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教祖物語の考察

ドキュメント内 伝統物語の系譜学 (ページ 155-170)

第四章 教祖内村像の構築に関する考察

第三節 教祖物語の考察

3-1 『余は如何にして』と教祖物語

宮本要太郎は、自叙伝と教祖伝の差について次のように述べている。

教祖が自らの宗教体験を理解するために自叙伝を書くとすれば、教祖伝はその理解 を少しでも共有したいという志向性に導かれている 。675

この違いを内村物語に適用すれば、前半は『余は如何にして』を、後半部は、内村物語に も当てはまる。A-D群物語はまさに「共有したいという志向性に導かれ」て創出されたの である。内村物語の記述者たちは『余は如何にして』以外の物語を知らなかった。そのため 内村の存命中に、彼らが伝統物語を創出する必要性を自覚することはなかった。内村没後、

教祖の教えと弟子たちの個人的記憶の中で生きることになる。

竹部弘によれば、金光教の信徒たちも、教祖存命中は「眼前に接する教祖に充足しており、

伝記的な希求は余りなされ」なかった 676。教祖没後は、明確な教祖像というより、教団の 教え(慎誡(しんかい)、神訓(しんくん))が教祖像に取って代わったという677。そして、

伝記的な人物像が「教祖が教えを説くに至る信仰形成過程解明へと欲求」678から始まった。

金光教と似た過程を、無教会も内村没後に辿っている。内村物語の体系化以前、無教会主義 が内村没後の空白を充足する。その後、無教会の次世代のため、歴史的な教祖物語が必要と される。その中で、少年向けの伝記が出版された。ただし筆者は、物語創出のきっかけを宗 教団体法対策と日本的基督教の主張に求める。

荒木美智雄は「金光大神」の『覚』と『覚帳』を「自伝としても、その内容・意図におい ても宗教的」であると指摘している679。そして、戦後の『根本典籍』と、現在の『金光教教 典』を制度化された「宗教的テキスト」に位置付けている680

以上の金光教の例からもわかるように、教祖伝が生まれるためには、教祖自身の手による 自伝が必要とされる。無教会の場合、教祖の自伝として内村文書の中から『余は如何にして』

が選ばれた。日本的基督教の定義を同書に容易に投影できたからである。

『余は如何にして』は、記述者たちにとっては歴史とした自伝だが、その内容はあくまで も宗教的であり、たとえそれが集団内で教典として制度化されていなくとも、内村の生涯を 語る際の必修テクストとして格別の位置を占めている。このことはA-D 群物語からも、ま

675 宮本要太郎「教祖伝と民衆宗教」『宗教研究』(81)、2008年、146頁。

676 竹部弘「教祖像の力学」『宗教研究』(83)、2010年、201頁。

677 同書、201-202頁。

678 同書、202頁。

679 荒木美智雄『宗教の創造力』講談社、2001年、58頁。

680 同書、58頁。

た、それ以降、出版されて続けている諸内村伝や研究書からも明らかである。

荒木美智雄は「聖伝」という用語を使っている。聖伝の物語・記述には「聖者、聖人、教 祖といった宗教的人格の生涯の、外面的・歴史的事実の精細な記述、あるいはその人格を取 り巻く歴史的状況の、大なり小なり客観的記述を問題にする傾向が強い」のである 681。こ こで言われている「聖伝の物語・記述」の諸要件を内村物語は満たしている。宗教的自伝は、

「自身の内面性・内面的世界[を語る]であり…自叙伝が語るのは宗教体験の内面性であり 著者自身の立脚点」である。『余は如何にして』の中心も歴史的な記述というより、内村の

「宗教体験」が中心である。つまり、如何に「召命を受けたか」などを中心としている682。 また、内村物語は聖伝のように『余は如何にして』を細分化して内村を具体的に描写してい る。

自伝と聖伝は性格が異なる。例えば、自伝が不動的だとすれば、「聖伝の物語・記述」は、

記述者の目的に沿って選別された資料の再解釈であるから、流動的であると言える。

しかし、両者は、ある意味を読者に伝えようとしている点では共通している。

このような内村物語を初めて批判したのが柏木義円 683であった。彼は、ルターと内村を比 較する物語について、「日本に在て基督敎會を迫害するなどは何程の事にも無え候」と指摘 し、非戦論を打ち立てて貧困な生活を過ごしたと主張する内村物語については、「社會の迫 害など有え候訳にては無」と指摘した。柏木は、このような内村物語は内村崇拝者たちによ るでっちあげであると批判した。ただし、柏木の批判の対象は、『余は如何にして』を基に した伝統物語ではなく、『基督信徒のなぐさめ』を基にした預言者物語であった。

資料の選択と物語の捏造は、内村没後、各無教会集団の正統性に関わる問題の解決策であ ったと筆者は考える。内村像における矛盾した二つの物語は大きく二つで分類できる。一方 は国家に対して語られたもの、他方は日本の主流教会に対して語られたものである。しかし、

両者は共に国家と協力関係にあったことにおいては一つである。

宮本要太郎は「教祖像」の特徴を次のように述べている。

一つは、教祖の卓越性・超越性を強調することによって救済者としての教祖像を打ち 出す「教祖の神格化」の方向であり、もう一つは、さまざまな不幸の中で救いの道を 求め続ける救道者としての教祖像を描き出す「教祖の人間化」の方向である。684

宮本要太郎によれば、教祖像の構築は、「教祖の神格化」と「教祖の人間化」とに分けら れる。そして、それを内村物語に適用すれば、第一章で言及したように前者は預言者として の内村に、後者は日本伝統の継承者としての内村に合致する。

681 同書、59頁。

682 同書、59頁。

683 『柏木義円集』2、未来社、1972年、261頁。

684 宮本要太郎「新宗教教祖伝の成立について」『宗教研究』(80)、2007年、383頁。

3-2 物語の拡張、そして教祖情報の掌握

B・ジョンソンによれば、新しい宗教運動を成長させるためにその教祖の弟子たちが模索 する一般的な方策は、シンボル的な意味によって教祖の特徴を強化することである 685。と ころが、弟子たちによって構築された教祖像と比べると、教祖そのものは、彼らの記述にあ るような特徴を持っていない 686。テクストから得られた作者像に実際性が欠如しているよ うに、弟子によって構築された教団の教祖にも実際性が欠如しているのである。

教祖物語は共同体の解釈によって形成される 687。内村物語の記述者たちは、各物語に結 び付けられている「儒教」や「武士道」という用語の定義に無関心であった 688。ある集団 を存続させるために創出された教祖物語においては、教祖に関する史実より、集団側のイメ ージが先行する。内村物語とは、第二期無教会集団が時代条件―つまり、日本的基督教―に 合わせて再解釈した教祖像なのである。内村物語が引用した用語は、過去の意味をすでに失 っており、時代によって新たに意味を吹き込まれていた。神話化作業の産物としての物語は、

用語の過去の意味の証明を必要とせず、同時代の意味に集中する。このように意味は変動す るが、文字は不変であるため、読者は物語を分析しない限り、それを歴史物語として理解し がちである。ここに神話用語と一般用語の違いがある。

内村物語は教祖伝なのか。内村物語を語った者たちは、内村を教祖化しようとしたのだろ うか。彼らの意図は知りようがないが、テクスト分析によって、解釈者はそれらを教祖伝に 分類できる。永岡崇は、教祖伝には「ジャーナリストや研究者を含めた多様な人々が教祖と される人物について語る行為」も含まれると述べる689。そのような広い意味での教祖伝に、

伝統物語も含まれる。筆者は内村物語を教祖物語として、それが記録された書物を教祖伝と して定義する。本論文は便宜上、教祖物語より、伝統物語と表記する。

伝統物語はしだいに、内村の生涯だけでなく、無教会や内村の信仰と思想をも語るように なる。解釈者は内村物語の拡張の過程をたどることができる。

685 Benton Johnson, “On founders and followers: Some factors in the development of new religious movements,”

Sociological Analysis (53), 1992, p. 4.

686 Ibid., p. 4.

687 リチャード・ボウカム「イエスの思いで:目撃者証言と伝承」『神学研究』(64)、2017年、3頁。

688 R・ボウカムもイエス物語の記述者たちを指して、「彼らは歴史に関心を示さず、むしろ共同体の中で

今育まれている主イエスと信徒らの関係性にのみ関心を示していた」R・ボウカム「イエスの思いで:

目撃者証言と伝承」『神学研究』(64)、2017年、3頁)と述べるが、その無関心は、内村物語の記述者 たちにもあてはまる。

689 永岡崇「新宗教文化の脱教団的展開」『宗教研究』(83)、2010年、199頁。

【図19】

1978年 岩隈直 これは教会の集会とは全く趣きを異にし、昔の儒者が四書五 経を講義したのに似ていた。690

1994年 田中収 内村をしてこのような形でキリスト教を収容させるに至る 準備となったものは、武士の家に生まれたかれを養った 儒

的倫理性 であった。691

1996年 政池仁 儒教を想起させながら無教会について、それは「昔の漢字の 塾にならって聴講者の名札をかかげさせた」と紹介する692

1998年 M・マリンズ 内村が同時代の植村正久や海老名弾正より、儒教の影響 を

く受けていたとし、その根拠として、儒教の学校のスタイル と内村の集会のスタイルとの類似を指摘している693。 2008年 池永孝 内村の思想は、儒教に基盤 を置く純粋無垢なピューリタン

キリスト教の立場である。694

内村の信仰と無教会の特徴が論じられる度に、―それとセットであるかのように―内村 の日本伝統継承者像も語られる。伝統物語は、時間順に流れる内村の生涯を軸としているよ うに見えるが、テクストを俯瞰すれば、それが、日本的基督教という結果を理解させる背景 として機能していることがわかる。

伝統物語はどのように無教会主義の背景として機能しているだろうか。加藤正夫による 幼年物語を例に検証してみたい。

内村の父は高崎藩の藩士で 武芸に達していた が、儒学者としても立派な人で、内村 自身も幼年時代に 四書五経 の名章句は暗誦していた。特に儒教の根本思想であった 忠孝の道徳は、徹底的に教えられて、それを身につけていた。695

この加藤の記述も鈴木俊郎訳を参考としている。加藤は上掲の幼年期物語を語った後、

690 『岩隈直聖書講解双書』(8)、キリスト教図書出版社、1978年、281頁。

691 田中収「内村鑑三と儒教」『名古屋大学法政論集』(154)、1994年、56

692 政池仁『内村鑑三』キリスト教図書出版社、1996年。

693 M・マリンズは内村の集会の特徴を「男女は講堂の左右に分かれて座るように求められた」(M・マリ

ンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』トランスビュー、2005年、91頁)と述べている。しか し、この座り方が内村の儒教教育の影響の実例として挙げられていることは検討を要すると筆者は考 える。

694 池永孝『日本的キリスト教の探求』竹林館、2008年、48頁。

695 加藤正夫『明治期基督者の精神と現代』近代文芸社、1996年、37頁。

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