(1) 宮仕
前年は藤壺の崩御による諒闇で五節は行われず、2 年ぶりの行事ということで、貴族たちは 張り切った52。『紫式部日記』の寛弘5年(1008年)の五節に「にはかにいとなむつねの年より も、いどみましたる聞こえあれば」(新編175頁)とあるので、寛弘5年の五節が少女巻の五 節のこの表現のヒントになったのだろうか。(そうであるならば、少女巻の執筆は寛弘 5 年の 11月以降ということになるのだろうか。)寛弘5年の五節は諒闇明けなどではなかったが、敦 成親王誕生の慶事で、大変華やいだ気運があったのだろう。寛弘5年の新嘗祭の舞姫献上者た ちは、公卿が新任参議の藤原兼隆と藤原実成、殿上が尾張守藤原中清と丹波守高階業遠だった。
兼隆はその年の正月28日に24歳で従三位で参議となっていた。実成は34歳で同じくその年 の正月28日に正四位下で参議となっていた53。
ところで少女巻のこの年の五節は特別なものだった。「按察大納言、左衛門督、上の五節に は、良清、今は近江守にて左中弁なるなん奉りける。みなとどめさせたまひて、宮仕すべく、
仰せ言ことなる年なれば、むすめをおのおのたてまつりたまふ。殿の舞姫は、惟光朝臣の」(新 編③59頁)とあるように、今年は例外的にすべての舞姫たちは宮仕することになった。光源氏 の舞姫の惟光の娘以外には、公卿では按察大納言と左衛門督が、殿上分としては近江守で左中 弁である源良清が献上する。宮仕させるという仰せごとがあったので、公卿たちも実子を献上 するというのだ。
(イ) 宮仕の意味するところ
少女巻で、舞姫たちがとどめられてする「宮仕」が意味するところは何なのか。
古代、少なくとも宇多朝ごろまでは、五節の舞姫は帝と共寝して、キサキとなる例があり、
公卿は舞姫を後宮選納の手段と考えて、娘を綺羅を磨いて差し出した。結果として献上される 舞姫たちによってキサキの数は膨れ上がったとも言われる。醍醐朝のころには、舞姫たちは「燕 寝」に預かることなく虚しく家に帰る54ようになって、公卿たちの実子献上は途絶えたと考え
52 「上人の心地も常よりもはなやかに思うふべかめるとしなれば、所どころいどみて、いといみじくよろづ を尽くしたまふ聞こえあり」(新編③59頁)とある。
53 『公卿補任』による。
54 三善清行「意見十二箇条」第五条「減五節妓員事」による。
30
られている。その後も、大嘗会の舞姫たちは叙位に預かったが、新嘗祭には叙位もなく、莫大 な費用のかかる舞姫献上は忌避されるようになった。三善清行はこの状況を憂慮して、「毎年 同じ舞姫に勤めさせ然るべき俸給を与えるよう」提言を奏上した(「意見十二箇条」第五条「減 五節妓員事」)が、実現された形跡はない。「寛平御遺誡」(逸文)に、公卿は「雖非其子、必令 求貢」(その子に非ずといえども必ず貢がしむ)とあるので実子でなくても構わなかったが、殿 上分は女子のあるものが選ばれた。『年中行事抄』に「蔵人式云」として、「但殿上舞姫。召仰 四位五位有女子之者」とある。「女子ある者」が選ばれたのだから殿上分は実子と規定されてい たと解釈される。
舞姫の入内は紫式部の時代には既に行われてはいない。しかし、知識としては、衆人の知る ところであったと考える。『住吉物語』という物語があるが、現存本の『住吉物語』では女主人 公の父左衛門督中納言は娘を五節の舞姫として入内させるつもり55で、何か月も前から準備を はじめることが、大きな筋立てになっている。『住吉物語』の古本(原作)の成立は『源氏物語』
以前の『落窪物語』の成立前後といわれており、『源氏物語』の中にも『住吉物語』は登場して いる。六条院に引き取られた玉鬘が、自分の数奇な運命を『住吉物語』の女主人公に重ね合わ せる場面である56。古本住吉は散逸して現在は残っていないのだから、現存住吉がどの程度ま で古本住吉と共通なのか確定はできない。古本住吉と現存住吉の関係に関しては多くの研究者 が論を重ねてきているなか、上坂信男は「平安朝に通行した、いわゆる古『住吉』はその本質 においても現存本とあまり隔たりのないものとみて差支えないようである」(上坂 1981:82)
とか、「『住吉』は平安朝の古い俤を伝えているから、構造の骨格に触れるような重要事象にお いて変改を加えることができなかったものと考える」(上坂1981:88)と述べている。また、
稲賀敬二も、人物、土地などに相違はあるものの「現存本は古本の筋を大体において踏襲して いるものと見て大過はない」と述べる(稲賀 1978:56)。もし、舞姫入内が古本住吉になけれ ば、そこから時代が下り、舞姫入内の記憶がますます薄れていった時点で、改編者が、古本に はない舞姫入内の慣例を、全く新しく考えついて、読者も共通理解のあるものとして、それを 物語の大きな柱である女主人公の入内の予定に利用しようとするだろうか。女主人公の舞姫入 内が大きな柱として古本住吉にあったからこそ、現存住吉にも受け継がれたと考えるのが自然 であろう。すなわち、舞姫が入内した習慣があったということは『住吉物語』から『源氏物語』
のころには、作者と読者に共有された知識であったと考える。
55 中納言の娘の入内については、〖補注1〗「中納言の娘が女御となった例」を参照。
56 蛍巻(新編③210頁)にある。「住吉の姫君のさし当たりけむをりはさるものにて、今の世のおぼえもなほ 心ことなめるに、主計頭がほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらへたまふ」で、小 学館新編の現代語訳では、「住吉物語の姫君が、いろいろなめにあったその当時はいうまでもなく、現在で もやはり評判は格別のようだが、主計頭がすんでのところで姫君を盗み取ろうとしたとかいう話などを、
あの太夫監の忌まわしさに思ひ比べていらっしゃる」である。
31
(ロ) 少女巻の冷泉後宮の現況
では、ここから『源氏物語』少女巻における公卿の実子献上と宮仕を考証して、この「宮仕」
の政治的意義を探る。
澪標巻で冷泉帝は11歳で元服そして即位した。即位は2月で57、諒闇でもないので大嘗会は 即位年となる。11歳であるから実質的な婚姻にはまだ早かったが、即位の年、光源氏のライバ ル権中納言(薄雲巻で大納言に昇進)の娘が入内して弘徽殿女御となった。女御は12歳で、冷 泉帝も「よき御遊びがたき」(新編②322頁)に思った。また、先帝の后腹の兵部卿宮は澪標巻 で娘の入内を望んでいたが果たせず(新編②301頁)、少女巻にはなんとか入内している。入内 準備中の兵部卿宮の娘を、藤壺宮は「宮の中の君も同じほどにおはすれば、うたて雛遊びの心 地すべきを」(新編②332頁)と言っているので、弘徽殿の女御と同じぐらいの年齢だったこと が分かる。少女巻初めで内大臣光源氏養女の秋好が弘徽殿女御を抑えて立后を果たした。そし て、少女巻では冷泉帝は既に15歳になっていた。
一方史実では、一条天皇に第一子脩子内親王が誕生したのは長徳2年(996年)だから天皇 17歳の時だった。『源氏物語』の冷泉帝もそろそろ子作りのできる年となっている。少女巻時 点で冷泉の後宮にいるキサキたちは秋好中宮、弘徽殿の女御、王女御の3名である。
a. 秋好中宮-光源氏の養女
前坊と六条御息所の間の遺児で、御息所の没後、光源氏が養女にして冷泉帝に入内させた。
少女巻で、五節の少し前に、弘徽殿の女御を抑えて立后したばかりである。24歳で出産適齢期 だが、冷泉帝が幼かったせいも大きかろうが、まだ皇子女は挙げていない。
b. 弘徽殿の女御-内大臣の娘
女弘徽殿の女御は、澪標巻で父親が権中納言の時に、祖父摂政太政大臣の養女の格式で12歳 で入内した。冷泉帝は 11 歳だったから格好の遊び相手となった。父親はこの五節の少し前に さらに内大臣に昇進した。紫式部の時代当時の内大臣たちは、形式的な席次は大臣の末席でも、
実際は次期の政権担当者と目されていたから、内大臣の娘が後宮で占める地位は重いものだっ た。内大臣は常置の官ではないので例は少なく、以下が一条朝を含んで道長の息子藤原教通ま
57 即位が7月より後だと大嘗祭は翌年になる。
32
でのすべての内大臣である。平安以前の初期の内大臣とは性格も異なっていたので、10 世紀
(901年~1000年)という括りで観れば、以下の下線で示したわずか5人を数えるだけである。
<教通までの内大臣たち58>
宝亀八年(777年) 内大臣 従二位 藤原良継(62歳)正月2日任内大臣。
宝亀十年(779年) 内大臣 従二位 藤原魚名(58歳)正月1日任。
昌泰三年(900年) 内大臣 正三位 藤原高藤(63歳)正月28日任。
天禄三年(972年) 内大臣 従三位 藤原兼通(48歳)11月27日任。
天延2年(974年)2月28日任太政大臣。
正暦元年(990年) 内大臣 正二位 藤原道隆(38歳)左大将。5月8日関白。26日摂政となる。
正暦二年(991年) 内大臣 正二位 藤原道兼(31歳)9月7日任。
長徳元年(995年)関白(「七日関白」)。 長徳元年(995年) 内大臣 正三位 藤原伊周(22歳)3月9日宣旨云 関白病間可行公事云々。
長徳三年(1001年) 内大臣 正三位 藤原公季(41歳)7月5日任。
寛仁元年(1017年) 内大臣 正二位 藤原頼通(26歳)3月4日任。16日摂政となる。
治安元年(1021年) 内大臣 正二位 藤原教通(26歳)7月25日任。
藤原兼通は天延2年(974年)2月28日内大臣から任太政大臣。道隆は任内大臣の翌年内大 臣のまま関白就任、すぐに摂政(それから内大臣を辞す)。道兼は正暦5年(994年)8月右大 臣になり、翌年長徳元年4月関白。故右大臣師輔の息子の公季は内大臣の後、右大臣を経て(左 大臣は経ずに)太政大臣になっている。道長が権力を掌握し切れていない時期である。
『源氏物語』においても、光源氏が准太上天皇となって太政大臣が空席になると、内大臣が
(左右大臣を経ずに)昇進しているし(「藤裏葉」新編③454頁)、光源氏自身も明石から帰京 したのちは元義父の太政大臣の権威のもとで、内大臣として政治の実権を握ってきて、少女巻 の五節のわずか前に内大臣から太政大臣に昇進した。薄雲巻では、出生の秘密を知った冷泉帝 が、光源氏に、元義父の太政大臣が薨去して空いた太政大臣への昇進を勧めたことがあったが、
内大臣から太政大臣への昇進というのは特に殿上人たちの疑念を招くような異常な人事では なかったことが前提としてあった。
高橋麻織は、澪標巻での弘徽殿女御の入内については、光源氏は容認しただけでなく、むし ろ積極的に迎えたと考える(高橋麻織2016:49-50)。その時点では六条御息所の遺児はまだ光 源氏の養女となっていないので、源氏自身が入内させうる姫(養女)はいなかった。そして有
58 『公卿補任』より作成。