第二章 『余は如何にして』の分析
第四節 神話化作業による『余は如何にして』の自伝化
4-1 解釈される場
解釈の立場に伴って作品の定義が異なり得ることをB・ラッセルの理論で説明する。ラッ セルは机を例に挙げ、単一色相を持っていると想定されている机の色が、観察の場によって 異なる色で記述されると主張する。ラッセルによれば、机の本来の色は単一ではなく、見ら れたすべてである 337。つまり、さまざまな立場から見える色のすべてが妥当性を備えてい るというのである。彼の理論によれば、机は「感覚資料(Sense-data)」を、机を見る人々に 向けて発信し、それを見る人々は自分の「感覚(Sensation)」によってそれを認識するので ある。
ある観察者が主張した色を、別の観察者が同じように見ることは不可能である。その意味 で、ある対象の色として主張されたその色には信頼できない。さらに言えば、ある人が主張 した色を、自分も同じように見たと主張したとしても、双方を同一の主張とみなすこともで きない。両者間には、最大公約数的な一致しかない。この色の理論は、テクストと解釈者の 関係にも適用できる。テクストは感覚資料を解釈者に向けて発信し、解釈者は感覚を通して、
そこから様々なイメージを得る。そして、この二者間に解釈者の立場が介在する。つまり、
感覚資料、感覚そして観察者の立場の三者によって物事が理解されるのである。
しかし、感覚資料を発信する対象があるのでその対象が認識されるのではない。場がある から認識されるのである。それで、各解釈的な立場で提示された主張の正しさを問うことは できない。主張された色の正当性は、各解釈集団によって与えられるからである。読みの正 しさが立場の制約を受けることを、磯村清隆は次のように指摘する。
一つの解釈共同体の内部で、「正しい読み」とは、その期待の地平の「こちら側」に ある解釈であり、「誤読」とは「外側」つまり地平の彼方へと逸脱した解釈である。
そして、何が「正しい」か「正しくない」かは、その解釈共同体を成り立たせている
(前提の枠組)に適合するか否かによって判断されるのであった。338
読みの正しさは、集団の立場に立脚しているのである。しかも、ある解釈の場に、別の解 釈者が足を踏み入れることはできない。こうして最大公約数的な解釈が生成される。その過 程がゲームであり、異なる見方がカテゴリーを形成する。そしてそのカテゴリーの公約数が、
『余は如何にして』の場合、自伝であった。そのジャンルは、テクストが自ずと定義したの ではなく、解釈者の立場が与えたのである。以下は『余は如何にして』を自伝として支持す
337 Bertrand Russell, The Problems of Philosophy, New York: Oxford University Press, 1959, pp. 9-12.
338 磯村清隆「『日記文学』に我々は何を求めているのか:讃岐典侍日記の<読み>をめぐって」『日本文学』
(45)、1996年、1頁。
る立場に反論し、自伝の無力化を試みる。
4-2 『余は如何にして』における日記の問題
『余は如何にして』は内村研究者たちによって内村の自伝として評価されてきた。この評 価を支えたのが内村の没後に作成された年表であり、『余は如何にして』の内容と年表とが 突き合わされて、同書の自伝としての性格が確証された。この年表と並んで、日記という装 置もまた、自伝という評価の正当性を確保した。しかし『余は如何にして』に引用されてい る日記を信用すると、幾つかの問題が生じる。
HIBCの執筆は1893年(内村32歳)に開始され、それから二年後の1895年に出版され た。HIBC に収録されている最後の逸話、内村のアメリカから日本への帰国は 1888 年であ り、その時から本書の出版までには5年が経過している。したがってその5年間に生まれ、
変化した内村の考えが、HIBCに反映されていると推測できる。この反映は、武田友寿の言 葉を借りれば「劇化」、亀井俊介の言葉を借りれば「ドラマチックな構成」である。
『余は如何にして基督信徒となりし乎』は「イエスを信ずる者の契約」署名後十六年 を経て書かれたものである。十代の少年だった鑑三は三十三歳になっており、キリス ト者としての盛名を拡まりつつあった。おそらく、すべての信仰者に自己の改宗を特 別視し、劇化する傾向がある。そのための意味づけは当然に加わるわけだが、『余は 如何にして基督信徒となりし乎』の筆を執る鑑三にも、このような信仰者の通る心理 的行歩は避けえなかったはずだ。339
これは単なる「日記」でもない。日記が随所に散りばめられているが、全体として、
本書は非常にドラマチックに構成されている。340
「劇化する傾向」、「ドラマチックに構成」という表現が指し示すように、『余は如何にして』
は純粋な過去の記述ではない。作者は過去の平凡な素材を劇化させる。執筆時の時代の影響 や、作者の思考がそれには反映されている。過去の語り手と作者の間には断絶や不干渉が生 じるのである。劇化、構成によって過去は加工される。これが自伝の実像である。
では、『余は如何にして』の日記からの引用箇所は、劇化と構成の汚染を免れているのか。
『余は如何にして』の内容の大半がたとえ劇化されていたとしても、日記部分については信 頼できる、と言えるだろうか。日記からの引用部は、未加工の過去を真空包装しているのだ ろうか。秋永芳郎は『余は如何にして』の歴史性を日記部分への信頼に基づいて次のように 述べている。
339 武田友寿『内村鑑三 青春の原像』YMCA出版、1982年、30頁。
340 亀井俊介『内村鑑三 明治精神の道標』中公新書、1977年、79頁。
この本には「わが日記より」と偙註がついているほどだから、日記にもとづいて当時 の心境や批判が語られた真実の記録と受けとってよいだろう。341
結論を言えば、日記は物語的機能でしかない。しかし一般の解釈者はそれを『余は如何に して』の外にある日記とみなし、日記部分を抜粋して再引用する者までいる。たとえば、河 上徹太郎は『余は如何にして』中の日記部分を抜き出し、それに「一八八六年(二五歳)ア マースト大学在学中の日記」342というタイトルを付け、独立した資料として自らの著作に再 引用している。河上徹太郎以外にも、内村の札幌農学校時代やアメリカ留学時代などを論じ る者たちは、「日記によると」という定型句で『余は如何にして』の日記部分を指し示す。
このような日記の再引用は、『余は如何にして』は自伝であるという思い込みに起因する。
自伝に引用されている日記は、より真実に近い過去の事実であろうと読者は期待するので ある。歴史という用語には、出来事と記述という二つの意味が含まれ得るが、『余は如何に して』の読者たちは、日記部分を出来事、他の逸話を記述と理解しているかもしれない。
しかし、平岡敏夫によれば、日記、書簡、自伝、回想などは「事実の記録」343ではない。
彼は「小説は虚構であり、日記や書簡は事実の記録であると言ってみても何にもならな い」344と指摘している。その理由は「書くという行為」が、すでに「方法を意識」している からである345。平岡敏夫によれば、私小説も虚構である346。書き手の無意識の中に「方法」347 が残っている限り、それは虚構である。過去を書くという行為は現在的であり、それは現在 選ばれた形式に規定されている。
では、日記には過去の記憶が反映されているので信頼できるという反応もあるだろう。し かし、記憶にもはやはり「個人の操作、意志、選択という積極性が潜んで」いる 348。記憶 も過去の真空包装とはならない。記憶は、表現される機会を待って眠っている、脳に貯蔵さ れた過去の出来事ではない。平岡敏夫が指摘するように、記憶もまた方法化された表現とい う行為によってその内容が加工される。また、記憶は外部の刺激や作用によっても選別され、
加工される。このため、記憶に過去の事実を探し求めることもできない。
日記の存在は記述者たちにとって、『余は如何にして』が虚構などではなく、過去の事実、
または歴史を伝える記録であるという期待を満足させる証拠であった。そのために、鈴木範 久訳、鈴木俊郎訳などは、『余は如何にして』に基づいて内村の生涯の若年期を吟味すると
341 秋永芳郎『反逆と祈り:内村鑑三の青年時代』読売新聞社、1970年、178頁。
342 河上徹太郎『日本のアウトサイダー』中央公論社、1959年、201頁。
343 平岡敏夫「日記・書簡・自伝・回想-自己記録をどう読むか」『国文学 解釈と教材の研究』(4)、1984 年、54頁。
344 同書、54頁。
345 同書、54頁。
346 同書、54頁。それを「『事実』としての虚構」と呼んでいる。
347 同書、55頁。
348 今関敏子「日記文学に於ける回想と虚構-『建礼門院右京大夫集』を中心に」『日本文学』(33)、1984 年、2頁。