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内大臣源雅通と大納言藤原師長の解官事件

(1) 事件の概要

『兵範記』記主の平信範221は、仁安3年11月21日の寅の日、宮中では五節の御前試の行わ れる日に、後白河院の滞在先である蓮華王院に呼び出され、右近大将と大納言兼左近衛大将皇 太后宮大夫である藤原師長(31歳)が前日の五節の帳台試に来なかったそうだから、解任する よう伝えよと命じられたというのだ。

去夕帳台試摂政被参之間、内大臣左大将可相伴之由、兼日222被定仰、随供奉行啓、而宮入 御之後不顧彼扈従各退出、因茲無扈従之人、摂政及暁更被参帳台、俄召具新大納言左衛門 督等之由聞食及、遁有限之公事223、為無極之罪過、早触摂政可被解官所帯等者

(『兵範記』仁安3年11月21日条)

右大将とはこの年の8月10日に内大臣となり、12日に右大将224を兼ねた雅通(51歳)であ る。「前日の帳台試には摂政が参られるので、内大臣と左大将が相伴すべきことは、前々から定 められてあったのに、2人は、皇太后の内裏行啓に供奉してきたが、宮(皇太后)が入御した 後は(摂政に)扈従せずに退出してしまった。それで、摂政に扈従する人がいなくなってしま った。それでも暁に及んで、摂政が、帳台試に来ることになったので、代わりの扈従者として 新大納言・左衛門督などが呼び出されて奉仕したというから、内大臣と左大将の罪は重い。彼 らを解官するよう早速摂政に伝えよ」というものだった。信範は驚いて大臣の解官の例なんか ないことをその場で後白河に奏聞しようと思ったが、とりあえずあわてて、摂政の元へ行って 院の仰せを伝えた。摂政は、仰せはごもっともと思うが大臣解官の例はあるかと信範に下問が あったので、流罪以外はないことを答えた(「奉仰之後、先大臣解官之条先例不覚悟、故直雖可

221 極官が正三位兵部卿。仁安311月現在は正四位下で蔵人頭。

222 兼日:兼ねての日。期日より前の日、あらかじめ、日頃。

223 「有限之公事」の有限については宮川久美の論文がある(宮川2007)「有限公事」については、『万葉集』

163804を引いて、「公務にはいついつまでに何々しなければならないという期限がある」という解 釈を挙げる(宮川2007:193)。『兵範記』では「公事には期限、つまり、なすべき時があるのだから、そ れを逃れるのは罪過極まりない」というような意味で、結局は前から決まっていた事をすっぽかすとはけ しからんということであろうか。

224 この時、内大臣が右大将、師長は大納言で左大将だが、左右大将で本官が低位のほうが左大将を務める例 は他にもある。古くは寛仁元年(1017年)、実資が大納言で右大将、教通が権中納言で左大将になってい る。(実資は45歳から87歳になるまで、足掛け43年右大将。)当然、官位は低くても左大将のほうがエ リート性が強い。

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奏聞、逆鱗之間、乍存心中周章馳被参殿下、申御旨、御返事云、人々事被仰下趣畏思給、但大 臣解官事被尋仰下官、下官引勘文簿申云」[『兵範記』同日条])。この時の摂政は藤原基房25歳 で、基房は、5歳で退位させられた六条天皇の摂政だったが、代わって即位した高倉も8歳の 幼帝だったので、引き続き摂政を務めていた。『兵範記』では後白河が怒っている事を伝えてい るが、実際、雅通と師長の 2人にまず立腹したのは基房自身であった(『愚昧記』11 月 20 日 条)。寵姫滋子の内裏行啓は恙なく完了している。帳台試は公式な行事でもなく、勿論、神事で はなく、天皇の出御もあったり、なかったりであった。天皇不出御の帳台試不参で傷つけられ るのは摂政の権威だけであったはずである。扈従忌避は摂関家内部のいがみ合いによるもので あったことは後白河は十分知っていたはずなのだが、とにかく後白河は基房の肩を持った。

この事件は『愚昧記』に詳しい記述がある。しかし、記主の三条実房は基房の親派であるの で、記述は基房の側に立ったものであり、貴族一般の感想ではないことを割り引いておく必要 がある。仁安3年11月20日、藤原(三条)実房は、蔵人保信(泰信)から帳台試に伺候する ように伝えられた。『愚昧記』によると「これは、なぜかというと、兼ねてから伺候が決められ ていた人たちのうち右大臣兼実(20歳)は俄かに所労を申し出てやってこないのだ。内大臣雅 通と大納言師長は皇太后(滋子)に供奉して内裏にはやってきたが、雅通は『殿上人が宿衣225 でいるところで大臣が束帯というのはよくない。退出して装束を改めて来るから226、暁ごろに なる』と言い、左大将師長も同様のことを言った。それを聞いて皇太后が雅通に『内大臣は束 帯のままでも伺候するように』と言われたが、二人は退出してしまった。そこで私(この時権 大納言22歳)と、左衛門督で中納言の藤原実国(29歳)が摂政に扈従するために呼び出され たのだ。あの2人が摂政殿に扈従できない理由はあるのか、両人の所存甚だ奇恠だ。且つ又愚 かだ。天運があって大臣や大将の位に昇ったのに、摂政の扈従を嫌うのは甚だ見苦しい。しか も左大将(師長)は(摂政の)一門ではないか、どうして遁避しようと思うのか。皇太后の行 啓に供奉してきながら無道の意趣を述べるとは、もう朝威を蔑ろにしているようだ227。摂政は ご立腹で、『所労が発したので[帳台試に]罷り出ない』と言われた。しかし、皇太后が頻りに 摂政に、帳台試に出仕するようにお勧めになったので、摂政は暁になってやっと憖228にお出ま

225 宿衣は原則として衣冠であるが、殿上人が衣冠の時、公卿は直衣が普通である。時代にもよるが、『満佐須 計装束抄』二(群書類従所収)に「とのゐ(宿)そうぞくといふは、つねのいくはん(衣冠)なり」とあ る。また、行事の際、殿上人は衣冠で公卿は直衣、という例は多い。一例をあげれば、『永久二年白川御堂 供養記』「廿四日乙未。御願供養試楽。巳刻御幸新願。上達部直衣。殿上人衣冠。但楽行事等束帯。予頭弁 等又束帯」(下線付加)。永久2年は1114年、予とは源雅兼で当時は五位の蔵人。

226 この言い分は公卿としてはかなりもっともな言い分である。

227 「而乍供奉行啓陳無道之意趣、已似蔑朝威、殿下立腹」『愚昧記』1120日条)。既に丑の日の当日に「朝 威を蔑ろにするに似たり」といったのは摂政基房の言葉なのか、記主実房の感懐なのかははっきりしない が、いずれにしろ基房側の見方である。

228 憖(なまじいに):そうするのは無理なのに敢えてするさま。

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しになった」という。雅通と師長の2人が扈従しないと知ると、摂政基房も病が出たと称して 帳台試へ行くことを渋ったが、頻りに皇太后滋子が勧めたので、実房と左衛門督実国を代わり の扈従者として暁ごろやっと帳台試に出かけたのだ。(この新扈従者は束帯のままで扈従した。)

想像にはなるが、2 人の不参をいち早く「朝威をないがしろにしたようなものだ」と言い立 てて何らかの処罰を後白河に申請したのも基房ではないだろうか。『愚昧記』も帳台試当日の 20日の条に「殿下立腹」を記している。皇太后滋子はこの時は内裏に来ていて後白河は蓮華王 院滞在中であるから、滋子が直接後白河に何らかの話をした可能性はない。また滋子は平家一 門が後見しており、平家は清盛娘盛子を基通の養母としているので基房とは対立的立場にある。

滋子にとって基房は息子高倉の摂政であるにしても、摂政が基房でなければならない理由も特 にありそうに見えず、基房のため2人の処罰を求めるいわれもないのではないだろうか。まし て、源雅通はこの時滋子の皇太后宮大夫であったのだ。自分の配下だからこそ滋子は、雅通に

(師長ではなく)、「束帯のままでも行ってくれ」と協力を求めたのだろう。滋子は丸く収めよ うとしたのではなかろうか。平信範はこの時、蔵人頭だったのだから、五節全般の実務を統括 しており、基房が渋々出向いた帳台試にも随行して(「両貫首扈従」)いるのだから、当然2人 の不参は熟知していた(信範の『兵範記』にもこの二人の不参は書かれている)。にもかかわら ず、後白河の呼出しまで 2 人の解官処分など思いもよらないことだったのである。(『兵範記』

11月21日条で後白河の逆鱗に信範は「存心中周章」している。)

この基房という人は、もともと自分の権威が傷つけられると激怒する性格だったとみられる。

『平家物語』(巻第一「殿下乗合」)に、嘉応2年(1170年)10月16日に基房の行列に出くわ した 13 歳の資盛(重盛次男)が下馬の令をとらなかったのに腹を立て、資盛はじめ侍たちを 馬から引きおろし、さんざん恥辱を加えたという話が載る(旧大系㊤117 頁)。(後日、重盛が 報復に基房の行列の前駆や随身たちを馬から引き下ろして、髻を切った229のだが、『平家物語』

では報復者は重盛が清盛に入れ替わって、清盛の悪行の一つにされる。)天皇の代理として五 節の帳台試に出るというのは、天皇の出御さながらに大臣と左右大将230が扈従するという、基 房にとっては摂政の権威が可視化できる晴舞台であったはずだ。これが、右大臣兼実、内大臣 右大将雅通、大納言左大将師長など、トップの公卿たちからそっぽを向かれて、晴れの舞台は 台無しである。すっかり面目を潰されて、基房が地団駄ふんだ結果の騒動であろう。

それにしても、舞姫たちは災難である。日ごろ外出する機会も多くない少女たちが、おそら く生まれて初めての内裏に参入して緊張の極みにあっただろうに、帳台試のための衣装を身に

229 『玉葉』嘉応2年(1170年)73・5日、1021日に関連記事が見える。基実は女車に乗った若者が誰 か知らずに恥辱を加えたのかもしれない。重盛に陳謝はしている。

230 師長、雅通ともにこの年大将になっていた。