第一節 東邦協会のその後
東邦協会は、日清戦争開戦後も『東邦協会報告』から『東邦協会会報』と機関誌名を変 更し、継続する。副島種臣は、引き続き東邦協会の中心となって会の運営を推進していく ことになる。「清国革新之急務」1)や「同邦人に擬す」2)など清国・朝鮮の記事は引き続き多 くみられ、会の関心事は、日清戦争後も継続され、戦後の清国といかなる距離をもって交 誼を結ぶかに苦心のあとを見ることができる。特に孫文と東邦協会の関係は注目すべき点 である。東邦協会の会員として「孫文」の名前を確認することはできないが、会として孫 文逸仙著『支那現勢地図』を発刊し3)、同「支那保全分割合論」を発表したのも『東邦協会 会報』誌上であった4)。他には
1896
(明治29)年 2
月には、裕庚清国公使招待して宴の会を 催すこともしている。福本誠提案の「支那調査会」の開催も引き続き清国情勢に注目をし ていたことを示すものであろう。いずれにしても、副島種臣会頭が逝去する
1905(明治 38)年 1
月以降も、副会頭を務め ていた黒田長成が後継者となり、東邦協会は活動を継続していくことになる。しかし、会 員は減少の一途をたどり、1914(大正 3)年7
月刊行の『東邦協会会報』を最後に、実質 的活動を停止した。第二節 総括と今後の課題
東邦協会は日本の針路を模索するという時代、1891(明治
24)年 5
月に産声をあげた。小沢豁郎、白井新太郎、福本誠の「我が人心を外に向はしむる方法」を実行に移すとい う初志は、国権論と東洋の盟主論の二つの論理を実行することへ展開していく。そしてこ の目的のためにさまざまな手段を講じていくことになる。
東邦協会の思想的な趣旨や活動に共鳴し参集した人々によって、具体的な活動も展開し ていく。「事業順序」で掲げられた「講究」の目的どおり学術団体としての活動がそれであ る。地理、商況、兵制、殖民、国交、近世史など多彩な内容と著名な有識者の投稿記事が 掲載された『東邦協会報告』を発刊し、演説会の開催や、図書の収集によって、すこしで も会員が多くの情勢知識を得る機会も設けることもした。ロシア語学校を設立し、ロシア 認識を深める後押しもした。そして、それら活動は、会員からの会費のみではなく、寄附 金や明治天皇からの下賜金など多くの協力者によって運営されたものであった。
これら東邦協会活動の水面下には、「講究」の名を借りて、刻々と変化する世界の列強諸 国からの脅威を東邦協会から発信し、まずは、支配層内部に超党派の世論をつくること、
その後に、広く日本全体の対外方針に対する世論を形成することが目的にあったのである。
117
例えば大石正巳公使の防穀令事件対応や朴泳孝の親隣義塾支援活動と金玉均暗殺事件をめ ぐる演説会や葬儀における対応など、清国との来るべき開戦を視野に入れ、朝鮮問題に十 分な配慮をしていたことを示すような活動ばかりであった。ロシアについても同様である。
シベリア鉄道開通の暁にはロシアは南下を開始し、朝鮮半島へ進出してくることは明確で ある。露西亜語学校の経営を推進し、大石正巳のロシア批判演説を牽制したのは、ロシア に対する脅威の表れであった。また南洋地域にも植民地域としての関心から記事や演説会 など多く取り上げることをした。欧米列強の脅威に対処するために、軍事分析と万国公法 の研究を滞りなく行うこともした。しかし学術団体としての非政治性の盾を持ちながら、
政治的活動を意図した鉾を持っていたと言えるのである。甲午農民戦争勃発にあたり会長 の副島は、具体的な行動に移るべき事を提案し、会員の大半はこれに応じている。そのた めの、情報収集・発信も積極的に行った。国権を拡張するにはどう対処したら良いのか、
そして、日本が東洋でいかにイニシアティブをとるか否かということに対しても、大きな 役割を果たしたといえる。当時の会員の意識の中に、その影響を与えることができるよう な会の運営を行っていった。
そして、これらの活動の真の目的として国権拡大の正当性を中央の人々に、そして地方 の人々にも浸透させようとする意図もあった。軍事力の必要性、経済力の充実、対外進出 方針が政府内に浸透すること、国際法上問題がないか、国内世論の賛成が得られるか、こ れらの条件がそろってこそ、対外進出は可能となるのである。東邦協会の活動は、これら 条件を整わせる活動でもあった。そして遂に日清戦争の火ぶたが切られたときには、これ までの東邦協会活動が、日清戦争開戦に与えた影響でも述べたように、世論の後押しの一 助とも成っていった。そして実行的な活動としては、東邦協会会員が日清戦争の開始の引 き金を引く役割を果たそうともした。
壬午、甲申政変を経て朝鮮・清国との関係は緊張状態を深めつつあった近代日本の進路 に、そして日清戦争開戦への道を進ませるのに、東邦協会活動はその一翼を担ったのであ る。
今回は東邦協会が存続していた
1891(明治 24)年 5
月から1914(大正 3)年 7
月までの うち、第一期の1891(明治 24)年 5
月から1894(明治 27)年 7
月までの三年間のみを取 り上げた。その後、東邦協会は
20
年間もの長きにわたって継続していくことになる。第二期の1894
(明治
27)年 8
月から1914(大正 3)年 7
月までの東邦協会研究を、今後取り組むべき課題として、掲げておきたい。そして、さらなる新しい東邦協会像を立証できればと考えて いる。
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<註>
序章 東邦協会研究の視点
1) 2012
年9
月20
日現在のことであり、その後の進展を望んでいる。2)
衛正斥邪とは、朝鮮において、正当を尊び邪悪・邪心・邪道を撃退する、という閔氏 政権期に盛り上がった思想である。それは近代文明を拒否する超保守的な身分秩序と 華夷秩序を守ろうとする動きとして現れる。(熊谷正秀著『日本から観た朝鮮の歴史』2004.11、展転社)
3)
当時、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っており、ま た、対外政策では、西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取っていた。開国間も ない日本も、衛正斥邪の対象とみなされていた。1869(明治2)年、日本の外交使節であ
る佐田白茅、森山茂に対して、「洋夷をまねる日本は小洋夷である」として修好を拒否 している。(洪相圭『韓国の歴史』東振、1983、p.249)・大院君は「洋夷侵犯するに、戦いを非とするは即ち和なり、和を主とするは売国なり」と書かれた斥和碑を建てて、
あえて鎖国を国是とした。(金完燮著荒木和博、荒木信子訳『親日派のための弁明』
2002.7.18、草思社)
4)
数十名を越す死者を出し京城から撤収、仁川に逃れた。邦人犠牲者の中には清国兵に よって犠牲となった婦女子もあった。殺害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇 徒によって殺害された以下の日本人男性は、軍人であると否とにかかわらず、戦没者 に準じて靖国神社に合祀されている。死者は、堀本禮造をはじめとして日本公使館員、巡 査 、 語 学 留 学 生 な ど
10
名 以 上 に お よ ん だ 。JACAR(
ア ジ ア 歴 史 資 料 セ ン タ ー)Ref.A01100233700、公文録・明治十五年・第百八巻・明治十五年九月~十一月・陸 軍省(国立公文書館)。5)
井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』第3巻、原書房、1968、p.457。6)
ソウルで写真屋を始めた横浜出身の一家は、中国兵に夫を殺され、妻は陵辱された上、幼児二人とともに監禁されたが、ようやく脱出し横浜に戻った、だが妻は「身の不幸 を恥じて」尼となり、三歳の男の子は「支那人とさへ見るときは、誰れ彼れの差別な く忽ちワット泣き出し逃げ隠れんとするよし」(『自由燈』1885.1.6)と伝えられ、ま た駐在武官の磯林真三大尉は「朝鮮人得意の抛石(なげいし)に当てられ。剰さえ数十 箇所の手傷を負うて斃れ」るや、群集が殺到し「その腹を刮りて肝胆を取り出し、鮮 血の滴るをも顧ず先を争うてムシャムシャ食える由、其挙動の残酷野蛮なる実に人類 の所業とは思われず」(『自由燈』1885.1.7)などの記事も見受けられる。
7)
開戦論ばかりではなく、『東京日日新聞』では、1872(明治15)年 8
月17
日から5回に 渡って、「朝鮮の内乱干渉不可」を主張している。8)
甲申事変については順次説明していくので、ここでは詳述しない。また経過等は、琴119
秉洞著『金玉均と日本 : その滞日の軌跡』緑蔭書房
1991.7、古 筠金玉均正傳編纂委員
会編『古筠金玉均正傳』高麗書籍、1984.4に詳述されている。9)
この条約中の「行文知照」は、朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することであ り、後に甲午農民戦争に日本が干渉する根拠となった。10)
竹内好が完結した概念では規定できないと分析し、「史的に叙述できるという考えは、たぶん歴史主義の毒におかされた偏見だろう」(「アジア主義の展望」『現代日本思想 体系第九巻アジア主義』解題、筑摩書房、1963、p.13。)と述べたように、「アジア主 義」はひとつの言葉で括ることのできない広範なものであり、また、アジア主義者と 称される人それぞれによって、目指すもの・到達点は異なるものである。アジア主義 の分析に関しては、次稿の課題としたい。
11)
狭間直樹「初期アジア主義についての史的考察(5)第三章 亜細亜協会について,第四章 東邦協会について」東亜 (Asia monthly.) [ISSN:0387-3862] (霞山会) 414 、2001.12pp.56-75
や黒龍会編『東亜先覚志士記伝(上)』原書房、1974.10 でアジア主義団体の 一つとして取り上げられている。12)
『大阪毎日』1891年5
月11
日付。13)
筆者の調査では、日清戦争開始以前の最高人数は、明治27
年6
月時点で 1238名であ る。但し、増減をカウントして調査したものであり、多少の誤差があることはご容赦 願いたい。ここで挙げた977
名の数字は総会の会計報告に提出された数字でその時点 で会費の払込みを完了している人数である。14)
先行研究に関しては、第三節 先行研究の概観で改めて詳しく述べる。15)『東邦協会報告』を創刊した 1891(明治 24)年 5
月31
日を創立とするものと、第一回 総会を開催した同年7
月7
日を創立の日とするものと両者を考えることができるが、筆 者は『東邦協会報告』の発行を実質的な活動開始と見做し、5月31
日を創立と考えて いる。16)発行停止の理由に関しては、他にも様々な推測が可能であろうが、今回の論題とは直
接関係しないので、次稿に譲りたいと考えている。17)京都大学、北海道大学など各大学図書館の保管状況(表 2-2『東邦協会報告』所蔵状況
一覧参照)からみても、1914(大正 3)年
7
月の231
号が最終となっており、恐らくこれ 以降の発刊はなかったのであろう。18)第一期は、日清戦争開始まで、第二期は第一次世界大戦開始までというのは偶然であ
ろうか。狭間直樹「初期アジア主義についての史的考察(5)第三章 亜細亜協会について, 第四章 東邦協会について」(東亜(霞山会)(414)、2001.12、pp.56-75)にも同様の指摘 がある。19)どのような目的を達成したかという点に関しては、本論文の主眼となる点であるので、
後章にて追記していくつもりである。