第二章 『余は如何にして』の分析
第五節 教祖の誕生
『余は如何にして』の作者は内村鑑三なのだろうか。
作者としての内村は、自伝の擁護者たちにとって最後の砦であろう。主人公としての「私」
と、作者としての「私」は同一ではない。なぜなら、作品と作者は「別人格」だからである378。 多くの読者は、作者不詳のテクストは解釈不能であり、解釈できても不十分だと考えるか もしれない。しかし、古典のように作者不明の書物も読者を獲得する。『聖書』、『論語』、『老 子』がそうである。作者の不在にもかかわらず、テクストは読まれ得る 379。読者は、作者 についての何らの情報を持たずとも、各書物を読み、理解できる。ところが、作品は架空の 作者を持つことがある。架空の作者を持つということは、単に作者の名が付されることを意 味しない。作者名は概念にすぎない380。
さて、HIBC は二つの作者名を持っている 381。HIBC1895の作者名は Jonathan X であり、
HIBC1913では作者名がKanzo Uchimuraに改変される382。この改変の検討により、解釈の場 がさらに明瞭となるであろう。
以下では HIBC1895、DJC、日本語訳を比較検討する。その方法は、原基晶による『神曲』
の研究に似ているかもしれない。原基晶は、原本が存在しない『神曲』の様々な注釈や版の 違いを検討している。その研究の目的を彼は次のように説明する。
冒頭の三行の読解をめぐって、校訂版、注釈版におけるヴァリエーションを検討し、
さらには1300年代前半の写本(のレプリカ)や、1400年代後半から1500年前半にか けての初期印刷本を参考しながら、その中で読者がどのような役割を果たしてきたか を探りつつ、自分の目の前にあるテキストを「読む」とはどのような行為なのかを捉 え直そう383
このように、筆者もHIBC1895、DJC、日本語訳を資料とし年代ごとに変化する作者名を検 討し、その意味を分析する。原基晶が1991、1994年版の『新曲』の冒頭の三行を研究の糸
378 佐々木健一『タイトルの魔力』中央公論新社、2001年、24頁。
379 Barthes, Le bruissement, p. 74.
380 近代以後の出版は、作家と出版社の契約があるので、作者の仮名、あるいはペンネームで出版されて も、作家の実名は出版社の契約書には記入されていると考えられる。契約書にも作家が仮名で署名し たとしても、出版社の関係者は作者が誰かを知っているはずであろう。これは常識であるが、2006年、
イギリスで出版されたThe Book with no Nameという書物が筆者の関心を引く(Anonymous, The Book with no Name (The Bourbon Kid, 2006)。この書物はファンタジー小説で、作家はAnonymousと記入され ている。本来The Book with no Nameはネット上で人気があった小説であって、イギリスの出版社がそ れを集めて出版した書物である。上述した「古典」の場合のように、The Book with no Nameにも「架 空」の作者が存在し、この「架空」の作者は様々な機能を果たしている。
381 HIBCの出版史に関しては、鈴木俊郎訳『余は如何にして基督信徒となりし乎』、鈴木範久訳『余はい かにしてキリスト信徒となりしか』の説明を参照。
382 HIBC1913.
383 松田隆美編『書物の来歴、読者の役割』慶應義塾大学出版会、2013年、48頁。
口としたように384、筆者もHIBC1895のJonathan X、DJCのKanzo Uchimura、日本語訳の内 村鑑三を検討の糸口とする。
5-1 Jonathan Xは内村鑑三を意味しているのか
HIBC1895の筆名 Jonathan X の正体が内村鑑三であるということは現在、自明となってい
る。この筆名の企図については次のように推測できる。
(1)札幌農学校時代に内村が選んだ洗礼名がJonathanであったから。
I named myself Jonathan.385
(2)内容によって評価してもらいたいとの期待を持っていたから。
In writing my little book, I tried to be a spokesman of heathen-converts in general, and not simply the narrator of my own personal experiences.386
HIBC1895の主人公は「S・A・College」在学中に、洗礼名としてJonathan を自ら選んでい る。そこで、HIBC1895の主人公が内村であるという仮定に基づいて、1880年から1888年ま での内村書簡に記入されている署名を調べてみると、そのすべてが Jonathan の後に Kanzo
Uchimuraが続く形式をとっていることが検討できる387。
Jonathan. Kanzo. Uchimura(原型)
1. Jonathan. Kanzo. Uchimura 2. Jonathan. K. Uchimura 3. Jon. K. Uchimura 4. Jonathan. K. U 5. J. K. U 6. J. K
HIBC1895のJonathan XがJonathan.Kanzo Uchimuraであることを明かす解説は、HIBC1895が
アメリカで出版された時に遡ると考えられる。まず、HIBC1895の出版状況を概観してみる。
1895年5月10日付の『督教新聞』388がHIBC1895の刊行を告知する。この広告は英文と和 文とに分かれている。和文の部分ではHIBC1895の日本語の題目が現在とは異なり、『如何に
384 同書、50頁。
385 HIBC1971, p. 32.
386 『UKZ』(36)、390頁。
387 『UKZ』(36)、3-285頁
388 『基督教新聞』(615)、基督教通信社、1895年、20頁。
して余は基督信徒となりしか』とされ、その作者は「改宗者某著」となっている。この広告 には、内村鑑三の名が載っていない。同広告の英文部も同様に作者名を明かさない。
This book by a well-known Christian, written in English by himself389
しかし、同年 5 月 24 日の同紙の広告では和文部が削除され、英文だけが残される 390。 1895年6月21日の『督教新聞』に始めて『英文「如何にして余は基督信徒となりしか」を 讀む』という題目でHIBC1895の書評が載せられる。この書評はその作者について次のように 述べる。
著者は謎(?)自ら記して「異敎改宗者の一人」と稱し、太平洋の一島民 ジョナサ ン Xと名乘る怪ひ哉。391
この一文は、HIBC1895に載せられている情報と内容を同じくする。しかし書評はさらに詳 細な情報を提供し、その作者を「一東國中の日本の男子」とした上で、同人物の他の著作の 題名(『基督信徒の慰め』『求安録』『日本及び日本人』)を明かし、「其著者の誰なるかを正 當に默會したるをらん、非乎」と述べて、その正体をほのめかす 392。同様に鈴木俊郎訳で も、Jonathan X が「ヨナタン某」393と訳されている。これらの紹介文におけるX はKanzo
Uchimuraをほのめかすと同時に、隠す機能をも果たしていることがわかる。
HIBC1895の主人公が読者に明かす自らの名はJonathanのみであり、Xの部分の正体は物語 の終わりまで秘匿されている。つまり、Kanzo Uchimura は読者に知られてはならないので ある。もし、Xを署名の形式に従ってKanzo Uchimuraに置き換えるなら、Jonathan Xとい う筆名は、Jonathan. K. Uchimuraと推測できる。ラフェイはそれを前提として次のように述 べている。
内村はしばしば「Jon(ジョン)」と短くした。そしてイニシャルを書く場合はしばしば、J.K として、
クリスチャン・ネームを先に書いた。内村は一生クリスチャン・ネームを用い、手紙や本の見 返しなどに自筆で署名されているのが見られる。394
ここでのラフェイは内村文書を詳しく検討しておらず、既存の前提にとらわれている。
Jonathan(あるいは Jon)を構成要素とする筆名が内村を指示するとしても、この形式を持
389 同新聞、20頁。
390 同新聞(617)、1895年(広告)
391 同新聞、10頁。
392 同新聞、10頁。
393 鈴木俊郎訳『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波書店、1935年。
394 ミッシェル・ラフェイ 『なまら内村鑑三なわたし』 星雲社、2011年、50頁。
つ筆名は、1888年4月14日以降は消えてしまうからである。XをK. Uchimuraと仮定すれ ば、HIBC1895のXはマイナスの意味を持つようになる。Jonathan. K. Uchimuraはクリスチャ ン・ネーム(Jonathan)と日本名(K. Uchimura)で構成されている。したがって日本名を伏
せる Jonathan X という英語表記の筆名は、記述者たちが強調したい内村の日本愛を弱めて
しまうからである。Xをどのように解釈するかによってJonathan Xの意味も変わる。
HIBC1895はXについて沈黙している。Xを「否」という意味で解釈するか、隠された記号 として解釈するかは解釈者の判断による。しかし、どの立場で解釈しても X は何かを隠し ている。内村物語の記述者たちがJonathan XのXをどこまで意識したかは判断できない。
Jonathan X のX と関係あるかは、はっきり判明できないが、内村物語の中で、「エックス」
と内村を語る記述は三つ存在する。
(1)「先生はグレット・エックスだと。大なるX、即未知数です」395
(2)「内村自身大きなエックスなので、エックスのものは最後までエックスでしょう ね」396
(3)「内村先生は矛盾のある偉大なエックスである」397
上記の記述が描写しているXは偉大な未知数のエックスであった。
Jonathan Xの正体を内村鑑三と決め込んでしまうと、これまでの内村の定義は崩壊してしま
うのである。Jonathan Xは内村鑑三という現在の定義をG・ジュネットの理論で説明する。
G・ジュネットは作者名を実名、変名、匿名に分けて説明している。Jonathan Xは内村鑑三
であるという前提にしたがえば、Jonathan Xは内村の実名ではなくなる。G・ジュネットに よれば、作者名が変名である場合、そのジャンルが虚構であり、「契約機能の可能性がゼロ」
なのである。それゆえに変名が可能なのである 398。Jonathan X は内村だという前提で検討 すれば、HIBC1895は自伝ではなく、虚構となる。
結論として、HIBC1895のJonathan Xは内村鑑三と無関係な人物として捉えるべきである。
Jonathan Xはその謎めいた筆名だけで、十分に物語の主人公としての機能を果たしているか
らである。
5-1-1 Heathen ConvertとしてのJonathan X
Jonathan X を作者とする書物のタイトル、How I Became a Christianに注目してもらいた
い。同書を異教徒の回心記であるとするなら、主人公の名前はJonathanで事足りるだろう。
物語における主人公は、キリスト教的な回心を成し遂げた人物である。それは書名の後に続
395 『藤井武全集』(10)岩波書店、1972年、113頁。
396 『内村鑑三研究』(10)キリスト教図書出版社、1978年、91頁。
397 矢内原忠雄『内村鑑三とともに』東京大学出版会、1962年、267頁。
398 ジェラール・ジュネット著、和泉涼一訳『スイユ:テクストから書物へ』水声社、2001年、53頁。