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『平家物語』の時代の献上者たちの考察 元永元年~寿永 4 年

第3章 『平家物語』の時代の五節の献上者たち

第2節 『平家物語』の時代の献上者たちの考察 元永元年~寿永 4 年

本節では元永元年(1118年)から寿永4年(1185年)の献上者について考察する。忠盛が内 裏昇殿を果たし、『平家物語』が始動するのは長承元年(1132 年)であるが、忠盛が昇殿を悲 願としたころから壇の浦での平家滅亡までの五節献上者を考察することとし、元永元年(1118 年)から寿永4年(1185年)を含めた。平家が台頭し、栄華を極め、滅んで行った時代である。

『平家物語』の時代の舞姫献上者たちの一覧は本論文末の別表にまとめた。

先行研究者による献上者リストとカバーする範囲

a: 三上啓子(2001) 978年~1039年

b: 寺内浩 (2004) 919年~1030年

c: 藤本勝義(2008a) 919年~1016年

d: 佐藤泰弘(2009) 919年~1154年

e: 服藤早苗(2015) 919年~1186年

服藤早苗が扱う年代も長いので、本論文との差異の検討はしばしば服藤作成のリストが対象 になる。(以下「服藤リスト」と略称する。)

調査方法としては、東京大学史料編纂所データベース、摂関古記録データベース、歴博デー タベースの検索と、「記録年表」(『国史大辞典』)に「この月の記録がある」とされる史料の閲 覧などで献上者を探し、献上者として官職が挙がった人物については『公卿補任』、『国司補任』、

「国司一覧」(『日本史総覧』)などにある人物名を起点として、人物を追った。

注 ◆印は、先行研究と異なるもの(誤記と思われるものも含む)、あるいは「揺れ」のあったもの。

印は、本論文の新しい追加。

年齢は特に断りがないものは五節の献上年の年齢。

項目名に挙げた献上者名は本論筆者が比定できたものに関してはその名を挙げた。比定にまで至らな い年に関しては原史料にある官職などを使用した。

150 献上者たち(編年)

元永元年(1118年)

<公卿>

① 帥中納言源重賢

太宰の権帥で権中納言の重資(74歳)が献上した。重賢は長く参議を勤め、永久3年(1115 年)、つまり献上年の3年前の4月28日に権中納言となっていた。

<受領>

② 尾張守源師俊

正五位下右少弁尾張守源師俊は前々年の永久4年(1116年)に舞姫を献上したばかりであっ たが、元々献上者と定められていた讃岐守顕頼が俄かに服となり、すぐに代替もなく、再度の 献上となった。源師俊は永久3年(1115年)12月16日に尾張守に任ぜられた275。しかし同じ 受領が 2 度も五節を献上するような事態は非常であるので、後代これを例としないようにと

『中右記』記主宗忠は注意を喚起する。舞姫献上が重い負担であり、受領でも2度の献上は例 外であったことを示す事例ともいえよう。この年は異例の献上者となって余裕がなかったのか、

4人の誰も参入の議を行わない暁参りとなったが、『中右記』は、誰も参入の儀を行わないなん て「年来未見事也」と評している。

③ 能登守藤原基頼

藤原基頼は永久元年(1113年)正月ごろ高階時章の後に能登守になったと思われる。能登守 になって約6年が経っている。その前は康和5年(1103年)11月1日陸奥守になり、天永2年

(1111年)12月2日まで在任が確認される。

越中守源俊親

この年は公卿1人に受領3 人という変則的な献上となった。『中右記』によると、当初はも う1人の公卿分として源大納言雅俊が決まっていたのだが、7日間の服となり、辞退となった。

そこで越中守源俊親に替えが命じられた。源俊親は以前、若狭守時代に五節を献上している276 が、この年は他に代替させられる人もなくて俊親の献上となった。元若狭守の俊親は永久元年

(1113年)12月17日に越中守に任ぜられた。俊親は保延元年(1135年)4月12日にも見任し ている。「服藤リスト」の俊頼.

は誤記であろう。

275 『公卿補任』の長承2年(1133年)任参議の師俊の尻付による。

276 俊親は嘉承2年(1107年)に若狭守に見任しているが、舞姫献上の年は不明である。

151 元永2年(1119年)

<公卿>

① 新中納言藤原実隆

従三位藤原実隆(41歳)はこの年の正月24日権中納言となったので、新中納言の献上であ る。実隆は権大納言藤原公実の長男。参議になったのは天永2年(1111年)。

② 宰相中将源雅定

正四位下右近中将源雅定(26歳)はこの年の 2 月6 日に参議となった。新参議の献上であ る。雅定は右大臣源雅実の次男。

<受領>

③ 近江守高階重仲

この時の近江守は高階重仲で、寛治6年(1092年)には出雲守であり、永長元年(1096年)

11月20日まで在任が確認される。従四位下重仲はこの年7月30日に近江守に任ぜられたが、

あいにく翌年保安元年(1120年)9月25日に卒去する。

④ 備中守藤原重通

備中守藤原重通は、権大納言宗通の五男で、天永元年(1110年)12歳で叙位。永久2年(1114 年)16歳の正月22日に院分で備中守となった。重通はこののち保安3年(1122年)正月23日 まで備中守であるので、備中守を重任したことになる。重通は少将・中将や蔵人頭を経て長承 3 年(1134 年)従三位権中納言に昇る。公卿の子も国守となって一門の経済基盤に貢献する。

保安元年(1120年)

<公卿>

① 権大納言藤原仲実

『中右記』(史料大成本277)には「新大納言仲実卿」とあるが、藤原仲実が権大納言になった のは5年も前の永久3年(1115年)4月28日であるので、新.

大納言とはいえない。(保安元年 に転正もしていない。)保安元年には源有仁が上臈 7 人を超えて権大納言になっているが、大 納言の官職にある仲実と有仁の混同は考えにくいので不審である。「新大納言」は、権大納言が 誤写されたものと考える278。藤原仲実は大納言藤原実季の三男で寛治6年(1092年)に参議と

277 大日本古記録『中右記』にはこの日の記録はない。

278 くずし字例を次に挙げる。

152

なる前は、16歳で丹後守をはじめ、備中守など受領を経験している。

② 治部卿源能俊

治部卿能俊は従二位権中納言兼治部卿源能俊(51歳)である。大納言源俊明の子で、康和2 年(1100年)に参議になっていた。能俊が権中納言となったのは天永2年(1111年)正月23 日だから 9年前である。元永元年(1118年)7月30日従二位に昇叙されている。献上の翌々 年保安3年(1122年)12月17日に大納言(権)に昇任する。

この年、新たに参議・中納言に昇進した者はいない。献上者選びは難航したのだろう。

<受領>

③ 加賀守藤原実能

藤原実能は正四位下右近中将で中宮権亮。元美作守(天永2年正月23日~)だったが、元 永元年(1118年)12月28日に加賀守に遷任された。献上の翌年の保安2年(1121年)2月29 日従三位に叙せられて加賀守を去った。元永元年に鳥羽中宮(後の待賢門院)璋子の同母の兄。

④ 讃岐守藤原顕能

藤原顕能は永久2年(1114年)正月22日に17歳で備中守となった。顕能は天永3年(1112 年)7月23日から讃岐守であった。舞姫献上のすぐ後の保安元年(1120年)12月14日には備 前守に遷任した。院の近臣で「夜の関白」の異名をとった藤原顕隆の息子。この後も大治2年

(1127年)12月20日越前守、長承元年(1132年)4月4日美作守など、受領を歴任した。

保安2年(1121年) 記録なし。

保安3年(1122年)

<公卿>

① 参議藤原顕隆か

この年の貴族の日記類に献上者の名は見出せない。この年正月に新大納言1人と新中納言が 2人、12月(五節直後)に4人の新権大納言と5人の新権中納言が誕生する。昇任者のいずれ

下記の左3つが「権」と最右一つが「新」と解読されている。

153

かが献上したのであろう。服藤は『兵範記』の仁安2年(1167年)10月24日条279から参議藤 原顕隆を挙げる。顕隆(51歳)は献上の年保安3年の正月23日参議になった。そして献上の 直後12月27日には権中納言になるので、献上者としてはふさわしい。

保安4年(1123年) 記録なし。

天治元年(1124年)

<公卿>

① 権中納言源雅定

史料大成本『中右記目録』の記載は「新中納言雅実」とある。雅実という公卿は天治元年に は源雅実がいるが、中納言ではなく従一位太政大臣でこの年の7月7日に既に出家の身となっ ている。他に雅の字を持つ中納言は天治元年及びその前後には見当たらないので、これも「新」

は「権」の誤写で、実も「定」の誤写とみて、権中納言源雅定(31歳)と比定する。『長秋記』

には参入の日に宰相中将雅定へ扇を送ったという記述があるので間違いないと思われる。雅定 は保安3 年(1122年)12月21日権中納言となった。雅定は参議となった5 年前の元永2年

(1119年)にも献上している。

② 参議左大弁弁藤原為隆 『中右記目録』は献上者を右.

大弁為隆と記すが、天治元年『公卿補任』に載る為隆は右大弁 ではなく左大弁である。これも書写段階での左と右の混同と考え、参議左大弁の藤原為隆と比 定する。為隆は保安3年(1122年)、献上2年前の12月17日に参議となり、12月21日に左 大弁を兼ねた。為隆は保安2年(1121年)12月25日には遠江守を辞退して息子の憲方を出雲 守に申任している。

<受領>

③ 越前守平忠盛

この献上で、忠盛は内裏昇殿を望んだが、許されず、がっかりしていたことを、本章第1節

「忠盛の昇殿の悲願」で述べた。第1節(1)「受領忠盛」で示したように、保安元年11月25 日に伯耆守から備前守に遷任して4年目の献上であり、越前を重任して3年後備前守に遷任す る。

保安元年(1120年) 伯耆守 1125 遷越前守 (元伯耆守)

279 「加之保安三年顕隆卿献五節之時」とある。