第3章 『平家物語』の時代の五節の献上者たち
第1節 献上者の負担の増大 舞姫の参入と童女御覧を巡る攻防
各々の献上者の検討を始める前に、前節の解官騒動でも問題となった舞姫参入・童女御覧の 負担に関して、九条兼実の童女御覧の顛末を紹介する。
五節も平安後期からことに娯楽性を強めていく。特に、神事とは関係なく、美しく着飾った 童女や下仕を眺めるという娯楽にすぎなかった童女御覧も、行事として定着して、いよいよ大 掛かりなものになってゆく。そのため、その支度を嫌って、童女御覧に童女を奉仕しない献上 者たちも増える。丑の日の舞姫の内裏参入に関しても、衣装や禄などの準備が必要な正式の参 入をさけて、簡略に密々に参入してしまう267ことが常態化するに及んで、参入の儀礼を以て参 入すべき舞姫と、童女御覧を勤仕すべき献上者をあらかじめ決定しておくようになる。各家日 記の五節の参入の日に「○○参議」(しばしばこの「議」の字が誤用されるが官職名の参議では ない)とあれば、献上者○○は「参入の儀を行って参入した」、あるいは「参入の儀を行うこと になっている」という意味であり、『平家物語』の時代の五節の記録に、単に「参入」と付せら れている場合には正式な儀礼を行って内裏参入する舞姫の献上者、「御覧」は童女御覧を奉仕 する献上者を意味する。(但し、「此日五節参入」とあるような場合の「参入」は参内と同じ)。 参入の儀はしばしば主上も見物する。例えば、長承元年(1132年)には加賀守顕広(藤原俊成)
の舞姫は参入の儀を以て参入したが、主上と中宮、さらに女院がこれを御覧になった。(御覧の 御座が設営されている。)『満佐須計装束抄』にあるように、舞姫の他、童女・下仕など舞姫に 従って参入する女性たちも毎日の行事によって衣装が変わる。この衣装調達も大ごとだった。
史料にはしばしば、中宮や貴顕から舞姫あるいは童女の装束が送られたことが記されている。
勿論、中宮などから装束を賜うのは栄誉としても重要ではあったが、実際の費用負担を減じる 意味は大きかった。すべて新調していたら大変な物入りになる。
童女御覧を命じられた献上者の葛藤を示した好例が『玉葉』にある。元暦元年/寿永 3 年
(1184年)の大嘗会では、当時は権大納言兼右大将であった良通が献上を命じられた。良通は
『玉葉』の記主である兼実の嫡男で、18歳。兼実と敷地続きの邸に住んでいた。そこで、兼実 が多方面に亘って指示を出している。『玉葉』の元暦元年については高橋秀樹の非常に優れた
『玉葉精読 元暦元年記』(以下『玉葉精読』と略称する)が刊行されており(高橋秀樹2013)、 その年の朝廷の状況、兼実をとりまく環境などを具さにかつ正確に理解することができる。こ こで『玉葉精読』の助けを借りて、兼実が良通の童女御覧を渋々受諾させられた過程と手配の 苦心を追おう。五節献上者は良通であるが、父の兼実が良通に代わって朝廷からの使者に返答 などを出している。兼実は、そもそも童女御覧に対して批判的であり、後白河にも追従しない
267 誰も参入の儀礼を行わず全員が暁参した一例としては、元永元年(1118年)がある。この時『中右記』は、
「誰も参入の儀を行わないなんて、こんなことは滅多になかった」(「年来未見事也」)と評している。
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人物だった。この年元暦元年には一の谷の合戦があり、平家が大敗したが、戦いはまだまだ続 いていた年であり、政情は不定、諸国は疲弊していた。『玉葉』同年11月 18日条(割書)に
「天下衰弊之比、過差之遊興、太以無所拠欤、御覧及淵酔者、非神事非儀式、只為催興宴也、
旁案道理、今年御覧専不可然」とある。兼実は「天下が疲弊している今、贅沢な遊興を行うこ とは全く根拠がないだろう。童女御覧や淵酔は神事でも儀式でもない。ただ宴会をするための ものである。とにかく道理を考えると、今年御覧を行うことはまったくもてよろしくない」268 と手厳しい正論を記す。良通が献上を命じられたのは、この年の8月3日で、8月18日に承諾 書を送り、準備を進めてきた。童女御覧については、8月に他の献上者に命じてほしいと申し 上げておいたが、そのまま沙汰がなかったので、勤仕しなくていいのだろうと思っていたとこ ろ、いきなり催促が始まった。10月には費用調達も難しいからと辞退しておいたのに、いよい よ再三再四の催促と譴責が始まった。他にも献上者はいるので、なぜ、九条家だけが童女御覧 勤仕を命じられ譴責を受けなければならないのか、と憤懣やるかたない。次節の献上者たちの 考察に記すように兼実自身は長寛元年(1163年)内大臣の時に五節を献上したが、その際は父 親(禅閤忠通)の命によって参入も御覧も勤仕しなかったのだ(『玉葉』元暦元年11 月18日 条)。
兼実は良通の童女御覧の勤仕を辞退する旨を伝えてはあったものの、11月1日再び院の使い が来て童女御覧の勤仕をするようにと申し入れてきた。兼実はやはり承諾しなかった。そして
「計略269その力なきの上、ことまた非拠たり」と日記に書く。10月27日に御覧の勤仕を断っ た時に「計略なきの子細を申し了んぬ」という言葉を院への返答の中で使ってはいる。舞姫に かかる費用は勿論、童女御覧でさえ、費えが大きかったことは事実であろう。しかし、逃れら れそうにないと思った兼実は、永久3年(1115年)に自分の父が献上した例に倣って、童女装 束の下賜を願い出たところ、何とか、下賜されることになったので、譴責を受けたということ に対しての「面目も立った」として受諾する。そして初めは一具しか下賜できないといってい た後白河側から、結局、童女装束2揃は送られることになった。院から童女御覧の卯の日用と して下賜された童女装束2揃は「黄菊汗衫270、<面織物>、紅打袙、紫匂袙四領、青単衣、<
謂之竜胆>、白菊表袴、紅三重打袴」であった。しかし、御覧の勤仕を承諾すれば、今度は、
童女とともに御覧に臨む下仕も衣装が必要になる。そこで、下仕の参入の日の装束を送ってく れることになっていた摂政基通に、その衣装は参入の日でなく、卯の日の御覧の日にまわして もらうよう依頼する。それを受けて基通は依頼通り、「萌黄唐衣、黄掛四領、<皆同色>、濃蘇
268 『玉葉精読』の口語訳による。
269 この「計略」を高橋秀樹は「経済的な計らい」と説明して、「費用をまかなう力がない上に」と口語訳す る。
270 「汗衫」は異体字が用いられている。
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芳打掛、紅単衣、紅張袴、村摺裳、釵子、<在緒>、」の衣装を送った。
良通は参入の儀の方は命じられていないので、丑の日には舞姫は密参で、五節の一行は正式 な衣装は着けず、供奉する男たちも略装で来られるのだったが、兼実は童女と下仕には参入儀 の衣装を着けさせることにしており、(摂政のくれる下仕の衣装は卯の日にまわしたので)、参 入の日の下仕の衣装は、兼実の負担(「余沙汰」)で(兼実の荘園の所課として)発注された。
「梅唐衣、<立文>、裏増紅掛三領、青単衣、濃打衣、濃袴、村摺裳、釵子、<在緒>」など である。丑の日(参入の日)用の童女衣装の方は八条女院が調えて送ってくれることになった。
「織物白菊汗衫、濃打衣、裏濃蘇芳袙三領、青単衣、白表袴、<織物>、濃袴」の2揃である。
卯の日の御覧の童女装束は院から下賜となったものの、院や女院から下賜の使者を迎えて装束 を受け取る手続きや儀式も簡単ではない。勿論、使いにも相応の禄(裳・唐衣・濃袴の女装束)
が与えられた。
11月13日、兼実は御覧に供する童女と下仕を選ぶが、「所望之輩」を召し集めて選定したと あるから、御覧に出る童女と下仕は所望する者の多い役割だったと思われる。
承安元年(1171 年)の五節の参入を描いたといわれる『承安五節図』の写本が残っており、
承安のころの参入の様子を伝えるものとして貴重である。舞姫は几帳で姿を隠されながら進む ので、画面に筵道を進む姿が描かれている女性たちは童女や下仕たちである。これらの女性た ちは勿論、牛車で内裏へやってきたのだが、本論の「序章」(6)「舞姫献上者たちとその負担 の大きさ」でもふれたように、この手配も献上者を悩ますもののひとつであった。久安 2 年
(1146年)内大臣藤原頼長の舞姫参入271の際には、舞姫と童女2人、 傅かしづき8人、下仕4人を内 裏へ運ぶのに、舞姫は 金 作こがねづくりの車272(借用して手配する)に乗せ、前駆20人と車副6人をつけ る。童女と傅は上達部用車両5台に分乗、車副は4人。下仕も五位殿上人用の牛車2両に分乗 した。童女や下仕は勿論、前駆などの男性随行者に至るまで、しかるべき衣装を着用する。ま た舞姫の乗・下車に当たっては公卿や献上人たちが扶持にくる。参入の儀となると、これらの 車両、人員、衣装等の手配が必要なわけで、大仕事である。献上者たちが、これらの用意をせ ずに済む密参を好んだのは当然であろう。これらの女性たちは本来、常寧殿の五節所で五節の 期間を過ごすものだったが、久安2年には内裏参入(儀礼)が終わると、舞姫と、童女御覧に 出る童女・下仕2人ずつを残して、他の女性たちは五節所にも入らず直ちに引き上げさせてい る(『台記』久安2年11月11日条)。
五節献上の莫大な費用負担を多少でも軽減するために、平安中期には、五節にかかる莫大な
271 この年は頼長と越前守俊盛が参入の儀を行い、公教と美作守は密参した。
272 『小右記』永祚元年(989年)11月12日条にも、実資献上の舞姫一行に、金作車1両、枇榔毛車5両、莚 張車2両を用意している。金作車は特別の場合に用いられるもので、『小右記』寛弘8年(1011)9月9日 条に大嘗会の御禊に出る女御代の車について「彼日可出金作梹榔毛車者、金作車云無世間、又不可忽造」
とあり、すぐには製造できない特別な車であったことがわかる。