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五節の参内に夕霧は何を着たのか

第2章 少女巻の夕霧と五節

第2節 五節の参内に夕霧は何を着たのか

夕霧の官位は六位。参内は位階に応じた色の袍(束帯)が決まりである。六位に位置づけら れた夕霧の袍の色は当然、六位の官人たちが着る浅葱色である。上級公卿は勅許を受けて直衣 で参内できたが、まだ六位の官人には望むべくもない。夕霧は自分が六位でしかないことを自 他にまざまざと見せつけることになるこの色の袍を着るのが嫌で内裏に参入したがらなかっ た。

しかし、少女巻には「五節にことつけて、直衣などさま変れる色聴されて参りたまふ」(新 編③62頁)とある。五節の日は特別ということで直衣などいつもと違った色を着ることを許さ れて参内したというのだ。直衣は五節では淵酔など非公式の場では着用されるが、日常は直衣 参内が許されている者でも、正式な儀式はやはり位袍が当然である。淵酔には、許されたもの は直衣で参加するが、五節舞の舞われる豊明節会は天皇が賜う公式の宴会儀式であるから普段 直衣参内を許されている者でも束帯着用である。夕霧は直衣であれば、宮中をあるきまわった りすることには参加できる。そこで夕霧は宮中を「まだきにおよすげて、され歩きたまふ」(新 編③62頁)と宮中を浮かれて歩き回る様子が示される。しかし、五節舞の行われる豊明節会に は公卿たちでさえ直衣では参加できない。また、豊明節会では殿上に座が設けられるのはごく 少数の上級貴族だけで、殿上人は「殿上」でなく、庭に座が設けられる。従って、夕霧はもし 参加すれば庭に設けられた座から舞姫を見ることになる。『儀式』の新嘗会儀には六位以下の 参加についても記述があるが、『内裏式』、『西宮記』の新嘗会の部分には六位についての記述は ない。夕霧が節会に参列したかどうか、明らかではない。六位も参列したとしても、おそらく 夕霧自身も屈辱的な六位の列に入ることは潔しとせず、不出席の可能性は高い。五節舞は舞台 が設けられることも設けられないこともあった。

『儀式』では雨天(小雨)の場合に(のみ)殿上で舞うといい145、『内裏式』では「必ずしも 舞台を設けない」146、『西宮記』は「承和年間(834年~848年)以降は舞台の上で舞う」147と 言い、『九条年中行事』148には「仁和(885年~889年)以来必ずしも舞台を用いない」という。

145 『儀式』新嘗会[祭イ]儀<若有朔旦冬至、便行叙位>「前一日、所司装飾豊楽院、構舞台於庭前、<自 殿南階去十一丈七尺、高三尺、方六丈>、(中略)奏歌笛、訖大歌別当大夫率歌者参入就座、座定奏大歌舞 五節、<若有零雨、於殿上舞>其五節妓一行、下自西階、垂雨敷上南行升台、道[導イ]引姫四人以上、

両行在前、到舞台階下、東西分坐」とある。

146 『内裏式』(十一月新嘗会式の項)「訖大歌別当大夫率歌者参入就座、座定奏大歌舞五節<或於殿上舞、不

[必イ]構舞台>其五節妓一行、下自西階乗両[垂雨イ]面敷上南行昇[升イ]台、導引姫四人以上、両 行在前、到舞台階下東西分座」とある。

147 『西宮記』(新嘗祭の項)「歌人自舞台東西就床子、皆着当色、赤貲布開腋衣、白半臂、発歌笛、雨日、着 宜陽殿西庇、(中略)、下小忌台盤、舞姫出、<出自御座西、上髪各相副、女官秉燭添南柱立云々>、舞了、

<退入、歌人退去、所司撤床子、承和以往舞舞台上>」(下線付加)

148 『九条年中行事』十一月辰日賜宴事の割書「而仁和以来必不用舞台」

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『江家次第』(12世紀初)では舞姫が舞台で舞うことは久しく停止されている149といい、大歌 別当は舞台巽に座るが、舞姫は南庇で舞っている。舞台がなく、舞姫が帝の御前の廂で一列で 舞う場合には、舞姫をまじかに見られるのは、殿上で天皇のそばに候じる一部の高官たちだけ になろう。夕霧は惟光娘が気にかかって、惟光娘がいる五節所に近づこうとウロウロするが、

五節所の「あたり近くだに寄せず」(新編③64頁)とあって、ため息をつくばかりであった。

惟光娘を夕霧が内裏で見初める設定は困難で、惟光娘は光源氏の舞姫として、二条院へやって くることが、夕霧が見初めるためには物語上必要であったのである。

五節の衣装については『満佐須計装束抄』に舞姫と随行者についての詳細な衣装の記述はあ るものの、宮中の参会者については詳細はない。五節の期間、宮中の官人たちの衣装について は、永万2年(1166年)成立の『助無智秘抄』や『年中諸公事装束要抄』(伝花山院忠定)に 記述がある。

まとめると、舞姫が参入する丑の日には舞姫を誘導したりする仕事をする殿上人は束帯であ る。翌日の殿上の淵酔は、殿上人以上は直衣(または衣冠)でもよい。中宮他の淵酔も、淵酔 は直衣(または衣冠)で、肩脱ぎなどしてドンチャン騒ぎする。但し、夜の御前試にはみな直 衣を束帯に改めて参内する。時代は下るが、『兵範記』にも淵酔で直衣だった宮中人たちが御前 試のため束帯に着替えるため一度退出している記載がある(嘉応元年[1169年]11月14日条

「人々著束帯可帰参 御前試之故也」)。夕霧の場合は父太政大臣の直盧で自由に着替えること ができる。卯の日の、娯楽性の高い童御覧の参列者(公卿)は直衣である。但し、全体として は直衣で参加できる行事は少なく、天皇出御の公式行事は全員束帯である。五節舞の舞われる 辰の日の豊明節会においても、神事に奉仕するため小忌衣を着ることになっている者以外は束 帯である150

晴れの日の特別に規定が緩められる衣装は後世「一日晴」という制度がある。唐装束・染装 束という言葉も一日晴れの衣装として使われた。「一日晴」については『国史大辞典』の「直 衣」の項(鈴木敬三)では(直衣の地質、色目、文様について)「なお、表を白に限らず織色で 異なる文の直衣を臨時に用いて一日晴とすることもあり」と「一日晴」は直衣にも当てはまる ようにも取れるが、「一日晴」の項においては、同じ鈴木敬三が「公家の晴儀の参列者の朝服の 下着を当日に限り、服制にこだわらずに、自由とし、好みによる地質・色目・文様の使用を黙 許することをいう」と下着、すなわち、下襲に限定している。三条西実隆の『装束抄』に「唐 綾」の項に「一日晴」について言及がある。

149 『江家次第』(十、十一月節会次第)「久停止事」に「舞姫舞於舞台事」とあり、舞姫が舞台において舞う ことは久しく停止されていたという。

150 小忌衣も束帯の上に着る。

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是ハ唐装束ニテ。文色ナド強チ定事ナシ。下襲表袴ニ唐綾唐ノ顕文紗ナドヲ着スル事也。

凡唐装束ハ。一日晴ト称シテ尋常ニ替リ侍ル也。仍定ル儀ナシ。又唐装束染装束ハ。老者 ハ用之侍ラザル事トミエタリ。右袍。下襲。時ニヨリ事ニヨリテカハレリ。仍先例ヲ追テ 着用シ侍ル事ナリ。着用ノ先例シルシ侍ルベケレドモ。事多ニヨリテ。先色メ計ヲシルシ 侍也。 (『装束抄』群書類従本、下線付加)

とあり、唐綾などを用いる唐装束は晴れの装束で、下襲表袴に唐綾などを着ることだという。

染装束もまた晴れの日に好みの色で染めたものを着用することであるが、これも袍以外の袴や 下襲についてである。例えば、『後照念院殿装束抄』151に、「染装束事。衣笠命云。ヲトナビ タル人ハ染下襲計不染表袴」と年長者は下襲だけを染めて表袴は染めないといい、やはり下襲 表袴のことであることがわかる。

『駒競行幸絵巻』には、殿上人たちが思い思いの下襲を着用している姿が描かれている。『駒 競行幸絵巻』は静嘉堂及び和泉市久保惣記念美術館蔵のものが伝わるが、和泉市本は静嘉堂本 のあとに続くもので、万寿元年(1024年)9 月19日後一条天皇や東宮が同じく高陽院に行幸 啓になった時の模様を描く。この絵巻が描かれたのは 14 世紀といわれる。万寿元年の実際を どの程度伝えているものであるかは本論筆者には判断できないが、『栄花物語』には、この行幸 の装束については「いづれの殿ばらも皆御装束めでたきなかに、関白殿の御下襲の菊の引 輝きて、目留まりたり」(新編②421頁。関白は頼通)とあるから、下襲の裾の部分が9月の菊 に合わせた豪華なものだったようで、官人たちもみなみな趣向を凝らした立派な装束だったよ うである。『小右記』にもこの行幸の記述は多量にあるが、特に参列の公卿たちの衣装について の言及は見当たらない。絵巻を見る限り、簀子に座る官人たちは全員黒の袍を着て、いろいろ な裾を長く欄干から垂らしている。袍は黒だから、公卿たちの束帯の位袍の色である。やはり、

ここでも、自由な装いは、趣向を凝らした裾である。裾だけでなく袍も自由でなければ夕霧は 六位の浅葱から逃れることはできないのである。

しかし、特別な日には蔵人以外の下級の官人も青色の袍を許されることがあった。『枕草子』

にそれを示す章段がある。これは同時に特別な日以外は蔵人以外が青色を着用するのは難しか ったことをも示している。『枕草子』第3段「正月一日は」に、「蔵人思ひしめたる人の、ふ としもえならぬが、その日青色着たるこそ、やがて脱がせでもあらばやとおぼゆれ」(新編 31-32頁)で、蔵人になりたいと思っているが、すぐには、なれそうにないといった人が、なりた いと思っている蔵人の青色の袍を、特別な日だからというので、着ることができたので、さぞ 脱ぎたくないと思っているだろうから、そのまま着せておいてやりたいといっているのである。

151 『後照念院殿装束抄』古記・古抄物を引き、故人の談話などによって説明を加えたもので、鎌倉時代の近 衛家流のもの。