もう一組、仁安3年(1168年)の五節で解官されたのは平頼盛・保盛の父子だった。頼盛・
保盛父子の事件は前述の雅通、師長と様相を異にしていたようだ。『兵範記』には、平頼盛・保 盛父子が「五節参入、并御覧儀」を承引しなかったなどの理由によって、解官されたと伝える が、すんなり納得しがたい不可解な事件なのである。『大日本史料』でも233、「参議平頼盛を解 官す」という項を立て、「解官の事由詳かならず」と傍注する。
(1) 事件の概要
頼盛・保盛の仁安3年の解官に至った事件を追ってみよう。まず、『兵範記』11月28日条は 頭中将が後白河院に呼び出され、院は保盛の五節献上の次第を聞いた後、頼盛・保盛の親子の 解職を命じる。11月28日条は続いて、
父子之間、逆鱗之至、被解五ヶ重職了、五節参入、并御覧儀、奉行職事数度遣御教書、
一切不承引、毎度対捍234、依代始母后入内、其責及五ヶ度之時、無音235参詣伊津岐嶋社、
依入道太相国諷諫236急上洛、相企件両儀、是先背叡慮之其一也、此外年来之間、漸々積 悪、種々違勅、大嘗会之間宰府所課一切対捍、九国支配非法訴條々、被仰禅閤云々、世 上作法雖不始 之(今カ)、奉公之間自他相存、猶可跼蹐237者也、可恐々々、238
と、解官の理由を記述する。その理由としては、「保盛とその父は五節参入と御覧儀を、奉行職 事(ふつう蔵人)を派遣して数度催促したにもかかわらず、承引せず、毎度拒否した。さらに 代始めの母后(平滋子)の入内の際には、断りなしに厳島に参詣していたが、入道太相国が忠 告したので、急いで上京した。年ごろ、悪事を積み重ね、勅に種々従わず、大嘗会で大宰府に 割り当てられた所課もいっさいを拒んだ」ことなどが挙げられて、帯びていた5つすべての職 を解官されたというのだ。頼盛・保盛は自身が解官されただけでなく、さらに翌月12月13日
233 まだ「稿」である。
234 対捍:逆らい拒むこと。
235 無音ぶ い ん:挨拶するのが適切であるのに、挨拶のないこと。
236 諷諫する:遠まわしに忠告すること。
237 跼 蹐きょくせき・局蹐:「跼天蹐地」の略。おそれつつしみ、からだを縮めること。
238 「可恐々々」(恐懼と同義)の処罰的側面については長谷山彰(1989)に詳しい。
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(除目の日)に頼盛の家人6人も解官された239。このような厳しい処分は何だったのか。
前節で考察した雅通・師長の場合との大きな違いのひとつは、雅通・師長の解任の原因の中 心は基房の怒りだったと思われるが、2 人はひと月も経たないうちに本官に復している。頼盛 はこのような摂関家の嫡流争いとは無関係であった。実は五節不参で解官された例は仁安3年 だけのことではなく、仁安元年(1166年)11月16日にも、「五節不参」によって、故右大臣藤 原(徳大寺)公能の息子、実家(当時22歳)が蔵人頭中将などを解任されている(『公卿補任』
藤原実家)。しかし、実家も翌仁安2年(1167年)2月11日(つまり約3か月後240)に頭中将 に復して翌仁安3年2月17日に従三位に叙せられている(従三位の日付については異説あり)。 他の五節不参による解官処分がいずれも短期で許されたのに対し、5つの職すべて解かれた頼 盛の還任は1年も後の嘉応元年(1169年)12月30日だった。
(2) 保盛の五節の献上
ここでまず知っておかなければならないのは、仁安3年には保盛は五節献上者の1人であっ たということである。保盛は単なる参列者ではなく、五節行事の立役者というべき舞姫の献上 者であった。実際の献上者が終了後に不承引に問われること自体尋常ではない。この年は高倉 天皇の大嘗祭であったので舞姫は5人で、保盛を含めて次の5人が献上した。(この5人の献 上者たちについてはこの後の第 3章「『平家物語』の時代の献上者たち」の仁安 3年に詳述す る。)
公卿分3名
① 権中納言藤原成親(31歳)。成親は藤原家成の息子。永治2年(1142年)正月5日に五位
(5歳)。天養元年(1144年)12月28日に7歳で越後守になった。永万2年(1166年)
正月から蔵人頭。仁安元年(1166年)に従三位で公卿に列していた。
② 平時忠(39歳)。時忠は前年仁安2年の2月に参議で右衛門督になっており、この年仁安 3年の7月3日に、検非違使別当に就任していた。よく知られるように時忠の姉の時子は 清盛の継室であり、この年の3月に皇太后となった滋子は妹である。
③ 左大弁源雅頼(42歳)。雅頼は長寛2年(1164年)正月21日に参議に任ぜられ、永万元 年(1165年)8月17日から左大弁。仁安2年(1167年) 2月11日に従三位に叙せられ、
239 『兵範記』仁安3年12月13日条。「解官、右衛門尉藤原季経、左兵衛尉平有季、平助友、兵衛尉平盛成、
平有盛、右馬允源信満、件輩頼盛卿家人、併被脱(傍書 解カ)官也」。
240 この間に閏月はない。
129 仁安3年正月11日には正三位に昇叙されていた。
受領分2名
④ 能登守通盛241。通盛は、清盛の異母弟で頼盛からは異母兄である平教盛の嫡男。保盛から みれば従兄弟である。仁安3年3月15日に正五位下、5月13日から常陸介から能登守に 遷り、8月4日に従四位下に叙せられている。生年は不明だが、久寿2年(1155年)ごろ の生まれかといわれる242。そうだとすると、仁安3年には 14歳になる。実質的には、五 節は、この年参議となり正三位となった父教盛の経営であろう。
⑤ 尾張守平保盛。保盛は忠盛の五男頼盛の息子(長子と思われる)で長寛元年(1163年)正 月24日右兵衛佐並びに越前守、永万元年(1165年)正月5日 従五位上、仁安元年(1166 年)12月20から右兵衛佐兼尾張守、この五節の前年となる仁安2年閏7月12日に昇殿を 許され243、そして仁安3年正月11日に正五位下に叙せられていた。ところが、仁安3年 11月28日に「五節の参入并御覧儀」の失態を理由に父頼盛とともに解官されることにな る。
(3) 頼盛の連座
五節献上者は保盛であったのに、五節における不勤仕を理由に父の頼盛が合わせて解官され たのはなぜだろうか。まず、考えられるのは保盛の年齢だろう。舞姫献上は尾張の国守に命ぜ られたのであるが、このころの知行国の国守には知行主の幼年の子息が任命される例は多く、
舞姫献上の実質の経営は知行主たる父親である。そこで保盛の年齢を調べる必要がある。
保盛の生年は明かではない。『国史大辞典』などには保盛の掲載はなく、人名辞典などからも 不明であるが、保盛の年齢を知る手掛かりは『明月記』にあった。藤原定家の日記である『明 月記』の天福元年(1233年)9月28日条に、定家邸を訪れた右兵衛佐が「厳父之病、危急云々、
今年七十七云々」と言ったというのである。寛喜2年(1230年)正月25日条の除目の項で「右 兵衛佐高頼」があり、傍書に「保盛卿子」とあるので、この傍書によれば厳父が保盛であるこ
241 通盛(左兵衛佐)が正五位下となったのは仁安3年3月15日で(その時、能登守に遷った)、正五位下と なったのは保盛より2か月遅いから本来、通盛が最下臈であるはずだが、日記類の史料を見る限り献上者 としては常に通盛が先に書かれている。
242 『朝日日本歴史人物事典』(櫻井陽子)。
243 『兵範記』仁安2年閏7月12日「昇殿聴、右兵衛佐兼尾張守平保盛」。
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とになる。傍書ではあるが、この書き入れは『明月記』諸本に見られるので244、高頼は広く保 盛の子と認識されてきたと考えられる。右兵衛佐高頼はその後もしばしば(10~11 回)『明月 記』に登場し、定家と親交が深かったことを示している。保盛の子には他に保教という息子も おり、保教の方は定家の猶子となっていた。定家は保盛自身とも何度も会っており(『明月記』
に6~7回登場する)、特に『明月記』寛喜元年(1229年)10月28日条には「早旦、門の外に 出づるの次で、隣家の三位入道先日の音信に依り相謁す。往時を言談す」とあり、保盛自身が 隣に住んでいて定家と親交があったことがわかる。『明月記』諸本の傍書を信じれば、保盛天福 元年77歳の信憑性はきわめて高いといえるだろう。保盛が天福元年(1233年)に77歳であっ たなら、逆算すると、保盛は保元2年(1157年)生まれとなるから、仁安3年(1168年)のこ の五節の時にはわずか12歳である。『公卿補任』から保盛の経歴をたどると、応保2年(1162 年)10月9日に叙位されて、長寛元年(1163年)正月24日に右兵衛佐、越前守に任ぜられて、
仁安元年(1166年)12月30日から尾張守である。すると、わずか6歳で叙爵され7歳で国守 になったことになる。まだ子供ではあるが、このころ、院の近臣やその子息たちは、院の思う がままに官職位階をあたえられ、幼年の叙爵や受領任官は、このころ全く珍しくはなかったの である245。勿論、院分国も院の近臣たちに与えられていった。院分国を賜る場合にも、忠盛の ころには自らが近臣受領となったが、この時代には自分の息子を国守に申任して知行する246形 をとることが多く、名ばかりの国守となる息子は幼くて全くかまわなかった。また、国守とな るには従五位下なりの官職相当の位階を帯していなければならないので、国守任官を前に叙爵 されるに必要もあった。以上の諸例からも保盛の6歳での叙爵と尾張守任官も十分ありうるこ とであり、『明月記』の没年の年齢から逆算した保盛の当時12歳という推定は、納得できる年 齢である。
つまり保盛は幼少だったので、父頼盛が全面的に五節献上を差配した。だからこそ、保盛の 五節不勤仕は父親の解官につながるのである。しかし、いったいどんな失態があったのだろう か。今なら小学生程度の年齢の子供が、夜に行われる参入行事に立ち会わなかったからといっ て、法皇の逆鱗に触れるのだろうか。
244 訓読版の底本は国書刊行会本、陽明文庫所蔵の古写本、並びに京都府立総合資料館所蔵の古写本とを校合 したという。特段の注記はない。また、徳大寺家本『明月記』にも保盛卿子の書き入れはある。
245 例えば、康治元年(1142年)には藤原成親が5歳で従五位下に叙せられ、天養元年(1144年)、7歳で越 後守に任じられていた。(父の家成は鳥羽法皇の第一の寵臣であった)。その成親の娘の成子の夫であった 藤原基宗は応保元年(1161年)7歳で叙爵。加賀守に叙任される。侍従を経て、承安2年(1172年)に正 五位下に叙されたし、応保2年(1162年)には清盛五男の重衡も12月に6歳で叙爵。承安3年(1173年)
正月 6日には、宗盛の子がわずか4歳で従五位下に叙爵されているし、保盛の弟光盛も安元2年(1176 年)5歳で従五位下(『公家事典』)になっている。角田文衛(2003:235)に長門本、延慶本、四部合戦状 等々にあるとの指摘があり、かなりの信憑性はあるだろう。
246 公卿は普通、受領を兼ねないし、受領は同時に2つ以上の国守にはなることはない。頼盛は仁安元年8月 に従三位(つまり公卿)に昇っている。