• 検索結果がありません。

忠盛の昇殿の悲願

第 1 章 忠盛の昇殿と五節

第1節 忠盛の昇殿の悲願

昇殿は忠盛の悲願だったが、忠盛の昇殿に関わり深い五節は2件ある。天治元年(1124年)、 つまり忠盛が舞姫を献上して昇殿を望んだがかなえられず、大変がっかりした五節と、長承元 年(1132年)、いよいよ昇殿を許された年に初めて迎える五節である。後者は、忠盛の昇殿を 快く思わない殿上人たちが、忠盛に恥辱を与えようと「闇討ち」を企てたが、忠盛は機転によ ってそれを切り抜け、逆に鳥羽院のお褒めにあずかったという『平家物語』巻第一「殿上闇討」

に舞台を提供している。

(1) 受領忠盛

清盛の祖父正盛は院(白河院)の近臣受領である加賀守藤原為房、播磨守藤原顕季の郎従を 勤めて、院に接近していった。白河院が鍾愛の皇女媞子内親王(郁芳門院)を悼んで建立した 菩提寺へ自身の伊賀の所領を寄進して、白河院の歓心を買い、院の北面に加えられた後も成功 を続け、源義親(義家の子)の謀反を鎮めた功により、大国但馬守に任ぜられた。この時、貴 族たちは、侍身分でありながら大国の受領となった正盛をそねんだという。正盛は武力と経済 力をもって白河院に奉仕して平氏繁栄の礎を築いた。正盛の子忠盛が清盛の父であるが、忠盛 は父の正盛とともに、白河院と院の寵妃で「祇園女御」と呼ばれる白河殿に奉仕して、大国の 受領を歴任した。白河法皇が没すると次の鳥羽院にも武力・財力をもって奉仕して、受領の最 高峰である播磨守に任じられたが、公卿直前の正四位上で終わった。

忠盛の受領として確認できる最初の任国は、永久5年(1117年)に見任している伯耆国であ る(『中右記』)が、保安元年(1120年)に越前守に遷任して以来途切れることなく受領を歴任 した。『国司補任』を出発点に忠盛の国司歴を確認すると次のようになる。

平忠盛の国司歴

永久5年(1117年) 伯耆守 従五位下 (『長秋記』、『中右記』

(おそらく628日以前に伯耆守藤原家光が死去。その後を受けたと思われる。)

元永2年(1119年) 伯耆守 1113日、19日見任 (『長秋記』、『中右記』 保安元年(1120年) 越前守 1125日補任 (『中右記』

大治2年(1127年) 越前守 1115日見任 (『中右記』 大治2年(1127年) 備前守 1220日補任 (『中右記』

92

長承元年(1132年) 備前守 正四位下 正月19日重任 (『中右記』160 保延2年(1136年) 美作守 見任 (『平安遺文』2339)

天養元年(1144年) 美作守 正月24日見任 (『国司補任』

(同じく正月24日 藤原有成が任美作守)

天養元年(1144年) 尾張守 929日見任 (『平安遺文』2536)

久安元年(1145年) 尾張守 79日見任(兼右京大夫。忠盛か)『平安遺文』2558)

久安元年(1145年) 播磨守 1028日見任 (『国司補任』 久安5年(1149年) 播磨守 正四位上平忠盛 43日重任 (『本朝世紀』 仁平元年(1151年) 播磨守 正四位上平忠盛 22日辞161 (『公卿補任』

保安元年(1120年)7月12日忠盛は「伯耆守」であるが、同年11月25日の臨時除目で「越 前守」に遷任した(『中右記』)。天治元年(1124年)11月16日には「越前守」忠盛が五節を献 上しており(『中右記目録』)、大治2年11月15日には『中右記』記主藤原宗忠の五節献上に 対して忠盛が綿50両を送っているが、忠盛はこの時まだ越前守162であった。それから約1か 月後の12月20日に行われた秋の除目で、「備前守」となった(『中右記』)。長承元年(1132年)

正月19日には備前は因幡、武蔵が重任を許されている(『中右記』)。『中右記』のこの日の条の 備前に姓名はないが、同年 3月22日条には「備前守忠盛朝臣」163とあるので、重任された備 前守が、この日に先立って鳥羽院に得長寿院を寄進した備前守忠盛であったことは確実である。

保延元年(1135年)8月19日にも忠盛は備前守であるが(『中右記』)、翌年2月11日付の『平 安遺文』(2339)の中務大輔美作守平朝臣は忠盛とみられる。翌保延3年(1137年)10月12日 にも美作守平忠盛が東大寺御封に対する濫行に沙汰する下文を出している(『平安遺文』2377)。 保延5年(1139年)3月23日にも美作守平忠盛は東大寺御領に関して下文を出している(『平 安遺文』2407)。保延6年4月も造八幡宮国司等に美作守忠盛の名がある(『後愚昧記』応安4 年5月19日条)。天養元年(1144年)正月24日には美作守は忠盛から藤原有成に交替になり、

忠盛は9月29日には尾張守に見任している(『平安遺文』2536)。しかし、「尾張守平朝臣」で あって、名前はない)。久安元年(1145年)7月9日には見任の尾張守右京大夫が忠盛とみな されており、同年10月28日には忠盛は播磨守である(『国司補任』)。4年後の久安5年(1149 年)4月3日には正四位上の忠盛は大国播磨を重任した。仁平元年(1151年)2月2日56歳で 播磨守を辞して、仁平3年正月13日に没した。

160 重任者の姓名は欠くが、39日、22日に忠盛が見任。

161 『公卿補任』仁安3年の平教盛の項による。

162 『中右記』は「越中守忠盛」と作っているが、当時の越中守は知行主藤原実能の子の公能であるから、忠 盛の「越中守」は「越前守」の誤記であると推定される。

163 忠盛が内裏の昇殿を許されてすぐである。

93

忠盛は途切れることなく国守を歴任しているが、国の数は66(+2島)で任期は4年164だか ら単純平均で年に16~17しか国守に空きは出ない。そのうえ、蔵人、検非違使、式部、民部、

外記、史の巡爵に加えて、(毎年ではなくても)検非違使、大蔵丞、織部正などの巡によって7

~8か国が消えるとすれば、毎年10余の数の国を巡って、重任・新叙希望者が熾烈な競争を繰 り広げることになる。そのような中で、次々に任国を得てゆく忠盛の手腕は相当なものであっ た。

『平家物語』巻第一に置かれる「殿上闇討」では、忠盛は備前守だった時に、鳥羽院に得長 寿院を成功して、内裏の昇殿と但馬守への遷任を得たことになっている165。(「忠盛備前守たり し時、(中略)境

おり

ふし

但馬国のあきたりけるを給にけり。上皇御感のあまりに内の昇殿を許さる。

忠盛三十六にて始て昇殿す」[旧大系㊤84頁])。但馬国は、天承元年(1131年)、長承元年(1132 年)、長承2年(1133年)に亘って守は正四位下の源有賢が在任している166。したがって、堂 の供養時には欠国ではなかった。『国司補任』(平治元年[1159年]まで所収)及び『国司一覧』

の但馬国には忠盛の名は見えないが、忠盛の父正盛は天仁元年(1108年)正月24日から、天 永元年(1110 年)丹後守に遷任するまで但馬守だった。『平家物語』の忠盛の但馬守は父正盛 との混同創作だろうか。忠盛は大治4年(1129年)から備前守で、この年(長承元年)正月19 日備前守を重任しているので、得長寿院寄進時は確かに備前守であった。

(2) 昇殿への長い道のり

忠盛は天養元年(1144年)皇后宮得子が白河殿に移徒した際の行事を勤めた賞として10月 26日に正四位上に叙されたが167、結局、公卿の一歩手前で仁平3年(1153年)に生涯を終え た。従三位になれば、参議になれずとも「公卿」に列し「忠盛卿」と呼ばれる身分になる。忠 盛は正四位下から正四位上に昇ったのであるが、通常、正四位上は飛び階であるから、正四位 下の次は従三位が通例であり、正四位上は、任じられる人の稀な位階であった。忠盛は公卿昇 進を果たせないまま、仁平3年(1153年)正月15日に(58歳)で没した。公卿は夢だったと しても、大国の受領を歴任し、位階も上昇していく過程で忠盛は昇殿を切望した。まずは院へ の昇殿、そして究極は内裏の昇殿であった。それは平家の棟梁としての忠盛の悲願であったろ

164 例外は、陸奥、出羽、大宰府管内で5年。

165 忠盛の得長寿院造進と内裏昇殿を『平家物語』(覚一本)では「天承元年」(1131年)と作るが、『中右記』

などの一次史料により、得長寿院寄進と忠盛昇殿は長承元年(1132年)であることが確認されているので、

以下、「殿上闇討」の年立ては長承元年(1132年)と記述する。

166 長承3年になって、守は従五位下藤原隆季に代わる。

167 『仙洞御移徒部類記』が引く『冷中記』より。

94 う。

内裏の昇殿とは周知のように清涼殿の殿上の間への伺候を許されることである。天皇との人 的関係を基盤にした新たな秩序関係で、公卿以外にも四位五位の官人の中から勅許によって許 された。内裏の昇殿以外にも院や東宮などもそれぞれ昇殿制を敷いており、院では上皇の近臣 となり院昇殿を許されるものが輩出した。寛治7年(1093年)の白河院の院殿上人は74人い たという168。院の近臣は四~五位程度の諸大夫層で、院庁の実質的中心となり、院の抜擢で受 領に就任するものが多かった。院の殿上人のごく一部の有能な官人や名門の出身者の中には弁 官や蔵人頭に補任され、最終的に公卿に昇進するものもあった。従って、院殿上人は院によっ て育成された受領層が中心で伝統的公卿層から見れば低い身分であり、「内裏の昇殿にはそれ

[院昇殿]とは比べ物にならない権威があった」という(福島正樹 2009:139)。内裏の殿上 人は、「寛平御遺誡」には六位を含めて30人と定められたが、増大してゆき、堀河天皇の長治 3年(1106年)には47人、忠盛・清盛の時代よりは後になるが、土御門天皇の時は100余人、

順徳朝は70余人であったという169

武士としては、源義家が既に承徳2年(1098年)に院の昇殿が許されていた。しかし、義家 の院昇殿も、公卿・殿上人は快く思わなかった。『中右記』承徳2年10月23日条に「前陸奥 守義家朝臣・若狭守敦兼被聴一院昇殿、敦宗息男・備後守行実男被補院侍中」(以上行間補書)、

「義家朝臣、天下第一武勇之士也、被聴昇殿、世人有不甘心気歟、但莫言」(裏書)とあり、前 陸奥守義家と若狭守敦兼が一の院の昇殿を許されたことと、敦宗の息子と備後守行実の息子が、

院の蔵人に補されたということと、義家朝臣は天下の第一の武勇の士ではあっても、昇殿を許 されたことには「世人甘心せざるの気あるか」と宮中人たちの間に根強い不快感があったこと が記録されている。

(3) 昇殿の喜びを詠んだ忠盛の和歌

『玉葉和歌集』170には、忠盛が昇殿を許されて大変喜んで詠んだという和歌がある。『玉葉和 歌集』2768番がそれで、以下がその詞書と歌である。(忠盛の和歌と詞書の引用はこれ以降特 に断りのない限り『新編国歌大観』を使用。)

臨時祭の舞人にて八幡へまゐりて侍りけるに、はばかる事ありて御前へはまゐらでむま

168 『平安時代史事典』「殿上人」(大津透)

169 『国史大辞典』「殿上人」(橋本義彦)

170 『玉葉和歌集』鎌倉時代の勅撰和歌集。伏見院の命で京極為兼撰。正和元年(1312年)ごろ成立。