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第二期無教会内部の考察

ドキュメント内 伝統物語の系譜学 (ページ 170-200)

第四章 教祖内村像の構築に関する考察

第四節 第二期無教会内部の考察

4-1 第二期無教会集団の分裂

第二期無教会集団は、共存困難な二つの派に分断した。主流教会からの批判に対して自ら の集団を弁護するための方策として作られた二種類の教祖伝は、部外者にとっては何の問 題もなかったが、第二期無教会の各集団にとっては論争を引き起こした。

教祖以後の時代に、第二期無教会集団は、外部との間の種々の問題を解決しなければなら なかった。第二期無教会集団は、社会的アイデンティティと正統性の問題に直面したのであ る。各第二期無教会集団における正統性とは、内村の死と関係がある。内村は他の教祖たち とは異なり、自らの死後の後継者を指名しなかった。この内村の行動が、彼の死後、無教会 集団内で問題を引き起こした。各第二期無教会集団は教祖内村鑑三と彼の無教会主義理論 を共有する。

第二期無教会集団における正統性の紛争に内村家も介入している。こうして、内村像を創 出する集団は大きく三つ形成された。(1)伝統物語の支持する集団、(2)預言者物語を支持 する集団、(3)遺族と連帯した集団である。このように無教会集団は、一人の教祖の名の下 である集団が分派する事例でもある。一人の教祖の名の下である集団が分派することを、無 教会を例に解説する。

4-2 第二期無教会集団の対立

内村物語は本論文ですでに検証した伝統物語だけではなく、その他の多様なバージョン を持っている。内村という一人の人物から、なぜかくも多様な物語が創出されたのだろうか。

鵜沼裕子によれば 760、内村物語の多様性の要因を十色の研究者の見解とそれらの研究者の 立場によると指摘している。多様な内村物語は、互いに牽制し合っていた。それは内村没後 に散発した無教会集団の間の軋轢に起因する。内村没後には無教会集団間で論戦が散発す る。当初、無教会集団は外面的には内村の無教会主義に沿って組織化の否定を標榜し、集会 を中心とした活動を維持していたが、宗教団体法制定に危機を感じ、一転して、国家の公認 を得る方向に舵を切った。

第二期無教会集団は、内村没後、今井館を移転させようとした。そのためは政府に「講党

760 鵜沼裕子『近代日本のキリスト教思想家たち』日本基督教団出版局、1988年、20頁。

設立許可願」を提出しなければならなかった761。1937年、教友会がそれを提出したが、当 局から教義の提出することを要請された。無教会集団は紆余曲折を経て、ようやく認可を受 けたが政府は結局、無教会集団を「宗教結社」に分類した 762。宗教結社としての無教会集 団は政府の監視対象となり、内村の日露戦争当時の非戦主義について説明するよう要求さ れた。これに対して斉藤は、無教会をナショナリズム的な用語で説明したという 763。この 状況は「今井館聖書講堂に關する報告」に詳しく説明されている。「今井館聖書講堂に關す る報告」によれば、斉藤は刑事課の人々に尋問され、斉藤の答えによって彼らの誤解が溶け たという。さらに、彼らは「其美點特質を賞し且つ日本の基督敎の將來に對して、信賴と希 望とを表明する人々の增加をさへ見た」764と述べている。当局関係者は「内村先生の眞の憂 國心と、無敎會信者の信仰と誠意と實力とを認めて、日本の基督敎のため、此際合同に盡力 されんことを望む意向」765を示したという。

第二期無教会集団が宗教結社に分類されたことは、団体の維持に関わる深刻な問題であ った。当時、日本の諸教会が政府の監視の対象となった。此屋根は、「敎會の禮拜に私服の 警官が侵入して、說敎を筆記したり、敎徒の動搖を探知しようとした」766と証言している。

第二期無教会集団における宗教結社の問題を解決したのが、斉藤と塚本であった。塚本は

「数年前」、矢内原と二人で講演をした時、矢内原が問題を起こしたため、憲兵が講演会に 同席したと述べる。憲兵は無教会を秘密結社と認識していたのである。それ以降、刑事たち が塚本を訪れ、塚本の弁論―主に内村の信仰に関して―を聞いて、無教会が秘密結社ではな いことに納得したという 767。斉藤と塚本は各々の仕方で、当局による秘密結社の疑惑を晴 らした。すなわち、斉藤はナショナリズム用語によって、他方、塚本は信仰の弁論によって、

秘密結社の問題を解決したのである。二人の弁護内容も結局、ナショナリズムと信仰に分け られる。ただし、彼らの骨折りにもかかわらず、結局、今井館聖書講堂は宗教結社に認定さ れてしまう。この結末について、『基督信徒之友』の「雑録」は、「宗敎法案に據る敎會組織 を脫し、宗敎結社として集會する事となり」768と報告し、あたかも宗教結社認定が当局の決 定によるのではなく、組織主義を否定する無教会主義による自発的な選択であるかのよう に説明している。

この出来事の後、第二期無教会集団は「記念会」を開き始める。記念会は、1947年に矢内 原の提案によって再開され、1950年から本格的に開催され始めた769。赤江達也は、記念会 の機能を次のように説明している770。(1)先生を記念し、想起するための機会を提供する、

761 無教会史研究会『無教会史Ⅱ』新教出版社、1993年、23頁。

762 同書、27頁。

763 同書、30-31頁。

764 『基督信徒之友』(85)、基督信徒之友社、1941年、29-30頁。

765 同書、30頁。

766 此屋根安定『明治 基督敎傳道』大八洲史書、1947年、217頁。

767 『独立』6)明和書院、1950年、32-33頁。

768 『基督信徒之友』(110)基督信徒之友社、1945年、「雑録」

769 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』岩波書店、2013年、254頁。

770 同書、256-257頁。

(2)無教会を連帯させる、(3)無教会主義の共通意志を形成する、(4)同会での登壇者を 通して、無教会運動のリーダーの素質を示す。このような機能を持つ記念会は、「無教会運 動の一致と連帯を可視化する装置」771であり、無教会のネットワークを形成した 772。藤田 若雄も、「無教会は、各先生を中心にした集会が孤立分散しており、無教会主義としての連 帯は、内村記念講演が唯一のもの」と述べている 773。このことは、一見すると、第二期無 教会集団に一致をもたらしたかのようだが無教会運動という大きなネットワークしか意味 しなかった。ネットワークが構築されたからといって、第二期無教会集団が統一されたこと にはならず、各集団が平和的に共存したことを意味することもない。このことは『無教会史』

に、様々な弟子や集会などが載せられたとしても、それが単一の意味を持つのではないこと に似ている。記念会というネットワークを通して、無教会運動は展開した。しかし、その結 果は、内村を中心に構成された無教会が「一人一人によって代表される」という事態であっ た774。関根正雄は、「同じ無敎會陣營內において相互の差別乃至區別ということが生じた」775 と述べている。また、塚本も当時の無教会陣営を「一人一人ばらばら」「十人十色」「みな違 って」いると指摘している 776。このように、様々な特色を内包していた第二期無教会集団 内で、集団間の暗闘があった。藤田若雄は「内村鑑三の信仰を継承した人々の間において、

その共通点よりも差異の大きいのにおどるいた」777と述べている。主流教会側の Z・Y・Z は第二期無教会内の暗闘について詳しく述べている。

何しろ内村が攻擊してゐた「敎會内の暗鬪?」は無敎會では平氣で行はれてゐる。こ の一派は内村直系 であると自稱して 無敎會に君臨 してゐる團體である。778

第二期無教会集団内部には、「内村直系」を自称する団体があった。その団体は「教友会」

と名乗り、独立党の『内村鑑三傳』の出版を妨害した779。さらにZ・Y・Zは次のように述 べている。

この各團體の上に又特殊の精神をもってゐる男 がゐる。…「余は如何にして基督信 徒となりし乎」を譯した 鈴木俊郎 君である。…この鈴木との 對立者は塚本 である。

771 同書、257頁。

772 同書、253頁。

773 藤田若雄『内村鑑三を継承した人々』(上)木鐸社、1977年、287頁。

774 『独立』(16)明和書院、1950年、42頁。

775 同書、42頁。

776 同書、31頁。

777 藤田若雄『内村鑑三を継承した人々』(上)木鐸社、1977年、ⅰ頁。

778 『新興基督敎』(11)日獨書院邦文部、1936年、43頁。

779 同書、44頁。

『基督敎新聞』には『内村鑑三傳』を出版した独立党を「内村鑑三傳の出版に獨自の立場を持って進でゐ る」『基督敎新聞』基督教通信社、1936315日、4頁)と評価している。なお、松本芳夫は『内 村鑑三傳』の書評で「この巨人の傳記としてはなほ不足の感もないことはない」(『史学』(5)三田学 会、1936年、159頁)と評価している。

勿論塚本の方からは相手しないが、鈴木と黒崎と相應 じて暗目裡に何事かを計晝し てゐる。780

ここでZ・Y・Zは鈴木俊郎に言及している。そしてこの鈴木俊郎は、黒崎と組んで、塚

本と対立している。つまり、鈴木派が存在したのである。Z・Y・Z は、内村没後の無教会 内での軋轢を記録すれば数百頁に達すると書いている 781。高橋三郎も「自分の信奉する先 生の意見が少しでも批判されると、むきになって立ち向かう人が」782ある、と述べている。

内村没後、内村の弟子たちの間では内村の後継者の問題があった。カルロ・カルダローラ はそれによって「極端なほど神経過敏」783となったと述べている。

教祖の理解をめぐって、第二期無教会集団は内部で互いに牽制していた。教友会による

『内村鑑三伝』出版の妨害は、同書が他の評伝と比べて独特な立場を占めていることを意味 する。これは第二期無教会集団の第三の勢力である。第一の勢力とは、日本伝統の継承者と しての内村物語を支えるグループであり、日本的基督教が無教会であると主張した。第二の 勢力は、預言者としての内村物語を支えるグループであり、聖書に見出される教会こそが無 教会という立場である。そして、第三の勢力とは、内村の無教会を死守しようとするグルー プである。それら三つのグループは皆、日本的基督教を論じた。

この三類型を踏まえて、教友会による『内村鑑三伝』の出版妨害を説明すると、次のよう になる。益本重雄は、内村が提唱した無教会は、現在の弟子たちによる「所謂無敎會」とは 異なる、と述べている 784。そして、第二期無教会集団の分裂について次のように語ってい る。

塚本の無敎會は、塚本的の無敎會である。畔上の無敎會は畔上の「無敎會」である。敎 友會の無敎會は敎友會の無敎會である。785

益本は、第二期無教会集団を批判して、彼らの諸集団を「所謂無敎會」786という呼び方で 批判している。彼によると、内村の無教会とは、現在乱立している「無敎會」ではなく、「獨 立敎會」787である。これを誤解して各集団を導いている弟子たちについて、益本は、「これ は實に怪無敎會であって、これを内村いふ「無敎會」であると思ふことは誤りである」788と 批判している789

780 『新興基督敎』(11)日獨書院邦文部、1936年、44頁。

781 同書、44頁。

782 高橋三郎『無教会とは何か』教文館、1994年、13頁。

783 C・カルダローラ『内村鑑三と無教会』新教出版社、1978年、209頁。

784 益本重雄、藤澤音吉共著『内村鑑三傳』獨立堂、1935年、381頁。

785 同書、381頁。

786 同書、385頁。

787 同書、382頁。

788 同書、385頁。

789 塚本虎二も自分は「世のいわゆる無教会主義と必しも一致せざることに気附き始めた」(2頁)と述べ

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