第2章 少女巻の夕霧と五節
第1節 「殿上に還る」 夕霧はなぜ六位で昇殿できたのか
(1) 蔵人の可能性
(イ) 年齢から
蔵人は、六位も含めて天皇の側近である名誉と誇り、それに伴う権勢を伴った羨望の役職だ った。希望者は多く、公卿の子弟も競って望む職でもあった。
『玉上評釈』にいうように夕霧は蔵人になったのだろうか。蔵人には定員があり、紫式部の 時代、おおむね五位蔵人3人、六位蔵人4~5人で、頭2人を入れて総勢10名で業務はフル回 転である102。この時代の蔵人は劇務である。数えで12歳の夕霧は、今なら10~11歳、小学5
~6 年生に過ぎない。蔵人は、年端のゆかない「児童」が、勉学の片手間で務まるような職で はなかったと思われる103。『蔵人補任』で六位の蔵人の年齢の記載は多くはないが、一条朝の六 位蔵人で、『蔵人補任』に年齢の記載のあるのは、藤原信経、藤原広業、菅原孝標、藤原資業の 4名だけであるが、補任時の年齢はそれぞれ27、21、28、21歳であった。まれではあるが、こ の時代にも 10 代の年少の蔵人がいたことはあった。以下に示す。(特に注していないものの 出典は『蔵人補任』。)
① 藤原伊周104(14歳)。権大納言道隆の息子。寛和3年(永延元年)987年10月17日、五 位蔵人に補任。しかし、伊周は3か月も経たない翌年の正月7日に従四位下となって蔵人所 を去った。初めから、在任は短期が予定されていたと考えられる。
② 藤原道雅(16歳)。伊周長男。『御堂関白記』寛弘4年(1007年)正月13日条の道雅の蔵 人補任を記した条に、「若年と雖も故関白鍾愛の孫なり。仍りて補せらるるなりてへり。兵部 丞広政・惟規等なり。所雑色・非蔵人等を置きながら、件の人を補せらるる事、当時、所に 候ずる蔵人、年若く、又、任ずべき非蔵人・雑色等も年少なり。仍りて件の両人は頗る年長 にして、蔵人に宜しき者なり。仍りて補せらるる所のみ」105とある。順番なら蔵人に任官で きる蔵人所雑色や非蔵人もまだみんな若いといって差し置いて、故関白(道隆)の孫である からという理由をもって、16 歳の若さで道雅が五位の蔵人に補せられた。しかし、他の蔵人
102 蔵人頭は2名で、1名は弁官から、もう1名は近衛府から選ばれるのが原則だった。しかし、『蔵人補任』
をみると例外も多いようだが。
103 院政期になると蔵人も変化していく。
104 伊周は次子であるが、長子の通頼は祖父兼家の養子になっている。
105 読み下しは国際日本文化研究センターの摂関古記録データベースによる。
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たちも、蔵人候補の所雑色・非蔵人も若年であるので、心もとないからだろう、「頗る年長 で、蔵人に宜しき者」である兵部丞広政・惟規の両人が蔵人に加えられた。もっとも、16 歳 の関白孫が五位蔵人であるのに対して、ベテランの広政(庶政)、惟規は六位蔵人であった。
しかし、一面、この記事にも「若年だけれど故関白の孫だから」とあることからは、16歳は 蔵人に任官するには若年であるという認識があったことが推測される。余談であるが、この 時、五位蔵人となった故関白孫こそが、後にいろいろな事件を起こし、世に荒三位とか悪三 位という異名をとった道雅である。道雅は、三条皇女で前伊勢斎宮の当子内親王と密通した り、敦明親王の従者に重傷を負わせたり、はては花山院皇女(但し落胤)を殺害させた犯人 ともいわれている。道雅は、結局、寛弘4年(1007年)正月から寛弘6年(1009年)正月ま で丸2年五位の蔵人を務めた。
③ 藤原能信(16歳)。道長の四男で明子腹。寛弘7年(1010年)2月、蔵人に補せられた。
能信は補任の約一年半後の寛弘8年10月に従四位下となり蔵人所を去った。
時代が下って院政期になると幼年の蔵人が頻出するようになる。寵臣などの子弟や摂関家と 関係の深い家司たちの子供が幼年で名ばかりの蔵人に任じられるケースが増えるのである。以 下に示す。(『蔵人補任』から拾った106。父親たちについては主として『平安時代史事典』を参 照した。)
① 藤原家保(15歳)。家保は白河院の乳母子の藤原顕季の次男であった。
② 高階仲章(11歳[『中右記』では 12歳])。承徳2年(1098年)、『蔵人補任』の注として
「十一歳補侍中、未有此例、顕季朝臣二男家保、往年十三補侍中、希有例也。何況十一乎、
藤原盛輔叙爵替」とあって、やはり、一般的には、「侍中(蔵人)になるには、13歳でも稀 であるのにいわんや 11 歳など論外だ」と考えられていたのである。仲章の父の為章は白河 院の院司受領で、上皇皇女の家司も勤めた人物である。
③ 藤原顕頼(14歳)。嘉承2年(1107年)に補任。父の顕隆は白河院の近臣。
④ 藤原定経(10歳)。仁安2年(1167年)に補任。藤原(吉田)経房の息子。父の経房は実 務に有能な官僚で、永万2年(1166年)六条天皇の五位蔵人、仁安3年(1168年)高倉天皇 蔵人で、建久9年(1198年)に権大納言まで昇ったが、もとは摂関家の家司であった。
⑤ 藤原邦兼(11歳)。仁安2年(1167年)補任。
⑥ 藤原為賢(11歳)。仁安2年(1167年)補任。
⑦ 高階経仲(11歳)。仁安3年(1168年)補任。経仲の父の高階泰経は後白河院の院司・別
106 すべてを尽くしてはいない。
65 当などを勤めた人物。
藤原定経、藤原為賢、藤原邦兼ら 11 歳の子供たちが蔵人となった仁安のころには、蔵人の 人数は膨れ上がっていた。仁安 2 年(1167 年)六条天皇の蔵人にはこれらの幼年蔵人を含め て、14名もの六位蔵人がいたし、仁安3年高倉天皇即位後には11人もいた。これだけの人数 が実際に勤務していたわけではなく、幼年蔵人たちは 1~2 か月で交替が多い107。幼年蔵人が 続出した院政期であっても、無能力な子供たちが長期にわたって蔵人を勤めることはなかった ようである。高階氏など、これら幼年蔵人たちの父親は、当時は権門家ではなかった。この時 代までには上級貴族の子弟は年爵などを利用して五位に直叙されるのが一般的になっていた から、「六位」の蔵人は彼らにとっては既に名誉の職ではなく、代わって、院の近臣の子弟など の、それなりの地位への登竜門となっていたのだ。
これらの幼年蔵人が頻出した時代は紫式部よりは後代だから、紫式部の知るところではなか ったが、六位蔵人の相対的地位の下降は、紫式部の時代にも既に現れており、権門の子弟が蔵 人に補せられる場合には、若年で蔵人に補された伊周も、道雅も、能信もみな、六位ではなく、
五位の蔵人であった。年齢的には、少数の例外であった若年の、道雅、能信も、補任時には16 歳、例外中の例外で 3 か月だけの蔵人となった伊周さえ14歳にはなっていた。数え16歳は現
在なら14~15歳、夕霧の12歳とは同列にはできない。また、夕霧は六位であるから、権門の
子弟の補せられる五位蔵人にはなりえない。蔵人は実務に長けた有能な官人が求められていた のであり、例えば近衛府の次将のように、権門の子弟が、弓馬の道は知ることなく、ただ飾り 太刀を帯してきらびやかに装えば事足りた職掌ではなかった。まして、光源氏の教育方針によ り、夕霧は花散里の下で、大学入試(寮試)にむけて、学者を招いてのカン詰め状態で勉学に 励むような体制が敷かれていた間、実務の才が求められていた六位蔵人への 12 歳の夕霧の任 官の可能性は当時の宮廷社会の中では非常に低いことがわかる。
(ロ) 「浅葱の袍」から
実は、「夕霧は蔵人ではなかった」ことを示す確かな証拠が本文中にあったのである。それは
「浅葱の心やましければ、内裏へ参ることもせずものうがりたまふを、五節にことつけて、直
107 例えば、藤原家保は嘉保元年(1094年)6月13日に補任して、7月16日には去った。藤原顕頼は12月9 日補で正月24日去、為賢は9月6日補で10月20日去、定経は閏7月12日補で9月5日去、高階経仲は 8月27日補で9月12日去、(『蔵人補任』による)。彼らは、記録が見いだせない家保を除いて皆、従五位 下に叙されて六位蔵人を去っているので、任六位蔵人は叙爵へのステップだったと思われる。
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衣などさま変れる色聴されて参りたまふ」(新編③62 頁)という文章にある108。今までは、夕 霧は、自分が六位でしかないことを自他にあからさまに示す浅葱の袍を着るのがいやで、内裏 に参内しようとはしなかったのだが、五節の日には位袍以外の色の衣装を着ることが許されて、
内裏に出かけていくというのである。もし、夕霧が蔵人だったらこの言葉は出てこない。蔵人 は五位でも六位でも青色の袍を着ることを許されていたからである。夕霧が六位蔵人であった としたら、浅葱の袍は着る必要はなく、いつでも、青色の袍109で参内できていたのである。
青色の袍は、蔵人になると任官後数日で勅許が下りる。青色の袍とは、天子の麴塵袍と同色 である。しかし、天皇の麹塵袍と全く同じかというと、そうではない。織とか文様に差はある。
紫式部の時代に六位蔵人が青色の袍の日常的に常用を許されていたことは『枕草子』からも 確認できる。清少納言は、ことのほか蔵人の青色の袍に思い入れがあったようだ。蔵人は日常 的に青色の袍の着用を許されていたことを示す『枕草子』の章段は次の通りである。
1. 73段。場所は内裏の局である。
几帳の帷子いとあざやかに、裾のつまうち重なりて見えたるに、直衣のうしろに、ほ ころび絶えすぎたる君達、六位の蔵人の、青色など着て、受けばりて、遣戸のもとな どにそば寄せてはえ立たで、塀の方にうしろおして袖うち合はせて立ちたるこそをか しけれ。 (新編128-129頁)
直衣姿の若い公達や、青色の袍を着た六位の蔵人110が得意げに遣戸(引き戸)のもとな どに集まって、塀の方に背中を押し付けて袖を掻き合わせて111立っている姿が書かれてい る。これも行事の日ではなく、普段の冬の夜の情景である。
2. 84段の「めでたきもの」の列挙に六位の蔵人が入る。「六位の蔵人。いみじき君達なれど、
えしも着たまはぬ綾織物を心にまかせて着たる青色姿などの、いとめでたきなり」(新編
108 「色聴されて参りたまふ」の部分には諸本間に揺れはない。
109 『職原抄』(1340年成立)にはなるが、蔵人の極臈は天皇の御衣(麹塵袍)を下賜されることがあるので、
それは(他の蔵人の青色との区別において)「麹塵袍」と呼ばれ、その他の同色袍は、それに対して「青色 の袍」と呼ぶともいうとある。
110 小学館新編『枕草子』73段の「青色など着て」の頭注には「蔵人の袍。天皇の常用であるが、蔵人は晴れ に日に限って着用を許された」とあるが、晴れの日に限って許されるのは、蔵人以外の者たちである。蔵 人は特別な時でなく、青色の袍を、日常的に着ることができた。また、頭注は続けて、麹塵袍は「天皇の 常用」であるというが、麹塵袍は天皇の略礼装であり、「常用」とはいえないだろう。『枕草子』73段は特 別な時ではなく、普通の時の情景である。
111 「掻き合わせ」は小学館新編の訳による。原文「袖うち合はせて」には「かしこまって遠慮した態度と見 る」と頭注がある。