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「殿上闇討」 忠盛の内裏昇殿と長承元年の五節

第 1 章 忠盛の昇殿と五節

第2節 「殿上闇討」 忠盛の内裏昇殿と長承元年の五節

忠盛が初めて内裏の昇殿を許されて、それを快く思わない殿上人たちが、五節の行事の夜を 利用して忠盛に恥辱を加えようと策略をめぐらしたが、忠盛は機転によってそれを切り抜け、

かえって院(鳥羽院)のお褒めに預かったという。平家の台頭を示す話として、『平家物語』諸 本の巻第一に置かれる章段である192

(1) 得長寿院の寄進と見返り

忠盛の内裏昇殿は前節で述べたように長承元年(1132年)のことであった。内裏の昇殿を許 されたのはやはり、ひとえに白河千体観音堂(のちに得長寿院と命名された)の寄進によるも のだった。『中右記』(史料大成本)3月9日条(白河千体観音堂供養習礼)に「堂<備前権守 造営也>」とある。実際には忠盛は備前の「権守」でなく、「守」であったが(『国司補任』な どによる)。同じく『中右記』の3月13日堂供養の当日の最後に行われた勸賞で「国司忠成ママ被 下遷任宣旨、又被聴内昇殿、封戸百烟取寄」とある。(国司「忠成」は観音堂を寄進した忠盛で 間違いあるまい。)さらに『中右記』3月22日条に「備前守忠盛朝臣入来云、被聴内裏昇殿之 後、今日初供御膳也、此人昇殿猶未曽有之事也」(下線付加)とあり、忠盛の内裏昇殿が未曾有 のことと受け止められていたことが知られる。

『中右記』には、忠盛がこの3月13日の勸賞で内裏昇殿とともに「遷任宣旨」を得たとあ る。遷任とは、別の国の受領に遷れるということであるが、大治2年(1127年)12月20日に 備前守になって、長承元年(1132年)正月19日には備前守を重任されている193。忠盛は長承 元年11月現在備前守であり、そして3年後の保延元年(1135年)にも備前守である。この年、

192 五節の起源が述べられる位置は諸本によっていろいろあるが、「殿上闇討」はいずれの本でも最初の巻(祇 園精舎のあと)に置かれる章段である。

語り本系

百二十句本(国会本) 五節の起源は巻第五の49「五節の沙汰」

城方本(八坂系) 102「殿上闇討」、511「五節之沙汰」(起源)

高野本 一の巻 「殿上闇討」、五の巻「五節之沙汰」(五節の起源を含む)

読み本系

延慶本(大東急文庫本)

第一本の1 「平家先祖の事」。殿上闇討ちと五節の起源

第一本の3 「忠盛昇殿の事付けたり闇討の事付けたり忠盛死去の事」

長門本 巻一 「殿上闇討」、巻十一「五節之沙汰」(五節の起源を含む)

源平盛衰記 巻第一 「五節夜闇打附五節始並周成王臣下事」

193 『中右記』長承元年正月19日条「重任因幡、備前、武蔵三ヶ国也」

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長承元年正月に重任されているなら、3月に改めて重任の宣旨は不自然である。「重任」と「遷 任」に関しては曽我良成の論文があるが、曽我は、重任と遷任はこの時代、明確に使い分けら れていたことを論証する(曽我2006)194。『中右記』3月13日条の「遷任」が重任との混同で なければ、これは備前守の重任(任期4年)の後、さらに、いずれかの国に遷任できるという、

これから4年以上も先の約束手形を既にこの時点で手に入れたということになる。得長寿院の 成功は大変大きいもので、昇殿・重任・遷任と破格な見返りを手に入れた。勿論、鳥羽院の方 も、忠盛を引き立ててその軍事力を配下にして、自分の政権安定に役立てたことは間違いない と思われる。

『平家物語』の覚一本には堂の供養は「天承元年」(1131年)3月13日として、殿上闇討の 五節も同年の天承元年の豊明としているが195、前述の『中右記』3月9日条他の史料から、得 長寿院の供養と忠盛昇殿は長承元年(1132 年)であることが確認されている。『源平盛衰記』

196では供養のあった年は「崇徳院御宇長承元年<壬子>」と正しい。さらに『源平盛衰記』は、

以下のように鳥羽院の感激と、忠盛の昇殿が如何に破格のものであったかを力説する。但し刑 部卿は忠盛最後の官職であり、任刑部卿は仁平元年(1151年)のことで、内裏昇殿より大分の ちのことである。

禅定法皇叡感ニ堪サセ給ハズ、被遷任之上、当座ニ刑部卿ニナサル、内ノ被昇 殿。昇殿ハ是象外ノ選ナレバ、俗骨望事ナシ。就中先祖高見王ヨリ、其跡久絶タリシ、忠 盛三十六ニシテ被免ケリ。院ノ殿上スラ難上、 況いはんや内ノ昇殿ニ於ヲヤ。当時ノ面目、子 孫ノ繁昌ト覚タリ。法皇常ノ 課おほせニハ、「忠盛ナカラマシカバ、誰ガ朕ヲバ仏ニ成ベキ」ト テ、或時ハ御剣御衣、或時ハ紗金錦絹ヲ、徳得長寿院ヘ可廻向トテ、 下くだし賜ヒケリ。

(『源平盛衰記』巻第一「五節夜闇打」三弥井本14頁)

(2) 闇討ちと背景

忠盛は長承元年の時点で正四位下であった。つまり、宮中席次では六位の蔵人や、五位や従 四位の殿上人たちより上に着席する。忠盛へのねたみは、忠盛に位階を超えられた四位・五位 の殿上人に特に強かっただろうと推測する。本文でも「雲の上人これを猜そねみ」(旧大系㊤84頁)

194 なお、曽我(2006)は『中右記』の「国司忠成ママ被下遷任宣旨、又被聴内昇殿」を正月19日条の記載とする が、313日条の誤記であろう。大日本古記録『中右記』には長承元年正月の記述は何もない。

195 旧大系㊤84頁。「同じき年の1223日」としているが、五節は勿論、11月の行事である。

196 以下『源平盛衰記』の引用は特段の断り書きがない限り、三弥井書店『源平盛衰記』による。

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といっている。忠盛をねたんではかりごとをめぐらしたのは「雲の上人」たちで、すなわち昇 殿を許されている四位・五位の官人たちだった。「雲上人」、「雲客」は通常は公卿は含まない語 である。(公卿を含む場合には「卿相雲客」か「月卿雲客」などという言葉がある。忠盛は昇殿 しても公卿たちよりは下位であるから公卿たちにはまだ余裕はあっただろう。)雲客たちはい ったいどんな恥辱を考えたのだろうか。長承元年の貴族の日記類には忠盛闇討ちの企てなど当 然登場しない。物語上でも成就しなかったことだし、最初から創作だろうから、想像するしか ない。「殿下乗合」の段では平家の報復で関白の家来の髻が切られ、「主人の髻が切られたと思 え」と云っているから、あるいはここでも髻を切るような恥辱を考えたか。しかし、小刀など の刃物を殿上まで持ちこんで使うのは難しいだろう。闇に紛れて打ち据えたり、転ばせたり、

地面に突き落としたりするつもりだったのだろう。

殿上での帯剣は公卿以外は限られた者にしか許されなかったが、節会などに際しては束帯服 飾の一部として飾かざたちの着用があった。しかし、飾剣は細太刀であり、実際に何かが切れるよう な物ではない。忠盛は勿論のこと、闇討ちを企てている殿上人たちも実戦用の剣は持ち込めな い。第一、血でも流れたら、内裏は穢となって五節そのものが中止になりかねない。なお、闇 討ちは「暗打」の字を充てている本もある。五節後に殿上人が忠盛を訴えた言葉にある「夫それゆうけん

を帯たいして公こうえんに列れっし」(旧大系㊤87 頁)の「雄剣」の意味することについては、旧大系は特 に注さないが197、小学館新編頭注は「剣の美称」とする198。しかし、これは単なる飾り剣でな くて、実際に切れそうな本物の刀を節会に持ち込んだという意味であろう199。帯剣を許されて いないのに剣を持ち込んだのであれば、本物の太刀でなかったことが証明できても当然処罰の 対象になりうる。飾太刀でなく、実際の刀であったと殿上人たちは訴え、忠盛が反証するので ある。節会の時の帯剣者の範囲はかなり広範囲に及んでいる。(貴族の日記はほぼ自分の剣の 仕様に終始しているので『平家物語』の時代の行事ごとの帯剣細則は管見の限りでは不明であ る。)剣は束帯装束の一部であり、身分によって造りにいろいろな差があった。蒔絵剣より螺鈿 剣のほうが格が高く、公卿が螺鈿剣の時、殿上人は蒔絵剣のようである。豊明節会は天皇が群 臣に賜う公式の宴であるので、臣下は全員束帯である。

『延慶本平家物語全注釈』では「剣を佩帯して儀式に参加することが、勅授帯剣の公卿と武

197 「雄剣」に関して、[寂光院本の](こうけん)「こ」ハ「ユ」ノ誤カ」を挙げるのみである。

198 岩波新大系の注も同様に「りっぱな剣」とする。飾太刀の仕様は身分によって規定されているから、公卿 ではない忠盛が佩く剣は美麗な太刀ではないだろう。

199 「雄剣」の用例では例えば、次のようなものがある。『御成敗式目追加』にある仁治3年(1242年)の乱 闘事件についての状である。「一勝定寿院僧坊連々有闘乱度々及殺害事。右武士之郎従。猶以不可及如此 狼藉。況於僧徒類乎。是シカシナガラ召仕武勇不調之輩。専不加禁遏故也。加之三昧僧等偏事酒宴。踈其節之由有風 聞。非啻破戒行。剰背尋常之法。自今以後僧徒。法師。童子。力者法師。横雄剣差腰刀。一向可停止之。

若背制符及刄傷殺害者。宜処過怠。主人固存此旨。不可違犯之由可令触供僧等也。仍執達如件。仁治三年 三月三日前武蔵守」(下線付加)。この場合の「雄剣」は実際に殺傷能力のある剣である。