機密日清戦争』に、「日清事件 内閣総理大臣奏議」という文書があり、この著書の冒頭は次のような言葉から書き始めら れている3)。
凡ソ一國ト事ヲ講ズルニ當リ、敵國に對シテ、進デ軍戰に従事スルト同時ニ、交戰 ニ伴フテ他ノ邦國ト外交關係ヲ生ズルコトノ避クベカラザルハ、今更言ヲ待タザル所 ナリ。
伊藤が巻頭にまでもってきて強調したかったのは、日本が清国と戦争をするということ は、戦争という事態のみならず、他の諸国との間に外交問題が生じることは、避けること ができないということであった4)。欧米列強は、
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世紀頃から東アジアへの侵略を始め、19
世紀になるとますます野心的になる。イギリスは、アヘン戦争の勝利後、次々と多くの商 業利権を獲得し、フランスは清仏戦争に勝利をおさめ、北上の機運を狙っていた。ロシア はシベリア鉄道建設に乗り出し、極東シベリアさらには中国東北部への勢力を広げようと していた。その他、ドイツ、アメリカといった強国もその侵攻を激化させていた。なかで も朝鮮は、日本海や黄海、東シナ海に面するという位置から戦略的価値をもっており、イ ギリスの巨文島、フランス、アメリカの江華島占拠など以前から欧米列強にとっても関心 の地域だったのである。そのため伊藤博文の言説にもあるように、「他の諸国との間に外交 問題が生じるのを避け」、他国から非難を受けないように万全を期する必要があったのであ る。その点、東邦協会は事前の準備に抜かりなかった。「万国公法の研究」が東郷平八郎の「高陞号」の対応に有用であったことは前述した通りである。全世界が注目していた小国 日本が眠れる獅子清国に宣戦布告したことが、欧米列強に正当な戦争であると認めてもら えることこそが重要であったのである。
第五に、国民の世論が同調的であるかどうかという点である。いざ戦争となれば、実際
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に戦うのは国民である。国民国家においては国民が戦争という事実を受け入れ、容認して いなければ、戦争は開始し得ないのである。特に日本人は、中世より特定の問題解決や目 的達成のためには徒党を組み、一揆・打ちこわしという形で多くの要求をおこなってきた。
日清開戦より時代は少し遡るが、
1876
(明治9)年、地租軽減を求め全国各地で農民一揆が
頻発する。政府に抵抗するエネルギーは莫大なものがあり、地租を引き下げざるを得なか ったという事例もある5)。戦争ともなれば、徴兵制、物価の急騰など、様々な影響を受け、一番多くの困難に直面せざるを得ない民衆が、反対の声をあげることにもなりかねない。
それゆえ、いかに不平・不満の声をあげさせないか、いかに戦争という事実を受け入れ、
容認させるかも、政府にとっては重要課題であったのである。参謀次長川上操六は、「事態 を戦争に導くために世論操作の必要性を感じていた。」6)と指摘しているように、開戦に向け ての諸条件が揃ってはいたものの、清国に対する敵愾心を鼓舞し、国内世論を統一すると いう最重要条件の後押しが必要であったのである。しかし日清戦争においては、川上のい うように「世論操作」を意図的にする必要もないままに、日本国内にはさしたる反対意見 もなく7)、逆に「清国討つべし」との風潮が国民に拡大し、日本政府は開戦へと向かってい った8)。この世論を後押しした一例が、1894(明治
27)年 3
月28
日の「金玉均暗殺事件」で あると考えられる。外務次官林董は、回顧録の中で「牙山の派兵は日清戦争の導火線たる に相違なきも、之を促したるは実に金の暗殺と、此時の清国の挙動なりと予は信ずるなり。」9)と書き記しているように、この事件を契機として清国・朝鮮に対して硬化した世論の動向 を読み、これを好機とみて日本政府が日清開戦に踏み切ったというのは事実であろう。こ の世論を導く中心的役割として「故金玉均友人會」の活動があり、そのメンバーの多くが 東邦協会会員であったということは、すでに述べたとおりである。「廣く世間に訴へて世論 を喚起する事」を目的として掲げ、その目標を達成するために、「盛大なる葬式を営」み「新 聞紙」「演説等の力」に訴えていく。一韓客の暗殺という事件が、壬午・甲申事変以来の積 年の想い、「清国・朝鮮は戒めるべき存在である」という世論へと繋がっていったのである。
まさしく、これを受けて、日本と清国が戦端を開くことに対して、オピニオンリーダー等 は大挙して戦争擁護の意見を述べていくことになる。
福沢諭吉は、日清両国海軍が衝突した豊島の海戦の勝利の報に接した時、日清戦争の意 味について次のように述べた。
(前略)戰争の事實は日清兩國の間に起りたりと雖も、其根源を尋ぬれば文明開化の 進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものとの戰にして、決して兩國間の争に非ず。
(中略)幾千の清兵は何れも無辜の人民にしてこれを鏖にするは憐れむべきが如くな れども、世界の文明進歩のためにその妨害物を排除せんとするに多少の殺風景を演ず るは到底免れざるの數なれば、彼等も不幸にして清国の如き腐敗政府の下に生れたる その運命の拙なきを自から諦むるの外なかるべし(後略)
(明治二十七年七月二十九日付))
10)日本と清国の戦争は、文明開化の進歩をはかる者とその進歩を妨げようとする者との戦