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第3図 初期須恵器廃棄過程の想定模式図 (1:4)

ドキュメント内 <88E290D55F3495AA8DFB2E696E6464> (ページ 166-171)

この外表面の磨滅は,無蓋高杯全体ではなく,杯部 ならびに脚部ともに一部方向と,その対極方向の杯 部口縁部内面のみに限定される。この一部方向の外 表面と口縁部内面に見られる磨滅した理由は何であ ろうか。

 磨滅した理由は,いくつかあるかと考えられる。

しかし,外表面の一部方向と口縁部内面に見られる 磨滅は,磨滅の状況が似ており,同じ理由に基づい て磨滅したと考えられる。論者は資料観察の結果,

第3図のように無蓋高杯が斜め方向に長期間置か れ,雨ざらしの状況にあったため,降雨により表面 が磨滅した可能性を想定した。須恵器表面の磨滅箇 所が,杯部ならびに脚部ともに一部方向と,その対 極方向の杯部口縁部内面のみに限定されことがその 根拠である。

 さて,矢野遺跡出土初期須恵器は,溝 SD3042 か

ら出土している。この SD3042 からは,初期須恵器

無蓋高杯の他に,土師器の壺・甕や土錘が共伴して

出土している。これらの共伴遺物の中でも,注目し

たいのは土師器甕の胴部中程に穿孔を施したものが見られる点である。初期須恵器の性格については,

これまで実用品であるのか,宝器であるのか,祭祀品であるのか議論が行われている。胴部穿孔の土 師器甕が共伴して出土していることを考えると,SD3042 出土資料は,何らかの祭祀に使用された土 師器・初期須恵器を溝に廃棄した可能性が高い。先に,矢野遺跡出土の初期須恵器無蓋高杯に見られ る磨滅から,高杯が長期間斜め方向に置かれていたことを想定した。さらに,高杯は溝の中から複数 の破片の状態で出土している。想像をたくましくすれば,長期間斜め方向に置かれていた後,祭祀に 伴うのか,あるいは祭祀終了後,土師器の壺・甕に伴って無蓋高杯が溝に放り込まれた様子も考えら れる。

まとめ

 本稿では,矢野遺跡第9次調査 SD3042 出土の無蓋高杯の資料的位置づけを目的として,類例の検 討,出土状況の復元を行ってきた。その結果,矢野遺跡出土例は,TK73 型式に位置づけられる初期 須恵器であり,祭祀品として使用された可能性について考察を行った。

 山陰地域における初期須恵器・陶質土器の出土事例はまだ少なく,消費の実態など不明な点も多い。

このような中で矢野遺跡出土例は,山陰地域における初期須恵器・陶質土器の様相を知る上での貴重 な例を1例追加したことになる。

参考文献

岡戸哲紀編 1995『陶邑・大庭寺遺跡Ⅳ』大阪府教育委員会・財団法人大阪府埋蔵文化財協会 岡戸哲紀 1996『陶邑・大庭寺遺跡Ⅴ』大阪府教育委員会・財団法人大阪府文化財調査研究センター 定森秀夫 1994「陶質土器からみた近畿と朝鮮」『ヤマト王権と交流の諸相 古代王権と交流5』名著出版 高橋護 1991「土師器の編年 3 中国・四国」『古墳時代の研究 第6巻 土師器と須恵器』雄山閣出版 中村浩編 1978『陶邑Ⅲ』大阪府教育委員会

中村浩 2001『和泉陶邑窯出土須恵器の型式編年』芙蓉書房出版

金延鶴・鄭澄元 1979『釜山華明洞古墳群』釜山大学校博物館

第6節 矢野遺跡出土の文字資料について

髙橋 周 (出雲市文化財課)

 矢野遺跡の調査において,墨書土器 20 点,刻書土器 2 点の文字資料が確認された。その年代につ いては,供伴の土器の多くが8世紀代に相当するものであり,墨書土器の多くは当該期に属するもの とみられる。墨書・刻書土器のうち,遺構内から出土したものが 3 点で,大半は包含層から出土した ものである。包含層ではD区2層出土が8点で半数を占める。当該区は現・八野神社の南西に位置し,

8世紀には自然流路が形成されたとみられる。すなわち,墨書土器の多くは自然流路への流入と考え られ,墨書土器それぞれの使用の関連性を窺うことはできない。しかしながら,字義的に共通する面 があることは注目される。墨書土器が包含層から多く出土する状況は周辺の青木遺跡・中野清水遺跡 でも共通しており,その使用の様相を窺うことができる。

 本調査区出土の文字資料において特に注目されるのは,「社」 (223 − 10・398 − 15) と記すもので,

いずれも赤彩土師器の底部にみられる。1点は内面のみに赤彩を施し,外面に「社」 (398 − 15) と墨 書する。また,1点は内外面ともに赤彩を施し,焼成後,外面に刃器で「社」 (223 − 10) と刻む。底 部外面の赤彩の有無から,両資料に一定の時期差を想定し得る。

 「社」の墨書・刻書土器は,全国的には類例が少ないが,青木遺跡から墨書土器「美談社」 「美社」 「社」,

鹿蔵山遺跡から墨書土器「社」が出土する。青木遺跡の墨書土器は, 『出雲国風土記』 (以下, 『風土記』)

所載の「彌陀彌社」に比定される天平期の神社遺構と関わる供飲供食儀礼に伴うものとする (島根県 教委 2006) 。また,鹿蔵山遺跡は杵築大社周辺に位置することから,杵築大社に関わる官衙的な施設 に関連するものとしており (大社町教委 2005) ,墨書土器「社」は神祇関連の諸施設に関わるものとみ られる。

 本調査区出土の「社」については,2 点ともに現・八野神社の境内地に隣接した地点より出土する ことから,『風土記』所載「矢野社」に関わる可能性がある。『風土記』神門郡八野郷の地名伝承に,

同郷に坐する八野若日女命を娶るために大穴持命が「屋」を造ったとあることから,何らかの施設が 存在したとする指摘もある (錦田 2004) 。古代における「社」の存在形態として,一様に本格的な社 殿が建てられたわけではなく,自然の樹木や岩から井桁土台の簡易な社殿までの遺構として残り難い 多様なあり方が存在したとの指摘 (三宅 2001・錦田 2004) を考慮するならば,本調査区において所謂「神 社遺構」と想定できる遺構は未確認ながらも付近に関連の施設が存在した可能性は考えられよう。

 また,「社」と関連するのが,「社司」 (398 − 16) と記すものである。須恵器の底部外面に墨書され る。島根県内には「社邊」と記す墨書土器がみられるが,「社邊」とは『風土記』に島根郡の郡司と してみえる社部氏を示唆するものと指摘される (松江市教委 1971・平石 1997) 。本例も「社部」と記し た可能性はあるが,「社」の墨書・刻書土器が出土することから,「社刀」もしくは「社司」とみるの が妥当であろう

(1)

。このように考えるならば, 『令集解』儀制令春時祭田条一云にみえる「社官」 「社首」

に相当するものであり,8世紀の村落祭祀の一端を知る上で注目される。「司」の用字は,公的に規

定された職名だけでなく,個人的な職務を表わす際にもみられる。「社司」が関与した「社」の規模

を推し量ることはできないが,ここは「社」を管理・運営する個人的な職務を示したものと思われる。

 「社」「社司」と関連して,「酒」 (352 − 9) 「専」 (398 − 4) 「夲」 (398 − 14) も同種の内容を含むも のと思われる。「酒」は『令集解』儀制令春時祭田条一云に,酒を造り設けて祭日の飲食に供するこ とが見えており,「社」に関わる可能性が高い。「専」は専当・専使などの意味で用いられ,「夲」は 奉の略字体の可能性がある (水澤 2005)

(2)

 また,地名と思われる墨書土器も 3 点出土する。1点は「大山」 (219 − 12) と赤彩土師器の底部外 面に記すものである。赤彩の範囲や器形から,8世紀前半のものと考えられる。本調査区の南に「小 山」の地名が遺存し,同地内に『風土記』所載「大山社」に比定される小山神社が立地することから,

「大山」とは調査区周辺の地名に関わるとみられる。『風土記』によると,八野郷は3つの里で構成さ れ,同郷内には少なくとも矢野社・大山社が立地したと考えられる。『風土記』所載の郷名社・里名 社の記載に関する研究によると,里名社は郷名社に対して後発的であり『風土記』の記載順では神祇 官社の後半か不在神祇官社にみられるとする (平石 2007) 。すなわち,矢野社は神門郡内神祇官社 25 社中7社目の記載に対して大山社は 20 社目であることからすると,「大山」とは里名に関わる可能性 も考えられる。このほか,「伊」 (398 − 17) ,「三」 (398 − 13) と記すものがある。「伊」は須恵器皿の 底部外面に記される。同様のものが青木遺跡でも出土しており (島根県 2006) ,出雲郡伊努郷を示し たものとされる。本例は,「尹」の1画目を縦に書き,1 画目を横に書き出す青木遺跡の「伊」字と は筆癖がやや異なるが,青木遺跡出土の「伊」字との関連性を否定することはできない。また,「三」

は赤彩土師器の体部外面に記されるが,これも「三太三」 (美談) の意として青木遺跡から類似例が 出土する。8世紀において調査区所在の神門郡八野郷と青木遺跡の出雲郡伊努郷・美談郷とは「出雲 大川」を挟んで立地する関係にあるが,「伊」「三」を伊努郷・美談郷の意に解するならば,郡を越え た交流の一端を窺うことのできる資料となろう。

 また,「内家」 (398 − 5) ,「内」 (398 −1・7・9・10・18) と記すものが出土する。「内家」は赤彩土師器 の底部外面に記される。「内」は本調査区出土の墨書土器のうち最も多くみられ,赤彩土師器4点,

須恵器1点で,赤彩土師器には「八内」 (398 − 8) と記すものもある。「内」の意味については, 「社」 「社 司」と同層位より出土するものがあることから, 「社」に関わるものである可能性が考えられる。「社」

の語義は,「ヤ (屋) 」とは何らかの建築物で,「シロ (代) 」とはシル (領知) が原義で「〜となるた めの特別地」「〜するための特別地」などの意味があるとされる (西宮 1990) 。また,「ヤ」とは常設・

仮設の神殿の両様を含んでおり,本来の意味は「特別地」の方であると指摘される (三宅 2001・錦田 2004) 。すなわち,「内」とは「社」の祭祀空間の内側を示した可能性が考えられる。また,『年中行 事絵巻』巻3「闘鶏図」に鳥居や板垣・柴垣で区画された祭祀空間に巫女の家とみられる建物が描写 されるように,祭祀空間の内側には祭祀に関連する施設が存在したとみられる。したがって,「内家」

「内」とは「社」の祭祀空間の内側での使用を示唆するものと考えられる。「八内」については「八」

を「ヤ」とみるならば,「内家」と同義もしくは「八野」を示唆するものではなかろうか。

 以上,矢野遺跡出土の文字資料について考察を加えたが,冒頭で述べたように,その多くは包含層

から出土したもので,それぞれの関連性を示す根拠は低い。しかしながら,同層位から出土する土器

ドキュメント内 <88E290D55F3495AA8DFB2E696E6464> (ページ 166-171)

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